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プロ野球背番号の話6番


落合博満

FA選手が他球団に移籍して、前の球団の背番号をそのまま着けてしまうと、その球団の背番号の流れが変わってしまうので、個人的にはあまり歓迎していません。さりとて、今更FAを廃止するわけにも、FA移籍するような大物選手に背番号に対する配慮を要求するわけにもいかないので、これは「個人的なモヤモヤ」にとどめるしかないと割り切ってはおりますが……。
その象徴ともいえるのが、ロッテ→中日→巨人→日本ハムとトレード、FAで渡り歩いた落合博満です。
NPB唯一である三度の三冠王を含む、首位打者5回、本塁打王5回(史上初の両リーグ本塁打王)、打点王5回(唯一の両リーグ打点王)という記録を残し、監督としても8年の在任ですべてAクラス、4度のリーグ優勝と1度の日本一を記録した伝説の野球人です。
豊富なエピソードは他に譲るとして、背番号に非常にこだわりのある人物として知られ、現役時代は可能な限り背番号6を、監督時には背番号66を着けました。例外は巨人移籍時に既に篠塚和典がいたため一時的に背番号60を着けたのと、日本ハム移籍時に田中幸雄がいたため背番号3を着けたのみです。また監督時には選手の背番号も「(自身が思う)らしい背番号」に付け替えたことでも知られます。ただ「背番号20がエースナンバー」である中日で「エースナンバーは18」と主張したり、同じく中日では比較的投手が着けることが多かった背番号27を「捕手の番号」として谷繁元信に着けさせてみたりとそのチームの流れを考えないところがあり、上述の「大物選手が移籍先で同じ番号を着ける」の象徴でもあったことも含め、ボクのように「そのチームごとの背番号の流れを尊重すべし」論者にしてみれば、カタキのような存在かもしれませんね(笑)

右打者の番号

その落合が右打者として数々の記録を打ち立てたこともあってか、個人的に背番号6は「右打者の番号」というイメージがあります。また、伝説の打者にして打撃コーチでもあった中西太(西鉄)も右打者でした。
落合が最初に入団したロッテについては、交換相手だった上川誠二こそ左打者でしたが、前任者の千田啓介、上川の跡を継いだ初芝清、井口資仁といずれも右打者です。
もう一つ顕著なのが日本ハム。現在着けているアリスメンディ・アルカンタラはスイッチヒッターですが、日本人に限れば小田義人、柏原純一、田中幸雄、中田翔とチームを代表する右打者が並びます。
ダイエー~ソフトバンクも湯上谷宏(竑志)、鳥越裕介、多村 仁(仁志)、吉村裕基、現在の今宮健太に至るまで全員右打者で、阪急~オリックスだと詳細は後述予定の大橋穣、メジャーリーガー田口壮は右打者でした。西武にも黄金時代を支え後に監督になった田辺徳雄、成績の割に長く一桁を着けていた後藤武敏がいます。
セリーグに移ると、横浜大洋~横浜では高橋雅裕(眞裕)、中根仁、多村仁と右打者が並び、落合のいた中日でも井端弘和、平田良介と右打者の長期政権が続きました。巨人はV9セカンドの土井正三が長く着け、その後紆余曲折を経て「左利きの右打者」坂本勇人が現在も長期着用中です。左打者の流れがあったチームでも、ヤクルトでは宮本慎也が20年近く着用、広島も梵英心が10年以上着けました。阪神も前後を左打者に挟まれながら、和田豊が20年弱着けました。

背番号6の左打者

上記のような流れはあるものの、最近はすっかり左打者全盛期になっているため、当然左打者が背番号6を着けているケースも増えています。
特に新興球団の楽天では、創設以降一年限りの塩川達也(右打者)とシーズン途中までの内村賢介(スイッチ)以外は西谷尚徳、藤田一也、現在の西川遥輝と全員左打者です。
その楽天と入れ替わりで合併消滅した近鉄も、金村義明、武藤孝司と左打者でつないでいました。
その近鉄を吸収合併したオリックスでは、新人王を取った外野手の熊野輝光と現在着用している宗佑磨が左打者です。田口と宗の間の長期間、移籍選手や外国人でつないでいたこともあり、宗が長く着けることで再び背番号の価値が上がればいいと思います。
それ以外で左打者の流れがあったのは宮本以外のヤクルト。永尾泰憲、水谷新太郎、現在の元山飛優と左打者が続きます。広島も梵以外は小早川毅彦、浅井樹、安部友裕と左打者でした。阪神は上述の和田を挟んで藤田平と金本知憲が左打者。奇しくもこの三人とも監督を務め、現在背番号6は準永久欠番になっています。
ピンポイントで挙げると、南海時代の新井宏昌、横浜大洋の高木嘉一(由一)、そして巨人の篠塚利夫(和典)が昭和世代としては印象深いですね。

遊撃手の系譜

上記とだいぶかぶってくると思いますが、ショートの守備番号は6ですので、そこから検証していきます。
左打者の流れがないのに現在背番号6を着けている左打者に西武の源田壮亮と横浜の森敬斗がいます。源田はWBC日本代表にも選ばれた不動のレギュラーショート(かつ現在のNPBで一番巧いショートだと思う)ですが、森は高卒ドラ1で期待されて入団したものの、まだショートの定位置奪取には至っていません。今後の活躍に期待。
右打者だと「確定さん」こと巨人の坂本とソフトバンクの今宮がショートのレギュラーとして君臨しています。
OBに話を移すと、まず名前をあげたいのが7年連続(1972~1978年)ダイヤモンドグラブ(現ゴールデングラブ)を受賞した守備の名手・大橋穣(阪急)ですね。この記録の何が凄いかと言うと、7年のうち規定打席に到達したのがたった1年(1972年)だということ。つまり人気投票でも、総合力で下駄を履かせたわけでもなく、純粋に守備力だけを評価されたということです。最近の野球ファンには「ショートを守る菊池涼介(広島)」と言ったらわかりやすいでしょうか。右打者には天敵のような存在でした。後継者の弓岡敬二郎(「背番号の話5番」参照)入団時はまだ現役だったため、背番号の引継ぎが行われなかったのが残念でした。
大橋に匹敵したのが、晩年はサードにコンバートされたものの鉄壁のショート守備で名を馳せたヤクルトの宮本慎也。通算10度のゴールデングラブ受賞歴のうち、6度ショートで受賞しています。現在6番を着用する元山飛優は「ポスト宮本」を期待されて背番号6を与えられましたが、長岡秀樹にレギュラーを奪われ、現在は山田哲人欠場時の控えセカンドという運用を主にされています。
そのほかのOBでは、西武の田辺、日本ハムの「コユキ」こと田中幸雄、「アライバコンバート」以外の中日の井端、横浜大洋の高橋眞裕、広島の梵、福岡ダイエーの鳥越が目立つところです。球団ごとに「受け継がれる背番号」の形になっていないのが特徴ですかね。

背番号6の外国人選手

背番号6の外国人選手は、他の一桁番号と比較するとそれほど多くありません。実際に巨人、ロッテ、楽天はゼロで、ヤクルトと消滅した近鉄が1人ずつ、阪神と広島、オリックスが2人ずつ、それ以外の球団が3人ずつです。とはいうものの、阪神や中日、西武のようにほとんど印象に残らない選手ばかりの球団もあれば、長く日本に在籍し貢献した外国人選手もいます。それとは別に阪急のバンプ(1983~84)と近鉄のバンボ(1985~86)は在籍期間がスレ違いでかつ名前が似てるので同一人物かと疑われることもあったとか(実際はバンプは白人、バンボは黒人なので同一人物ではありません)。
一番大事な外国人選手は次の項目に譲るとして、時系列で挙げていくならまずは大洋のクリート・ボイヤーです。ボイヤーが来日した昭和47(1972)年はまだまだアメリカから見て日本の野球はレベルが低く、バリバリのメジャーリーガーが来ることは稀でした。そんな中、所属していたアトランタ・ブレーブスでトラブルを起こし、他球団への移籍も阻害されて日本にやってきたボイヤーは、大物中の超大物でした。通常、プライドが非常に高いメジャーリーガーですが、ボイヤーはメジャーの半分以下の年俸にも文句を言わず、日本に溶け込もうと練習に打ち込みました。ボイヤーは4年間の在籍で平均打率二割六分弱、本塁打71本と「普通の中距離打者」といった成績でしたが、圧巻だったのは打力よりも三塁手としての守備力でした。昭和48、49年と二年連続でダイヤモンドグラブを受賞していますが、これはMLBとNPB両方で受賞した初のケースです(のちにデーブ・ジョンソン、後述のウェス・パーカー、そしてイチローが受賞)。その人格と指導力が評価され、在籍中に兼任コーチを務めただけでなく、引退後もチームに残りヘッド格として正式にコーチ就任しました。当時の秋山登監督よりも選手たちに慕われていたようで、このまま後任監督にという声もありましたが実現しませんでした。ちなみに同僚でセカンドを守っていたジョン・シピンは「ライオン丸」の異名をとる荒くれものとして知られていましたが、ボイヤーには全く頭が上がらなかったそうです。
ボイヤーの次にMLBとNPB両方でダイヤモンドグラブを受賞したのが、ボイヤーがまだ大洋に在籍中の昭和49(1974)年に南海に入団したウェス・パーカーです。奇しくもボイヤーと同じ背番号6を着けました。一塁手として卓越した守備を披露したパーカーでしたが、「長打力がない」と一年で解雇されてしまいました。本当にこのチームは外国人選手の見極めが下手です。
広島が初優勝した昭和50(1975)年に来日したのがゲイル・ホプキンスです。医科大学への進学を目指してロサンゼルス・ドジャースを退団したホプキンスは、当時の監督ジョー・ルーツの誘いを受け、「チームが優勝争いから脱落したら帰国できる」という付帯契約の元、広島に入団しました。一塁手として優勝に大いに貢献したホプキンスは、医科大学の入学を延長させてもらえることになったことから翌年も広島でプレイ。打率三割二分九厘、本塁打20本の好成績を収めます。ここで予定通り医科大学への入学のため広島を退団しましたが、「現役を続けながら大学に通うよう」大学側から指示があり再来日、新外国人が決まっていた広島には入れず、南海で一年プレイして引退します。その後、医学博士になり整形外科を開業しました。
ホプキンスが帰国後、背番号を引き継いだのがジム・ライトルです。ホプキンスもいわゆる「当たり外国人」でしたが、ライトルはそれ以上でコンスタントに打率三割前後、本塁打20本以上を打ち、守備でも4年連続で外野のダイヤモンドグラブを受賞するなど、広島に六年在籍して昭和54(1979)年と昭和55(1980)年のV2に貢献しました。奇しくもホプキンス同様、広島退団後は南海で一年プレイして帰国しました。
日本ハムのパット・パットナムは、前年オフに阪神に移籍した主砲・柏原純一の穴を埋めるために入団しました。背番号も守備位置も引き継ぎ、一年目は打率二割八分六厘、本塁打25本の好成績を収め翌年再契約しましたが、翌年は本塁打が半減するなど成績を落とし、その年限りで解雇されました。
その翌年、外国人選手二人がけがで戦線離脱したためシーズン途中で入団したのがマイク・イースラーです。MLB実働14年で6球団に所属したバリバリのメジャーリーガーでしたが、昭和63(1988)年はFAでした。シーズン途中入団にもかかわらず打ちまくったイースラーは、94試合に出場し打率三割四厘、本塁打19本の記録を残し翌年再契約しました。翌年も三割弱の打率を残しましたが本塁打が半分以下で、当時38歳という高齢もあってその年限りで引退しました。なお、独特の構えから極端なアッパースイングという非常に個性的なバッティングフォームは、野球ファンの格好のモノマネネタになりました(オレもやった)。ちなみに、右打者が圧倒的に存在感を示している日本ハムの背番号6ですが、このパットナム、イースラーという二人の外国人はいずれも左打者です。

背番号6の投手

このコーナーでは毎度おなじみの阪神から、戦前の伝説の選手・景浦將をまず挙げておきましょう。ただ景浦はいわゆる「二刀流」選手でしたが。海の向こうでは大谷翔平が「二年連続二桁勝利&二桁本塁打」というMLB初の記録を達成しておりますが、戦前戦後も含めて「最優秀防御率」と「首位打者」を両方記録したのは景浦だけです。しかし、景浦は昭和20(1945)年にフィリピンで戦死しています。
戦後、阪神では景浦にあやかってか田宮謙次郎(のちに打者に転向)、真田重男、小山正明といった名だたる投手が一時的にですが背番号6を着けています。
さて、「背番号6の外国人」の項目で書くべきか迷いましたが、やはりこちらで書くことにしたのが、60年代前半の南海を支えた名投手、ジョー・スタンカです。昭和35(1965)年に南海に入団すると、一年目17勝、
二年目15勝とさっそく二年連続二桁勝利を達成。二年目の昭和36(1961)年には日本シリーズに出場、「円城寺 あれがボールか 秋の空」(詠み人知らず)という有名な「誤審」事件の被害者となりました。五年目の昭和39(1964)年は26勝を達成、阪神との日本シリーズでは三試合に投げて三完封とシーズンおよび日本シリーズ両方でMVPになりました。対戦相手の阪神のエースはバッキー(背番号の話4番参照)だったため、奇しくも「外国人エース同士の対決」となりました。しかし翌昭和40(1965)年のシーズンオフに長男が事故死し、気持ちの整理を着けるために退団→帰国しました。その後、再来日し大洋と契約するも成績不振により一年で解雇されました。ちなみに個人的な話で恐縮ですが、わたくし南海ホークス(1959~1968)の復刻版ビジターレプリカを持っているのです。もともとは「今宮モデル」なのですが、背ネームがない時代なので「スタンカ」のつもりで着ています。
スタンカ以降は蛇足ですが、同じ南海で「球史に残る糞トレード」新井宏昌(南海)と山口哲治(近鉄)の結果、二年だけ背番号6を着けた山口哲治。ちなみに山口はトレード時点ですでにケガでほとんど投げられない状態だったというんですよね。新天地で首位打者になる新井とエライ差ですわ……。
あとは近鉄つながりで、阪神から出戻った久保康生が同じく二年だけ背番号6を着けてます。久保は山口と違って、セットアッパーとして出戻った後もそこそこ仕事しています。
あとは広島からオリックスに移籍したトム・デイビーがいます。二年間はローテーションに入っていましたが、三年目はケガで登板ゼロ、シーズン途中で解雇されました。

最近冗長になってきたと思って最初気持ち駆け足で進めたところ、外国人ネタで筆が乗ってきてしまって結局長くなってしまいました。申し訳ありません。
次回、今回の裏になると思う「背番号7」をお楽しみに。

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