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【お試し版】戯曲『バーバラ少佐(Major Barbara)』

1905年に書かれて初演された、ジョージ・バーナード・ショーの三大戯曲の一つ『バーバラ少佐』。
救世軍の少佐であるバーバラを主人公に、巨大な大砲工場の社長である父親のアンドリュー・アンダーシャフトを交え、「火薬と救済」をテーマに描かれる本作。マンガ『ヨルムンガンド』にも引用され、ショーの数多い戯曲の中でも最高に数えられる戯曲だが、残念ながら、現在では邦訳ではほとんど手に入らない状況にある。
そこで、今回、第一弾となる上地王植琉の私訳古典シリーズでは、『バーバラ少佐』を新たな訳とともに注釈付きでお送りする。

原作:ジョージ・バーナード・ショー
翻訳:上地王植琉

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よろしければ、ご支援よろしくお願い致します。
※本作はパブリックドメイン作品を新たに訳したものになります。


【Youtubeに紹介動画をあげています】



第一幕
場所:ウィルトン・クレセントのブリトマート夫人の家

 一月のある夕食後、ウィルトン・クレセント街にあるブリトマート・アンダーシャフト夫人宅の書斎。ダークレザーの革張りの大きくて快適な長椅子が、部屋の中心に置かれている。この席に座ると(現在は空席だが)、右手にはブリトマート夫人の執筆机があり、ブリトマート夫人本人がそれに向かって忙しそうにしている。その背後の左手の後ろには小さな執筆机があり、ブリトマート夫人側の後ろにはドアがあり、その左手には腰高窓がある。窓の近くには肘掛け椅子がある。

 ブリトマート夫人は五十代かそこら辺の女性で、身なりはよいが自らの服装には無頓着、育ちはよいが自らの礼儀作法などをまったく意に介せず、礼儀正しいが、あきれるほどに無遠慮な物言いで、自らに対する意見には無関心、愛想はよいが横柄で独断的、そして我慢ができないほど高飛車で、その上、まさに上流階級の典型的な取りしきり屋の婦人である。しかし、そんな彼女も口やかましい母親に成長するまでは、いたずらっ子として扱われていたが、最終的に家庭や階級に限定するという、もっとも奇妙に制限された豊富な実務能力と世俗的な体験を得ることに落ち着いた。彼女はウィルトン・クレセントの大きな家はまるで宇宙のようだと想像したが、その仮定にも関わらず、彼女の私物スペースはとても効率的に埋められていき、図書室の本や壁の写真、ポートフォリオの中の音楽、新聞の記事などは、すっかり自由主義に啓蒙されていた。

 彼女の息子、スティーブンが入ってくる。

 彼は二五歳に満たないまじめで礼儀正しい青年で、自分自身を真摯に受け止めてはいるものの、未だ母親にいくらかの畏怖の念を抱いており、それは弱い性格からというよりは、むしろ子どもじみた習慣や独身男性にありがちな内気さからきていた。

スティーブン   「なんだい、母さん?」
ブリトマート夫人 「ちょっと待って、スティーブン」

 スティーブンは言われたままに長椅子まで歩いて腰を下ろし、『ザ・スピーカー 』を手に取った。

ブリトマート夫人 「読み始めてはいけません、スティーブン。集中して聞いて」
スティーブン   「それだったら待っている間だけなら……」
ブリトマート夫人 「言い訳しないで、スティーブン(スティーブンは『ザ・スピーカー』を下ろした)さあ(夫人は書き物の手を止めて立ち上がり、長椅子にくる)それほど長くはかからないと思うわ」
スティーブン   「わかったよ、母さん」
ブリトマート夫人 「私のクッションを持ってきて(スティーブンは机の椅子からクッションを取って、長椅子に座る彼女のために形を整えた)さあ、座りなさい(スティーブンは座って神経質そうにネクタイをいじくる)タイをいじらないで、スティーブン。それには何の問題もありませんよ」
スティーブン   「ごめんなさい(スティーブンは代わりに時計の鎖をいじる)」
ブリトマート夫人 「さあ、聞いてちょうだい。今、あなたは私の面倒を見てくれているわよね、スティーブン?」
スティーブン   「当然だよ、母さん」
ブリトマート夫人 「いいえ、当然ではありません。私はあなたの毎日の当然の心づかい以上のものを望んでいるのです。スティーブン、これからあなたにとても真剣な話をします。お願いだから、その鎖を放っておいて」
スティーブン   「(急いで鎖から手を放し)えーと、何かあなたを悩ませることでもしましたか、母さん? もしそうなら、それはまったく意図していませんでしたが」
ブリトマート夫人 「(驚いて)ナンセンス!(多少の後悔とともに)ああ、私のかわいそうなぼうや、私があなたに腹を立てていると考えていたのですか?」
スティーブン   「それなら、何ですか、母さん? あなたはボクをとても不安にさせています」
ブリトマート夫人 「(積極的に調子を合わせるようにして)スティーブン、あなたが大の男であり、私がただの女に過ぎないということを、一体いつになったら気づくつもりですか?」
スティーブン   「(ビクッとして)ただの女って……」
ブリトマート夫人 「私の言葉を繰り返さないで! お願いだから。それはもっともしゃくに触る癖の一つですよ。スティーブン、あなたは真剣に人生に向き合うことを学ばなければなりません。私はもはや家の重荷に耐えることはまったくできないのですよ。あなたに助言してもらわねば。あなたは責任を持たねばなりません」
スティーブン   「ボクが!?」
ブリトマート夫人 「ああ、そうね。それは当然のことだわ。去年の六月であなたは二十四歳になりました。ハーロー校とケンブリッジにも通いました。インドや日本にも行ったことがあります。今では多くのことを知っているでしょう、あなたが呆れるほどに時間を無駄にしたのでなければね。さあ、どうぞ。私に助言なさい」
スティーブン   「(かなり困惑して)母さんも知ってるでしょう、ボクが家事に余計な口出しをしたことは一度だって――」
ブリトマート夫人 「いいえ、そういうことではないわ。あなたに夕食についてあれこれ指図されたくないもの」
スティーブン   「ああ……。その、つまり、ボクらの家族の問題についてか」
ブリトマート夫人 「そう、あなたは今、すぐにでも口を出さねばなりません。彼らは私の手に負えなくなってきています」
スティーブン   「(困ったように)ボクもそうすべきだと思ったことはあります。ですが、母さん、実際のところボクは彼らについてこれっぽっちも知らないのです。そして、知っていることといえばとても酷いもので、いくつかは母さんに伝えることができないものだってあります(彼は口を閉ざし、恥じている)」
ブリトマート夫人 「……あなたの父親のことですね」
スティーブン   「(ほとんど聞き取れないほどに)そうです」
ブリトマート夫人 「スティーブン、私の愛する息子……私たちが彼に触れずに一生を過ごしていくことはできないわ。もちろん、私に聞かれるまでこの話題に触れなかったのは正解でした。だけど、今はあなたもいい年ごろで信頼できるので、父親とあの娘について助言してくれるわよね?」
スティーブン   「だけど、妹たちなら平気だよ。みんな婚約しているじゃないか」
ブリトマート夫人 「(得意になって)そうね。私はサラにとてもお似合いの相手を見つけました。チャールズ・ローマックスは三十五歳で大金持ちになるでしょう。ですが、それは十年後の話。その間、彼の財産管理人は、父親の遺言書の条件で、年間八〇〇ポンド 以上を与えることができません」
スティーブン   「だけど、遺言書には彼が自分自身の努力で収入を増やせば、その収入は二倍になるとも書いているよ」
ブリトマート夫人 「チャールズ・ローマックスの努力は、彼の収入を増やすよりもむしろ減らす可能性のほうが高そうね。サラは今後十年の間、少なくとも年にもう八〇〇ポンドを手に入れなければならないみたいですが、もっとも、それでも彼らは教会のネズミと同じぐらい貧しくなるでしょう。それで、バーバラはどうなるのでしょう? 私はバーバラがあなた方全員の中でもっとも華々しい一生を送るだろうと思っていましたが。あの娘は何をしているんです? 救世軍 に入隊し、メイドを解雇し、週に一ポンドで生活し、ある晩などは道で引っ掛けたどこぞのギリシャ語教授と一緒に散歩していたそうですね。彼は彼で救世軍の軍人のふりをして、事実、公の場で彼女のために太鼓持ちをする……というのも、彼は彼女への愛にすっかり真っ逆さまですからね」
スティーブン   「彼らが婚約したと聞いた時には、ボクも呆気にとられました。ですが、カズンズはとてもいい奴ですよ。彼がオーストラリア生まれなんて誰も思わないでしょうね。 ただ……」
ブリトマート夫人 「まあ、アドルファス・カズンズはいい夫になるでしょう。一度は教養ある紳士の証だと太鼓判を押されたギリシャ語を否定する者はいないですもの。それにね、彼がつむじ曲がりのトーリー党 員じゃないことに感謝していますよ。私たちは代々ホイッグ党 で、自由を信じていますから。あの紳士気取りの連中には好きなように言わせておけばいいわ。バーバラが結婚するのは彼らの好きな相手ではなく、私が好きな相手ですからね」
スティーブン   「もちろん、ボクも彼の収入のことだけを考えていました。ですが、彼は贅沢しそうにありませんよ」
ブリトマート夫人 「それを確信しすぎてはいけませんよ、スティーブン。私はアドルファスのような物静かで、率直で、洗練された詩的な人は、何事にも最高のものに満足することを知っています。彼はあなたの言う贅沢な二流の浪費家以上にお金がかかるのです。いいえ、バーバラには最低、年に二〇〇〇ポンドは必要でしょう。あなたにはそれが二世帯分の家計が加わるということがわかるはずよ。……それに、あなたも早く結婚なさい。私は今風の色恋に耽る独身男性や晩婚化には賛成できないわ。私はあなたのために何とかしようとしているのよ」
スティーブン   「母さん、それはあなたにはとても都合がいいことでしょう。だけど、もしかすると、それについはボクが自分自身で取り計らった方がいいのかもしれない……」
ブリトマート夫人 「ナンセンス! あなたは結婚の仲介を始めるには若過ぎるわ。どうせ、小さくてかわいらしい取るに足らない娘に心惹かれるのでしょう。当然、あなたが口を挟んではいけないとか、そういう意味ではないわ。それはわかっているでしょう?(スティーブンは唇を閉ざして沈黙している)ほら、ふてくされないで、スティーブン」
スティーブン   「別に拗ねてないよ、母さん。なんでこのことが父さんと関係あるのさ?」
ブリトマート夫人 「……あらあら、私のかわいいスティーブン。お金はどこからくるのですか? 同じ家で暮らしさえすれば、あなたも他の子どもたちも私の収入でも充分に生活できるでしょうが、家族四人をそれぞれ四つの家に分けて養うことはできません。あなたも私の父の貧しさは知っているでしょう。年収七〇〇〇ポンドがやっとですし、事実、もしスティーブニッジ伯爵でなければ、彼は社交界に出るのを諦めなければならなかったでしょうね。……だからこそ、父は私たちのために何もしてくれません。当然ながら、どうして私が大金持ちの男の子どもを食わせなきゃならんのだ、と言われています。ええ、聞いての通りですよ、スティーブン。あなたのお父様が途方もない大金持ちでなくて何でしょうか。なぜなら、いつもどこかで争いは起こっているのですからね」
スティーブン   「そのことを思い出させる必要はないよ。ボクが生きてきた中で、新聞を開いてボクたちの名前が載ってないことなんてほとんどなかったから……。アンダーシャフト魚雷! アンダーシャフト速射砲! アンダーシャフト一〇インチ砲! アンダーシャフト隠顕式要塞砲! そして今度はアンダーシャフト航空戦艦! ハーロー校では『ウーリッジぼうや 』って呼ばれたよ! ケンブリッジでもだ。キングス・カレッジでは、いつもいたずらばかりするあの小さな野蛮人が、ボクの聖書――母さんがくれた最初の誕生日プレゼントなのに――を、ボクの下の名を書くことで台無しにしたんだ。『死と破壊の大商人、アンダーシャフトとラザラスの息子と娘を、全キリスト教徒と全ユダヤ教徒へ差しあげる』ってね。だけど、それは方法としてはそう悪くなかったよ。父さんは大砲を売って大儲けしていたから、ボクは至るところでペコペコと頭を下げていたんだ。そのことに比べればね!」

ブリトマート夫人 「それは大砲だけでなく、大砲のために与えられた与信枠に乗じてラザラスが手配している戦時公績もです。あなたも知っているでしょう、スティーブン、それはまったく恥ずべきことです。あの二人、アンドリュー・アンダーシャフトとラザラスは、ヨーロッパを手に入れ、言いなりにしています。だから、あなたの父親は彼のしたいように行動できるのです。彼は法律を超越しています。あなたはビスマルク やグラッドストン やディズレーリ が公然と、あなたの父のように、あらゆる社会的、道徳的な義務に一生背いていられると思いますか? 彼らは単純にそんな挑戦心を持ち合わせてないでしょう。私はグラッドストンにこのことを取り上げるように頼みました。『ロンドン・タイムズ』にも頼みました。チェンバレン卿 にも頼みました。でも、それはスルタン に宣戦布告してくれと頼むようなものでした。彼らは決してしなかった。彼らはアンドリュー・アンダーシャフトには手を出せないと言っていました。恐れていたのでしょう」

スティーブン   「何ができるんだろうね? 彼は実際には法律を破っていないんだし……」
ブリトマート夫人 「法律を破ってないですって! 彼は常に法律を破っていますよ。彼は生まれた時に法を破っています。彼の両親は結婚していなかったのですから」
スティーブン   「母さん! それは本当ですか?」
ブリトマート夫人 「もちろん本当です。それで私たちは別居したのですから」
スティーブン   「彼はそれをあなたに知らせずに結婚したんですね!」
ブリトマート夫人 「(この推論にむしろ面食らって)ああ……アンドリューの正義のために言っておくと、彼はそんなことはしなかったわ。それに、あなたはアンダーシャフト家のモットーを知っているでしょう。恥じることなかれ。誰もが知っていることです」

スティーブン   「でも、母さんはそれが別居した理由って言ったじゃないか」
ブリトマート夫人 「そうね、なぜなら彼は彼自身が捨て子であることに満足していなかったからです。彼は別の捨て子のためにあなたの相続権を取り上げようとしました。私はそれに耐えられなかったの」
スティーブン   「(恥ずかしそうに)そ、そ、それってつまり……」
ブリトマート夫人 「どもらないで、スティーブン。はっきりと喋りなさい」
スティーブン   「だけど、これはボクにとってはぞっとするようなことですよ、母さん。こんなことを話すなんて!」
ブリトマート夫人 「私にとっても気持ちのいいものではありません。とくにあなたがあまりにも子どもじみて困惑すれば、問題を悪化させてしまいますからね。世の中に邪悪な人間がいることを発見した時、その人は間抜けで無気力な恐慌状態に陥る、それは中産階級においてだけです、スティーブン。私たちの階級ではね、その邪悪な人間をどうするのかを冷静に決めなければならないのです。さあ、きちんと質問しなさいな」
スティーブン   「母さん、あなたはボクへの思いやりがありません。お願いですから、あなたがいつもそうしているように、子ども扱いして何一つ教えないか、あるいはすべてを打ち上げ、ボクに出来る限りのことをさせてください」
ブリトマート夫人 「あなたを子ども扱いしろですって! それはどういう意味ですか? そんなことを言うのは、最も不親切で恩知らずです。あなたも知っているように、私は誰一人として子ども扱いしたことはありません。私は同輩や友達にするように、あなたに好きなことをしたり言ったりする完全な自由を許してきました。私が認められるものをあなたが好む限りは、ですが」
スティーブン   「(思いあまって)そりゃそうでしょうよ。ボクたちは完璧な母親の不完全な子どもでしたから。……でも、お願いですから、一度でいいからボクに構わず、もう一人の息子のためにボクを放りだすことを望んだ、父の身の毛もよだつような行動について教えてください」
ブリトマート夫人 「(驚いて)もう一人の息子! そんなことは一度も言ってませんよ。そのようなことを言われるとは夢にも思っていませんでした。これが私の話の腰を折った結果です」
スティーブン   「で、でも母さんはそう言って――」
ブリトマート夫人 「(彼の言葉を短く遮って)さあいい子にして、スティーブン、私の話を辛抱強く聞きなさい。アンダーシャフト家は、シティの聖アンドリュー・アンダーシャフト教区の捨て子の血を引いています。それは遠い昔、ジェームズ一世 の治世にね。この捨て子は武器職人と銃職人の養子になったの。やがて時が経ち、その捨て子が事業を引き継ぎました。そして感謝の念から、あるいは誓約の意志や何かで、彼は別の捨て子を迎え入れて、仕事を任せたのです。そして、その捨て子も同じことをしました。それ以来、歴代のアンドリュー・アンダーシャフトは捨て子を養子に迎え入れて教育を施し、この大砲事業を任せることにしているのです」
スティーブン   「だけど、彼らは結婚しなかったの? 歴代のアンドリュー・アンダーシャフトには正式な息子がいなかったの?」
ブリトマート夫人 「そうね、彼らはあなたの父親がしたように結婚し、自分の子どものために土地を買って充分に養うことができるほど裕福でした。しかし、彼らは事業を引き継がせるために、常に何人かの捨て子を養子にして訓練し、そして当然ながら、そのことで怒り狂った妻たちと激しく口論したのです。あなたの父親はそのように養子として受け入れられました。そして彼はその伝統を維持する義務があり、事業を引き継がせるために誰かを養子として迎え入れようと考えているのです。当然、私はそれに耐えられませんでした。アンダーシャフト家が彼らと同じ階級の女性としか結婚できなかった時には、その息子が広大な土地を治めるのに相応しくないなど、それなりの理由があったのかもしれません。……ですが、私の息子を見捨てる言い訳にはならないでしょう」
スティーブン   「(怪訝そうに)残念ながら、ボクでは大砲鋳造所の経営収支を悪化させてしまうと思いますが」
ブリトマート夫人 「ナンセンス! 経営者を雇って給料を払うなんて簡単にできるでしょう」
スティーブン   「父さんは明らかにボクの能力を評価していないけど……」

ブリトマート夫人 「ばかげたことを、ぼうや! あなたはまだ赤ん坊だったのですよ。能力とは関係ありません。アンドリューは自らの主義に従ってそれを行ったに過ぎません。彼がひねくれた意地の悪いことをすべて主義通りに行ってきたようにね。私の父が諫めた時、アンドリューは父に面と向かって歴史は二つの成功した組織だけを伝えていると言いました。一つはアンダーシャフト社、もう一つはアントニヌス帝政下のローマ帝国 。なぜならアントニヌスの皇帝たちはすべての後継者を養子にしていたからだと。そんなくだらないことを! スティーブニッジ家はアントニヌスに負けず劣らずです。そして、あなたはそのスティーブニッジ家の人間なのです。だけど、あれはまったくアンドリューらしかった。やはり男ですね! 彼が馬鹿らしくて邪悪なものを擁護する時はいつも賢くて誰も答えられないのに、彼が気づいて良識ある行動をしなければならなかった時は、いつも無様で不機嫌なのよ!」

スティーブン   「それでは、あなたの家庭生活が壊れたのはボクの責任ですね。母さん、申し訳ありません」

ブリトマート夫人 「まあ、でもね、他にも意見の相違があったのよ。私は不道徳な男には耐えられませんが、偽善者でもありませんので、彼の単に間違っている行為を気にするべきではなかったのね。私たちは完璧な人間ではないのですから。……だけどね、あなたのお父さんは間違ったことをしていたわけではなく、言っていたこと、考えていたこと、それがとても恐ろしいことだったの。彼は本当に間違った宗教のようなものを持っていました。彼らが道徳を説くことによって、自分たちが間違っていることを認めている限り、不道徳を実践していても、誰もが気にしないようにね。……だから、彼が道徳を実践している一方で不道徳を説いていたことに対して、私はアンドリューを許すことができなかったのです。もし彼が家の中にいたら、あなたがたには道義もなく、善悪の知識も何もなしに成長していたことでしょう。あなたも知っているように、あの人、あなたの父親はある意味ではとても魅力的な人でした。子どもたちは彼のことを嫌いではなかったから、彼はそれを利用して、子どもたちの頭の中に最も邪悪な考えを吹き込み、子どもたちをまったく手に負えない状態にしたの。私自身は彼のことを嫌いではなく、そんなことは断じてなかったけれど、道徳的な不一致を乗り越えるのはどうすることもできないのよ」

スティーブン   「これにはただ動揺させられるばかりです、母さん。意見の分かれる問題について、あるいは宗教についてでさえも、人々の意見は異なるかもしれません。ですが、どうすれば善悪を区別することができるのでしょうか? 正しいものは正しい、間違っているものは間違っている。もしそれをしっかり区別することができないのなら、その人は愚か者か悪党かのどちらかです。ただそれだけのことですよ」

ブリトマート夫人 「(感動して)それでこそ私の息子です!(彼の頬を撫でて)あなたのお父様はそれに答えることができませんでした。彼はよく笑って、愛想のない戯言に乗じて、その話題から逃げ出したものです。……それで、あなたが状況を理解した今、私に何をしろと助言してくれるのですか?」
スティーブン   「さあ……。何ができるんだろう?」
ブリトマート夫人 「私はどうにかしてお金を手に入れなければなりません」
スティーブン   「父さんからお金を取ることはできないね。あの人のお金の一部を取るぐらいなら、むしろ喜んで出ていって、ベッドフォード・スクエアやハムステッドのような安いところに住むよ」
ブリトマート夫人 「だけどね、スティーブン。結局、私たちの現在の収入はアンドリューからのものなのですよ」
スティーブン   「(衝撃を受けて)し、知らなかった……」
ブリトマート夫人 「そうね、あなたの祖父が私にくれるものを何も持っていないなんて、よもや思わなかったでしょう。スティーブニッジ家はあなたのために何から何までしてあげることはできません。私たちはあなたに社会的な地位を与えました。アンドリューは何かを与えなければならなかったの。それで彼はとてもいい契約をしたんだと思うわ」
スティーブン   「(苦々しく)ボクたちは父さんと父さんの大砲に完全に依存しているんだ!」
ブリトマート夫人 「とんでもない。お金のことは解決しているんだけど、彼が渡してくるのです。だから、彼からお金を取るか取らないかの問題ではなく、単にいくらかの問題なのです。私は自分のためにこれ以上はいりません」
スティーブン   「ボクだってそうさ!」
ブリトマート夫人 「だけどね、サラもそうやって、バーバラもそうするでしょう。つまり、チャールズ・ローマックスとアドルファス・カズンズの方がよぽど高くつくということです。だから私が思うに、私は自分のプライドをポケットに入れて、そのお金を求めないといけなくなるでしょう。これがあなたがしてくれる助言ですよね、スティーブン、そうでしょう?」
スティーブン   「いいえ」
ブリトマート夫人 「(厳しく)スティーブン!」
スティーブン   「もちろん、決心が固いなら――」
ブリトマート夫人 「決心したわけではありません。私はあなたの助言を待っているのです。この身に降りかかるすべての責任を背負うつもりなんて、私には毛頭ありませんから」
スティーブン   「(頑なに)お金を要求するぐらいなら死んだほうがマシだ」
ブリトマート夫人 「(仕方なく)……つまり私から頼めというわけね。いいわ、スティーブン。あなたの言う通りにしましょう。お祖父さまもそれを知ってきっと喜ぶでしょうね。彼は娘たちに会いにここに来るよう、私からアンドリューに頼むべきだと考えているの。結局、アンドリューだって、いくらかは子どもたちに対する生まれながらの愛情を持っているはずだしってね……」
スティーブン   「ここに父さんを呼ぶだって!?」
ブリトマート夫人 「私の言葉を繰り返さないで、スティーブン。他のどこに呼ぶっていうの?」
スティーブン   「ボクはここに父さんを呼ぶなんて思ってもみなかったよ」
ブリトマート夫人 「こちらから呼ぶだなんて冗談じゃありませんよ。スティーブン、いいですか! お父様が私たちを訪問する必要がある、そうでしょ?」
スティーブン   「(しぶしぶながら)……もし妹たちが彼のお金なしでやっていけないなら、そうでしょうね」
ブリトマート夫人 「ありがとう、スティーブン。正しい説明をすれば、適切な助言をしてくれると私はわかっていました。今晩、私はあなたのお父様に来てもらうよう頼みました(スティーブンは自分の椅子から跳ね上がった)跳ねないの。いらいらさせないで」
スティーブン   「(とても狼狽して)と、父さんが今夜ここに来るってことは、い、今すぐにでもここに来るかもしれないってこと?」

ブリトマート夫人 「(彼女の時計を見て)私が言おうとしたのは九時です(彼は息を飲んだ。彼女は立ち上がって)ベルを鳴らしてちょうだい(スティーブンは小さい執筆机のところへ行き、そのボタンを押した。そしてテーブルに肘をつき、頭を抱えたまま座って、鼻を明かされ打ちのめされている)まだ九時十分前ですが、私はあの娘たちの準備をしなければなりません。私がわざわざチャールズ・ローマックスとアドルファスを夕食に誘ったのは、彼がここにくると思ったからです。アンドリューは彼らに会ったほうがいいわ。万が一にも、彼らが妻を養っていけるなどという妄想を抱いているといけないしね(執事が入ってきた。ブリトマート夫人は彼と話すために長椅子の後ろに行く)モリソン、今すぐに客間にいってみんなにここへ来るように言ってちょうだい(モリソン、退出。ブリトマート夫人はスティーブンのところに戻ってくる)いいですか、スティーブン。あなたの権威と落ち着きが必要になるでしょうから(彼は立ち上がり、少しでも威厳を取り戻そうと努めた)椅子をちょうだいな、いい子だから(彼は椅子を壁から押し出して、彼女が立っている小さな執筆机の近くに持ってきた。彼女が座ると、彼は肘掛け椅子に行き、身を投げる)バーバラがどう受け取るかは私にはわからないわ。救世軍の少佐になってからというもの、あの娘は自分勝手に押し通し、人に命令する傾向が出てきて、時々、私はまったく驚かされますよ。彼女がどこでそれを覚えたのかはわかりませんが、おしとやかじゃありませんね。いずれにしても、バーバラが私を脅すようなことはありませんが、彼女が会うのを拒んだり、騒ぎ出したりする前にあなたのお父さんがここに来てくれたほうが、かえって好都合なの。さあ、緊張しないで、スティーブン、それはバーバラがごねるのを助長するだけよ。私も十分に緊張しているけど、でもね、それは『神のみぞ知る』、見せないようにしているのよ」

――つづく【お試し版はここまでです。続きは製品版でお楽しみ下さい】


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