人付き合いが怖い
人付き合いが怖いとは自分らしいというユニークな自分で他人と接しておらず、苦しくなっている状態である。
PTAの役員での発表の時、声が震えてしまわないか怖いスピーチ恐怖
厳しい上司との会食で緊張して食事が喉を通らない会食恐怖
お腹が痛くなるのを恐れて急行電車に乗れない
人前で字を書く時、緊張で手が震えて字が書けない書痙
人前で電話する時過緊張し、恐怖を感じる電話恐怖
自分の顔が他人から見たら醜いのではないかと不安になる醜形恐怖
自分の視線や他人の視線が怖い視線恐怖
など人付き合いが怖い症状は多岐にわたる。
人付き合いが怖い心理状態を医学的には社交不安障害、古くは対人恐怖症と呼称したりする。
疲れる気遣いをしている人は、等身大の自分で人と接していない。
つまり、ありのままの自分で人と接していないナルシストである。
自分の決めつけられた常識という色メガネで他人を判断し、客観視できていないことが人付き合いが怖いという意識に繋がる。
逆に、無意識では理想とする人を憎んでいたりする。
親などそれに当てはまる。
子どもは皆、親を人生の先生として成長する。
親の教えと本来の自然体の自分との間の葛藤に人付き合いが怖いという感情を生む。
そんな親の重い十字架という等身大の自分でない背伸びした自分で人と接しているとビクビクするようになる。
人付き合いが怖い原因
人付き合いが怖い原因は、遺伝と養育環境の二つに分けられる。
遺伝
遺伝では対人関係に内向的になりやすいs遺伝子と対人関係に楽観的になりやすいl遺伝子とが存在しその組み合わせで人付き合いへの関係性が決定される。
ss遺伝子が一番、人付き合いに思慮深く、ll遺伝子が一番、外向的で、sl遺伝子がその中間的存在である。
しかし、人間関係に一番の不要素がss遺伝子と考えてはならない。人間関係に慎重だからこそ、トラブルに巻き込まれる要素も小さくなる。
養育環境(厳しい躾け)
その遺伝のプロトタイプに養育環境が大きく重なり人付き合いに対する傾向が決定する。
養育環境が人付き合いが怖いという感情にどのように関係するかということであるが、ずばり愛情不足と厳しい躾によって決定される。
愛情不足とは、泣きやむ赤ちゃんをあやさず放置したり、幼少期から親と離ればなれになったりすることによるホルモンの変化である。
厳しい躾とは、例えば左利きの子どもを右利きにしようとしたり、食欲がないのにご飯を残すことは悪いことだと言って、無理矢理叱ったりするといったようなことである。
そのような厳しい躾によって、「ありのままの自分ではいけないんだ」という自己肯定感の低さが、人付き合いが怖いという感情に大きく影響するのである。
敏感性性格の誕生
ひかえめで、平和に仲良くゆずる人の裏側は悲劇である。
敏感性性格の人はいつも物事を丸く収めようとする。
そして他人の言動に惑わされ、自分を信じられない原因になる。
自分を信じられないと、相談できない悩みを打ち明けることができなくなり、最終的には人付き合いにおいてくやしい気持ちになる。
敏感性性格のくやしさの対極にあるのが利己主義である。
もちろん人付き合いにおいてビクビクする人とビクビクしない人がいる。
元気になる気遣いと疲れる気遣いがある。
仲の良い友達ならビクビクしないが、会社の厳しい上司の前ではビクビクする。
これは正常である。
人が怖い人は、その怖さに立ち向かっていくからであり、怖い気持ちを仁王立ち地で真正面から受け止める必要がある。
人付き合いが怖いを克服する方法
恐怖を受け入れる勇気とその無意識の中にある恐怖を見つける客観視
人付き合いが怖いを克服する方法は無意識の中にある恐怖を見つけ、それを受け入れることである。
会社の厳しい上司の前でビクビクすることを受け入れる。
ママ友の輪の中で人見知りしてしまう人は、人見知りを受け入れる。
そうするとつながりを感じられるようになり、ひとりは孤独ではなくなる。
人は安心や感謝を与えるとその分安心や感謝が返ってくるようになっている。
ショックな出来事で強い孤独感を感じ、ひとりぼっちになることもある。
しかし、与えることでひとりぼっちは楽になる。
感謝の気持ちも生まれる。
これで人付き合いが怖い人は救われる。
逆にやってはいけないことは厳しい上司の前ではビクビクしないようにしようといったことや、人前でスピーチで声が震えないようにしようといったことである。
しかし、実はそういった自分を裏切る、完璧主義の人たちはこのことがうまくできない。
そういう敏感性性格の人は人付き合い上の見栄をはる。そして見栄をはると、ひとりぼっちが辛くなる。
敏感性性格の人がひとりぼっちが辛いのは、人に嫌われるのが怖いからである。
人と群れる人である。
しかし、変化してこそわかるもののありがたさがある。
人付き合いの中で怖いと思っていることを受け入れるにはもちろんただでは済まない。
大きな勇気がいる。
その勇気の先には、大きく得る物がある。
それは、自分が恐れていたものってこんなもんだったんだ。というあっけない、それでいて大切なものである。
人付き合いが怖い人は親の厳しい躾けという十字架を背負っていてそれに気付かない。
人前で声が震えることを格好悪いというダメなことという十字架を背負っているのに気がつかない。
当たり前のことと思っている。
その、背負っている十字架に気づいて、初めてその恐怖と向き合うことができる。
その無意識にある十字架に気づくには、人付き合いを客観視することである。
もしかしたら、人前で声が震えることは真面目な印象を与えるかもしれないといったような客観視。
そのような客観視ができて初めて恐怖と勇気を持って向き合うことができるのだ。
他人の目が気になる人は他人との接し方を変えることである。
心理的距離を離すと人付き合いが楽になる
また、人には心理的距離というものがある。
ヤマアラシのジレンマである。
そういう人恋しい人は人付き合いで他人に依存している。
人との心理的距離が近すぎるから苦しいのである。
その理由としては、幼少期の家庭環境に原因があるとされている。
例えば、ご飯は残さず食べなきゃいけないとか人前では堂々としていなきゃいけない等と教え込まれるとその思考が後々、会食恐怖やスピーチ恐怖といったことに影響を及ぼす。
あなたの周りに例えば会議などでいつも声が震えてしまうけれど平気な人などいないだろうか。
そんな人が周りにいないだろうか。
もしいたらラッキーである。
人付き合いが苦痛を解消する手がかりになるからである。
そういう人のことを安全基地という。
そういう人と上手く付き合い、弱点を見せてもいいや。と思う勇気さえ培えれば、人付き合いが怖いを克服できる。
失敗から学ぶことで、高尚や低俗を超えた自由になれる。
しかし再び、世の中のことはいいことずくめということはない。
役割を媒介とするつきあいは、私的世界を露呈させないですむから、たしかに、人間関係はあっさりしたものになり、人付き合いの気苦労は少なくて済む。
自分の存在もふれ合いの縁
ところが役割は永遠ではない。
定年になればなくなるものである。
人付き合いは職業的役割だけではない。
親としての役割も、子どもが一人前になると、ほとんどなくなってしまう。
配偶者としての役割も配偶者が他界すればなくなってしまう。
友人としての役割も友人が転勤・他界すればなくなってしまう。
そこで役割を媒介としてしか人生とかかわりあいをもたなかった人は、役割の喪失とともに人生と分離してしまうことになる。
これはたぶん、耐えがたいことだと思う。
役割を越えた人付き合いーこころのふれあいーを持てる人はこういうことがない。
他とのふれあいを持っている限り人間は生への意欲を失わないし、餓鬼畜生道に陥ることもない。
というのは、人間は本来「世界内存在」だからである。
世界内存在とは、人間は他との人付き合いにおいてはじめて存在しうるものである、との意である。
われわれはけっして自力で生きているわけではない。
緑があって生きているのである。
縁があって生きているとは人さまのおかげで生きているということである。
たとえば父母がいなければ自分はいなかったのである。
父母の両親がいなければ父母はいなかったのである。
したがって自分もいなかったのである。
さらに父母を結びつけた仲人がいなかったら父母はいなかったのである。
したがって自分はいなかったのである。
仲人を生んだ親がいなければ仲人はいなかったのである。
したがって私の父母はいなかった。
その結果、今こうして記事を書いている自分はいなかったのである。
こういういい方はいかにも小学生なみの話の展開法であるが、私にいわせると、これが「世界内存在」である。
他との関連なしには人間は存在しないとはこのことである。
このことを知れば、おのずから人に対する感謝、人生に対する指針が生じてくると思う。
つまり人生が自分に対して好意的なものとして映るようになり、人付き合いが怖い心理状態から脱却できる。
それゆえにこそ人生に対し、人に対し自分を聞く心境になるのである。
つまり、ふれあいを求めずにはおれなくなるのである。
人付き合いが怖いを克服した後の感じ
人付き合いが怖いを克服した後の感じというのは、地に足がしっかり着いて、生きているということにエネルギーを感じ、等身大の自分で他人と触れ合うことはなんて素晴らしいことなんだ、と感じるようになる。
そして、何より他人に優しくできるようになる。
なぜなら、苦しい気持ちを自分自身で知っているからである。
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