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エンタメと純文学のちがい2

ごめんなさい。ちっとも記事を書かないジョンガルです。
NOTEの偉大なプログラムの賜物か、ぽつぽつとスキをしてくれる方がいらっしゃり、人知れず励まされています。
であれば、もっと記事を書きなさい! と自分自身に突っ込みを入れますが、なかなか書けません。恥ずかしくって。
先日も奇特な方が、スキをしてくださったので、「ああ、こんなこと書いたんだなー」と思い出して、うっかり昔の記事を読み返しました。
「エンタメと純文学のちがい」
なんて恥ずかしいお題なんでしょう。
以下のような突っ込みが、私の心の中に嵐のように吹き荒びます。

①お前が論じるようなテーマではない。
②エンタメと純文学と言いつつ、映画の感想じゃねえか

そして、少し遅れて、最大級の突っ込みが私の心を襲ったのです。

③エンタメと純文学の違いなんて、あれじゃねえか、かんたんだよ。要するに落ちがあるのがエンタメで、落ちがないのが純文学だろ? 違うのか。

私の中の突っ込みクンは、ときどき知ったふうな口を聞くのです。
私はその言葉を聞いて、思いました。

たしかに純文学には落ちがない。川端康成の『雪国』はなんだかよう分からん話だった。
不倫男が田舎の女のところに会いにきて、近所で火事が起きたり、別れろ切れろだのとうじうじ話しているうちに、ぷっつり終わってしまった。
きれいに落ちの決まった純文学作品なんて、読んだ験しがない。

しかし落ちのないエンタメは山ほどあるぞ。
おい、突っ込みクン、お前の主張はまちがえているぞ。
ところが突っ込みクンは全然慌てずに答えた。
「いやそれは純文学がかったエンタメなんだよ。最近は、純文学とエンタメの境界線があいまいだからねえ。でも本来のエンタメっていうのは、ばしっと落ちが決まらないといけなかったんだよ」

本当にそうかなあ。
それほどたくさんの本を読んでいるわけではない私には、この主張の真偽はわかりません。
今後の読書で確かめてゆくしかないでしょう。
そもそも落ちって何だ、っていう定義がむずかしいですしね。
なんとも落ちのない文章は、これで終わります。

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