見出し画像

プロ野球背番号の話1番

「BIG1」の系譜

ほとんど思い入れのない「0、00番」を片付けて、これから順番に話を進めていきます。
というわけで、「背番号1」です。
ワタクシ、ジャイアンツに対しては「限りなくアンチ寄りの無関心」というスタンスで日頃やらせていただいておりますが、やはり我々の世代で背番号1と聞いて真っ先に思い浮かぶのは王貞治(巨人)でしょう。
「昭和の狭い球場で作った世界記録~」とか「現在の広い球場だったら868本も打てない~」とか「現在の選手が同じ条件だったら1000本超える~」とか言われることも多いですが、「現在の価値観で歴史を語ることほどナンセンスなことはない」というのは人類史において揺るがない定義です。
つまり、日本球界から868本塁打という世界記録が生まれたということは、どんな条件であれ称賛されるべきであり、世界に誇れることなのです。
とまぁ、これだけ偉大な記録を残された方なので、当然在籍していたジャイアンツでは永久欠番となり、その後を継ぐ選手はいないわけなのですが、実は意外なことに他球団でも「王のフォロワーとしての背番号1」ってあまり例がないのです。
ロッテ時代の愛甲猛は「投手からの転向」「左投げ左打ち」「一塁手」とフォロワーとしては十分でしたが、中日に移籍後は別な番号(9番)をつけており、流れは断たれました。
あとはソフトバンク時代の内川聖一が背番号1で一塁を守ることがありましたが本職ではなく、最近だと外国人のモヤ(オリックス)が左打者で一塁手で……という程度。それくらい「背番号1の一塁手」が思った以上に少ないと言えます。
これだけ偉大な打者の系譜を継ぐ者がいないというのは背番号史的には悲しいですね。

ミスタースワローズ

背番号1に対し、独自の価値観を見出しているのが東京ヤクルトスワローズです。
初代ミスタースワローズと呼ばれたのが若松勉。入団1年目から背番号57でレフトのレギュラーに定着し3割を打つと、翌年から背番号1に昇格。
そこから引退までの18年間、背番号1を背負って首位打者2回、通算安打2173本、生涯打率3割1分9厘(歴代3位)の記録を残した「小さな大打者」です。
他球団ならかなりの高確率で永久欠番になるところでしたが、伝統的に永久欠番を持たないチームだったため、若松引退後「チームの顔=ミスタースワローズ」襲名の儀として背番号1が与えられるようになりました。
そして、池山隆寛→岩村明憲→青木宣親と受け継がれ、現在は「五代目ミスタースワローズ」「主将」「ミスタートリプルスリー」こと山田哲人の背中にあります。
前任者の青木とは背番号「23→1」をそのまま引き継いだ奇縁もあります。

職人セカンドとしての背番号1

ボクが一番思い入れのある「70~80年代パリーグ」には、どういうわけか背番号1をつけた「打順で言えば8~9番、よくて2番」「守備職人」「比較的小柄なセカンド」がちらほらいました。
ボクは南海ファンなので、その系譜を挙げるとドン・ブレイザー→古葉竹識→桜井輝秀→立石充男→ジェフ・ドイル→小川史ですね。ブレイザーを「小柄」というのは疑義がありそうですが、「非力な守備職人でセカンド」というカテゴリーにおいてはバッチリ合致しています。
この六人だけで約四半世紀ですから、これは一つの歴史と言っていいです。そういう事情もあって、94年に秋山幸二が西武から移籍してきて小川から背番号を奪った(西武時代も含めて2回目)ときに、覚悟はしていたけど正直残念でした。
結局、それ以降ホークスの背番号1は外野手のものになり、現在は高卒新人(一軍未登板)の背中にあります。

このままだとホークスの話だけで終わりそうですが、他チームの同じようなケースをご紹介します。
東映→日拓→日本ハムと親会社が短期間で変わったフライヤーズおよびファイターズ。ここも大下剛史→菅野光夫→広瀬哲朗→阿久根鋼吉とホークスより10年多く二塁手の背番号1が続きました。それを破壊してくれたのがMLB帰りのSHINJOこと新庄剛志(現監督)です。それ以降、森本稀哲→陽岱鋼とやはり外野手の番号となり、現在は再び監督として戻ってきた自身が着用しています。

同じ系譜となるのが、阪急→オリックスの福良淳一。レギュラー二塁手として10年間着けましたが、その後は移籍者専用になったり、監督がつけたり、落ち着かない印象です。現在は福田周平が志願して4から変更しましたが、正直「セカンド時代に着けて欲しかった」と思ってしまいます。

ロッテだと小坂誠が8年間着けています。本職はショートですが、もちろんセカンドも守れます。「小兵の守備職人」としては最高の番号ですね。

セリーグに移ると、なんといっても中日の高木守道。ミスタードラゴンズとして20年間背番号1をつけ続けました(コーチ時代含む)。ただこの後が続かず、数年後にセカンドのレギュラーを奪った種田仁に与えられると、その年にショートにコンバート。背番号1のセカンドは幻となりました。
その後、一時的に「守備職人」堂上直倫の背中にありましたが、堂上が守備職人となったのは背番号が63に降格してからなので、これもまた違うケースと言えます。

セリーグで長くそのイメージを踏襲してきたのが、大洋→横浜大洋でした。
近藤昭仁と山下大輔の二人で約30年、「非力な守備職人の二遊間」のイメージを引き継いできました。
山下の引退後に捕手では珍しい「消える背番号」こと谷繁元信に与えられたものの、横浜ベイスターズ初年度に監督に就任した近藤昭仁自身によって剥奪→自分と同タイプの進藤達哉に与えられました。
しかし、進藤の移籍後は「ほぼ外野手番」として定着します。

外野手の系譜

上記の項目とは対照的に、外野手の番号として引き継いでいるチームもあります。その代表が広島カープです。
上述の古葉竹識から一人挟んで大下剛史あたりは内野手の系譜に見えるのですが、大下引退後に外野手の山崎隆造が背番号1を引き継ぐと、その後前田智徳→鈴木誠也と「主力外野手」の番号として定着します。
現在は空き番。永久欠番として認定はされていないものの、簡単にはつけられない番号になってしまいました。願わくば、前任者たちに匹敵する外野手につけてもらいたいところ。

ライオンズも外野手に背番号1をつけさせているチームです。
西鉄時代も1963年から身売りする1972年までは二人の外野手(伊藤光四郎→高橋二三男)が背負い、太平洋時代の4年間は外国人外野手(ビュフォード→アルー)が着用。クラウン時代の2年間は空き番でした。
西武ライオンズで初めて1番を着けたのは南海ホークスの項で触れた内野手の小川史でした。しかし、半年で途中入団の外国人ジム・タイロンに譲渡し、自身は背番号24になりました。2年後、タイロンがシーズン途中で南海に移籍した際、交換相手である投手の名取和彦が着用するも、その年のオフに13に変更。しばらく空き番となります。
動きがあったのはその5年後。上述の小川史から奪った背番号24をつけた秋山幸二が、外野手コンバートと同時に背番号を1に変更。「AKD砲」として西武黄金時代の中心となります。その後ダイエーに移籍するも、交換相手の佐々木誠がそのまま外野手で背番号1に。佐々木の移籍後は外国人がつけるなど数年落ち着かなかったものの、現在は外野手である栗山巧が16年間背負っています。

その秋山が移籍してきた以降のホークスも、上述の通り外野手の系譜になりました。秋山→柴原洋→内川聖一まではまあよかったのですが、「1番が欲しい」とフロントに訴えたものの実績不足で却下された外野手の上林誠知が伸び悩んでいる間に、結果的にそれよりもさらに伸び悩んでいる高卒新人(一軍未登板)に与えてしまうフロントの姿勢たるや(以下略)。

投手の系譜

特に高校野球では守備位置と背番号を一致させるケースが多いし、場合によっては大学野球でも踏襲されているため、現在は「10番台~20番台が投手の良番」として定着している中で、あえてプロでも背番号1をつける投手はいます。
我々の世代だと、その代表は「草魂」こと鈴木啓示(近鉄)ですね。のちに球団が吸収合併される最終年における梨田昌孝監督の名セリフ「お前たちが付けている背番号は、すべて近鉄バファローズの永久欠番だ」により、近鉄バファローズの背番号はすべて永久欠番となりましたが、その前から永久欠番となった唯一の番号でもあります。

その近鉄球団の合併による消滅を受けて創設された楽天イーグルスで現在背番号1を背負っているのが松井裕樹です。球団創設から松井入団前までこれといったイメージを作ることができなかった背番号1ですが、完全に松井が自分のものにした印象がありますね。奇しくも鈴木啓示と同じ左腕というのも縁を感じます。

あとは阪神タイガースの野田浩司→(トーマス・オマリー)→中込伸→谷中真二という流れも印象深いですが、とにかくこのチームは背番号の伝統に頓着しないというか、流れを大事にしない印象がありますね。
たまたま上記の年代だけ投手が続きましたが、その後は内野手の鳥谷敬が長く着け、退団後は外野手の森下翔太に渡すという一貫性のなさ。「期待のドラ1に渡す」というのが一貫性と言うならそうかもしれませんがね……。

背番号1の外国人選手

この文章は「系譜」という言葉がやたらと出てくるように「背番号が受け継がれる経緯」を重視しているため、その流れを止めてしまうことが多い外国人選手については、どうしても書きにくいところがあります。ただ、背番号が印象深い外国人選手も多いですし、私見で雑多に書いてみます。なお、ここで言う外国人選手は戦前や戦後間もない時期に助っ人として多く在籍した「日系人選手」および日本の学校を卒業してプロ入りした「日本人扱い選手」は除くものとします。
そもそも背番号1は基本的に良番ですので希望する日本人選手も多く、逆に「与えられた番号を自分のものにしたい」傾向が強い外国人選手にわざわざあてがうケースは多くありません。実際、阪神以外のセリーグ球団、日本ハム、楽天および消滅球団において背番号1を着けた外国人選手はいません。
それでは、日本で初めて背番号1を着けた外国人選手は誰かと言うと、昭和36(1961)年に南海に入団した「ハッスルおじさん」ことバディ・ピート(カール・フランシス・ピーターソン)です。南海初の外国人選手でもあり、主にサードを守り3年の在籍で2度のオールスター出場を果たしますが、38歳と高齢(当時は三十代前半での引退が多かった)だったため引退しました。なお、上述のブレイザーおよびドイルの流れの礎ともいえる選手です。

昭和50(1975)年に阪急に入団したバーニー・ウイリアムスも印象的です。6年間在籍し、俊足強肩好守で阪急の黄金時代を支えました。ウィリアムス退団後、ライトのポジションと背番号をそのまま引き継いだのが同じタイプだった簔田浩二です。なお、ヤンキースで活躍し背番号51番が永久欠番になっている(そのおかげでイチローはヤンキースで背番号31だった)バーニー・ウリアムスは別人です。

太平洋~西武ライオンズも外国人に背番号1を着けさせたチームです。上述のビュフォード、アルー、タイロンの後に、ブロッサーと「パリーグの渡り鳥」ことホセ・フェルナンデスが西武在籍時に背番号1を着けていました。
余談ですが、太平洋クラブライオンズの4年間はビュフォードとアルーのみ、クラウンライターライオンズの2年間は空き番だったことから、逆にこの6年間で背番号1を着けた日本人選手はいません。

さてもっとも有名な背番号1の外国人選手と言えば、たぶんトーマス・オマリー(阪神)でしょう。平成3(1991)年に阪神に入団すると、4年連続で打率3割の成績を残し、守備が緩慢&長打力がないという理由でヤクルトに移籍後も打率3割を継続、結果外国人初の6年連続打率3割を達成した好打者でした。「ハンシンファンワ、イチバンヤァー!」の決め台詞を覚えている人も多いと思います。

まとめ

結局、自分の「内野手守備職人背番号1」フェチを吐き出すだけの文章になってしまったな(汗)
実は途中まで下書き保存したデータを見失い、まるまる一週間途方に暮れていたところ、無事に見つかって安堵したという経緯がありました。
実質一回目からこんな感じで先が思いやられますが、こんなのがあと何回かわかりませんが続きます。とりあえず「背番号10まで書くのが目標」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?