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撮影は美しさの記録という名の暴力?

 どのように写真を撮ろうが、万人に愛される写真を残すことは難しいのではないだろうか。と個人的には思う。万人に好かれる人が、世の中数少ないようにだ。

  だから写真を批評するときに、一方的に批難することはあまりよろしくないと思う。それは撮影者という人の否定にもつながってしまう。人によって合う人と合わない人がいるように、好みはあれども、その人、自身を人間性から全面的に否定してはいけないようにだ。そういう意味で、写真を見るときは、批評してやろう、という気持ちはなく、この人のモノの見方に近づいてみようという謙虚な気持ちでいるべきだなと思う。その当たり前なことに、私自身、ようやく気がついた気がした。。。

  私は写真を勉強すればするほど、一枚の写真が表す事実というものは、描かれている風景や人物の記録そのものではなく、世界を撮影者本人がどのように自覚しているのか?という部分ではないかのと思うようになった。こういった文脈において写真はフィクションである。個人のモノの見方が反映されているからだ。世の中のありのままを映し出しているというより、撮影者個人の思考を描けているという意味では、ノンフィクションかもしれない。
 そもそも、世の中のありのままなんて、私たちは自覚できているのだろうか?


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  一つだけ例をあげてみます。
まず、私は上の写真の中に写っている被写体、本人に撮影の許可を得ずにこの写真を撮影しました。もし本人が私自身に謝罪を求めるのであれば、直接お会いした際に誤ります。

この写真を見たみなさんはどういった印象を受けますか?


ちなみに、私はこの写真に「唱える」というタイトルをつけました。

果たして、被写体となった男性は何かを唱えていたのでしょうか?

おそらく違うでしょう。この男性は友人とコーヒーを飲んで他愛のない話をしてただけかもしれません。

こういうことです。
写真は事実を記録できていないです。写真に現れているのは、撮影者、作家のモノの見方によって描かれている物語(Narrative)であるのです。一枚の写真が誰かに見られるまで、切り取り、モノクロでの編集、構図、、などなど、必ずどこかで撮影者の主観が反映されてしまう構造です。

誰かにとっては、ただの生活の一部が
写真家によって勝手に劇的な物語に書き換えられてしまう。と考えると
写真を撮る、撮られることはすこい怖い行為ですね。

もちろん、相手に許可を取れる状況なのであれば、しっかり撮影の許可を取れば、まだ暴力的ではない、、という気はしますが
撮る写真すべての許可を得ていたら、決定的な瞬間の写真は残せない。

ここの議論については、アンリ・カルティエ・ブレッソンの「こころの眼」(2007)とスザン・ソンタグの「写真論」(1977)を読めば、もっと深まる気がします。

写真を撮るという行為に対する批判、それに伴う倫理的な問題を頭ではわかりつつも、写真家として、今だ!(つまり、何か物語を読み取った瞬間)という瞬間にシャッターを切りたくなる衝動の間で、いつも葛藤しています。

 何が正解かはわかりませんが、これは写真を撮る人としての願望ですが
写真を撮る行為は男性目線によるフェティシズムの表象だ、とか、写真は盗む行為だ、とか批判されるべき点が多いのもわかりますが、それでも、今、シャッターを切る行為でしか伝えられない物語を、感じた。。それを伝えようとする意図にも目を向けてほしいなと思います。

事実なんて写せていないフィクションかもしれないけど、その写真を通して唱えたいメッセージがきっとあったんだ。と思うのです。


少し論点がごちゃごちゃになった気もしますが
ここのより詳しい話は、次回書くノートの「スペクタクル(強烈なもの)の変容(仮)」で、続きを。。。




Jongmin /ジョンミン


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Phofolio




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