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プロ野球背番号の話2番

名ショート廣岡達朗

前回の「背番号1」では、結果的に自分の「内野手守備職人背番号1フェチ」という性癖をさらけ出すだけとなりましたが、今回の「背番号2」でもたぶんそうなります。なぜなら「背番号1と2はセット」だからです(暴論)。
前回のように「背番号2と聞いて真っ先に思い浮かぶのは~」とやろうと思いましたが、たぶん人によってバラバラだと思います。実は現在NPBで背番号2を永久欠番にしている球団はありません。これは、突出した選手がいないとも言えますが、裏を返せば様々な選手が着けることが可能な良番とも言えます。
例えば、ジャイアンツだと「1」と「3」が永久欠番になっているので、その間の「2」は誰なんだ?という話になります。もちろん歴代の背番号2は何人もいますが、「1」と「3」の間の「2」ということを考えるなら、「名ショート」廣岡達朗になるでしょう。
ある世代には「管理野球の権化」として、ある世代には「結果を出せなかったGM」として、最近の野球ファンからは「嫌味ばかり言ってる野球評論家」として知られているでしょうが、現役時代は「牛若丸」こと阪神の吉田義男と並び称されるほどの「名ショート」でした。
もっとも性格は全然変わってませんから、のちに監督となる川上哲治と対立、結局干されたあげく引退することになります。
その後、期待の内野手だった上田武司に引き継がれますが「便利屋」の域を出ず、上田の引退後は一部の例外を除いてほぼ「トレード、FA移籍専用番」になり、最近ようやく生え抜きのセカンド吉川尚輝が背負うことになりました。個人的にはショートじゃないのが残念なところですが……。

名ショート小池兼司

別に廣岡を意識したわけではないでしょうが、南海にも背番号2を長く背負った名ショートがいました。昭和36(1961)年に入団した小池兼司です。当時の南海のショートはのちに監督になる俊足強肩の広瀬叔功でしたが、あまりにも強肩すぎて暴投も多かったそうで(後年の田口壮も同じパターン)、堅実な守備が売りの小池にショートを譲り、自身はセンターにコンバートされました。
それ以来約10年間ショートのレギュラーを守り続けました。そのうちブレイザーが入団した67年~69年、古葉竹識が広島から移籍してきた70~71年は「背番号1と2の二遊間」が実現しています。
惜しかったのは、のちにセカンドのレギュラーになる桜井輝秀が背番号1をつけるのとほぼ入れ替わりでレギュラーを外れてしまったこと。
小池の引退後は、期待の内野手だった鶴崎茂樹がつけるもレギュラー取りには至らず。昭和54(1979)年オフに日本ハムにトレードされます。
このタイミングで、低迷していた南海ホークスを再度全国区にしたあの有名人が入団します。実はここから背番号の流れが変わってしまうので、詳細は後に譲りますが、ここから30年後の平成11(2009)年に「背番号2の名ショート」が甦るのです。それが今もバリバリ現役でホークスのショートを守り続けている今宮健太です。
今宮が2番を着けたのは、「たまたま空き番だった」「前任者の高校の後輩だった」という偶然によるものでしたが、「守備職人」(ライオンズの源田入団前までは間違いなくリーグ1の守備力だった)にプラスして「バントの名手」(最年少の犠打記録をことごとく更新、現役最多の346犠打)というその筋のフェチ(どんな筋かね)にはたまらない名遊撃手です。残念なのは、「ショートの守備番号」である6番が空き番になったタイミングで背番号を変更してしまい、現在の背番号2は4年在籍でまだ一軍未勝利の外国人投手の背中にあることですね………。

名ショートの系譜

ファイターズも東映以降しばらくショートが背番号2を着けていました。
東映唯一の日本一の年に入団しレギュラーショートになった岩下光一が長く着け、引退後は阪急から移籍してきた「パリーグ一筋」阪本敏三も本職はショートでした。阪本が近鉄にトレードされると交換相手の外野手・服部敏和が一時的に付けますが、昭和54(1979)年にのちのレギュラーショート高代延博が入団し、その背中を明け渡すことになります。
高代はその後10年間ショートのレギュラーを守りますが、背番号1菅野光夫との二遊間は絶品でした。
高代が広島にトレードされると、以降ショートのレギュラーに背番号2が戻ることはありませんでした。近年は「野球がうまいお笑い芸人」こと杉谷拳士が長く着け、ショートを守ることももちろんありましたが、レギュラーになることはついぞありませんでした。残念。

オールドファンには田尾安志の印象が強い中日の背番号2も基本的には内野手が多く着けている番号です。背番号1の高木守道と二遊間を組んだ一枝修平、その後を継いだ移籍組の広瀬宰、高校の先輩である宇野勝を超えられず世紀の大トレードの駒となった尾上旭もショートでした。近年のドラゴンズの背番号2と言えば、「アライバ」の一角・荒木雅博でしょう。確かに「アライバコンバート」で一時期ショートを守ったこともありましたが、やっぱり荒木と言えばセカンドですよね。それを考えると、相方・井端の背番号が1じゃなかったのは残念無念。ところで、去年のドラ1・田中幹也も本職ショートですが、果たしてケガから復帰してレギュラーを獲れるか?

受け継がれるカープ

現在も受け継がれるカープにおける背番号2の流れを作ったのは、「天才スイッチヒッター」高橋慶彦です。俊足と圧倒的な練習量で盗塁王3回、ベストナイン5回受賞した名選手です。また非常にイケメンだったため、全国的な人気も高い選手でした。
ただ気が強く、上司にも平気で反発するタイプだったため、首脳陣やフロントとよく衝突し、結局ロッテにトレードされました。
そのイメージを消したかったのか、捕手の瀬戸輝信に背番号2を与え、その後外国人選手でつなぎましたが、平成12(2000)年にショートのレギュラーをつかんだ東出輝裕に与えたところ長きにわたって活躍、引退後に同じくショートのレギュラーをつかんだ田中広輔に禅譲されました。
ここ数年は小園海斗の台頭で苦戦していましたが、今年は逆に小園の不振でレギュラーを奪還、まだまだ老け込む年ではないので頑張ってほしいものです。

移籍による背番号2のショート

上述の通り、現在NPBで背番号2を永久欠番にしている球団はないという事情から、比較的トレードで来た大物選手に与えられる傾向がある番号でもあります。特に一時期の巨人、阪神、ヤクルト、ロッテなどは「移籍選手専用番号」のような状態でした。
そんな中、宇野勝(ロッテ)、小坂誠(巨人)はそれぞれ一年で他の番号に変更してしまいましたが背番号2をつけてショートを守りました。レギュラーこそ取れませんでしたが、ヤクルトの大引啓次も背番号2をつけてショートを守り、背番号1の山田哲人と二遊間を組んでいます(哲人はちょっとタイプの違う感じではありますが……)。

ショート以外の内野手

背番号2を着けたセカンドは、「ショート」の項でちょこちょこ触れていますが、言及していなかった選手の一人に武上四郎(ヤクルト)がいます。後に監督にもなるチームの中心人物でしたが、若くして引退しました。監督としての成績が振るわなかったのが残念です。武上から背番号2を受け継いだのが杉村繁です。高校時代から期待されて入団しましたが期待に沿えず、3年で背番号を剥奪され、その後背番号2を外国人専用にする流れを作ってしまいます。杉村は武上とは逆に監督にはなれなかったものの、指導者として才能を発揮、青木宣親や内川聖一など多くの好打者を育てました。

その内川聖一(横浜)は背番号2でファーストを守りました。背番号2のファーストと言うと、後述の小笠原道大(日本ハム、巨人)やルイス・ロペス(広島)、レオン・リー、片平晋作(ともに横浜大洋)、ホセ・ロペス(DeNA)などがいます。外国人が多めですね。
サードになるともっと少なく、レギュラークラスだと「近鉄のレジェンド」小玉明利くらいです。当時の近鉄は弱小球団の上に注目されにくかったパリーグだったため、あまり現在における知名度は高くありませんが、現役時代に兼任監督も務め、通算安打は1963本、近鉄時代のみの1877安打は球団記録です。残念だったのは当時の近鉄がまさに「小玉の孤軍奮闘」でしかなく、チーム成績はいつまでたっても上がらなかったことです。

外野手の系譜

もちろん背番号2を着けていたのは内野手ばかりではありません。その中で比較的外野手に背番号2をつけさせていたのが大洋→横浜大洋→横浜。センターのレギュラーだった中塚政幸が長く着け、その後一時的に移籍選手番号になったところ、スーパーカートリオの代替わりによりレギュラーを奪取した「こけしバット」こと山崎賢一が着用。山崎の移籍後は新人の波留敏夫がセンターのレギュラーになり、金城龍彦が一年だけ着けて、内川聖一に与えられました。奇しくも中塚、波留、内川は内野手から外野手に転向してブレイクしたという共通点があります(山崎はブレイク後に変更)。
内川FA移籍後は、内野手の番号となり現在はリーグ屈指の右打者に成長した牧秀悟が自分のものにしていますね。

ホエールズ→ベイスターズの流れからそうだというわけではないですが、背番号2の外野手はセンターが似合います。中でも名センターと言われたのがヤクルトの飯田哲也です。捕手出身の強肩に加え、持ち前の俊足を生かしたコンバートということもあって、七年連続ゴールデングラブ賞を受賞します。
そういえば、巨人の「青いゴキブリ稲妻」こと松本匡史も背番号2のセンターでした。こちらは足はめっぽう速かったのですが、肩が弱く後にレフトにコンバートされましたね。もっともその後にセンターに入ったクロマティの守備も大概でしたが……。
パリーグにも背番号2のセンターはいました。日本ハムの鈴木慶裕です。平成元(1989)年に入団すると、それまで不動のセンターだった島田誠から定位置を奪取。島田は翌年に選手の入れ替えを進めていた新興球団のダイエーにトレードされます。以降も控え選手と併用されながらセンターを守り続けますが、死球をきっかけに成績が急落。平成8(1996)年オフに自由契約となり、奇しくも自分が追い出した島田と同じダイエーに拾われました。ダイエーではあまり戦力になれず、2年で引退します。
「鈴木つながり」で鈴木慶裕と同時期に活躍した鈴木貴久(近鉄)も忘れられません。しかも同い年で同じ背番号、同じ外野手、同じパリーグということから特にセリーグファンから「どっちやねん?」と思われることも多かったですが、「センターを守っていてシュっとしていた」ほうが日本ハムの「慶裕」、「ライトを守っていてゴツい雰囲気」なのが近鉄の「貴久」です。なんかチームカラーそのままという気もしますが。近鉄一筋16年の現役生活の後、そのまま打撃コーチに就任するも、近鉄最後の年に若くして急逝したのは非常に残念でした。
この鈴木貴久の前に背番号2を着けていたのが、「ヘラクレス」こと栗橋茂です。「江夏の21球」でお馴染みの近鉄V2時代における不動の5番で、栗橋のおかげでマニエルを敬遠できなかったそうです。奇しくも栗橋も後任の鈴木同様近鉄一筋16年の現役生活でした。

捕手の系譜

背番号1で「守備番号」の話をしましたが、特に高校野球でつけた自分の番号は印象深いのか、守備番号と同じ背番号を欲しがる選手は多いようです。
捕手の守備番号は2なので、当然背番号2の捕手もそれなりにいます。
とはいえ、令和3(2021)年はNPB12球団中5球団で捕手が背番号2(しかも3球団で背番号変更)というある意味異常事態となりました。岡田雅利(埼玉西武)、太田光(東北楽天)は元からで、中村悠平(東京ヤクルト)、梅野隆太郎(阪神)、若月健矢(オリックス)が変更組です。翌年は中村が一年で背番号27に変更するも、千葉ロッテの新人捕手・松川虎生が背番号2を着けたため、5球団は変わらず。そのまま今年は変更なしで5人の捕手が背番号2を着けています。

さて行数がだいぶ空いてしまいましたが、「名ショート小池兼司」の項で「あの有名人」と紹介した人物も捕手でした。「ドカベン」こと香川伸行です。体格ゆえの不摂生がたたり、レギュラーを獲れなかったどころか若くして亡くなってしまったのは残念でしたが、間違いなく当時低迷していた南海ホークスの救世主(主に人気面ですが)でした。チームが福岡に移転してすぐに引退しましたが、その数年後に捕手として背番号2を着けたのが「ジョージ・マッケンジー」こと城島健司です。城島はベテラン投手(というか工藤と武田ね)の厳しい教育を乗り越え、見事リーグを代表する捕手に成長します。この二人のおかげで、「ホークスの背番号2は捕手」というイメージを持っている人も多いのではないでしょうか。

日本ハム、巨人と二球団で背番号2を着け続けた「ガッツ」こと小笠原道大も入団時は捕手でした。すぐに内野手に転向してしまいずっとそのままですが、背番号2にこだわったのは「捕手だったから」と言うのはあると思います。実は地味に小笠原の移籍後に当時のレギュラー捕手だった高橋信二が背番号2に変更し、その後新人の大野奨太、一人(杉谷拳士)挟んで、本職は捕手のアリエル・マルティネスが着けていることから、現在のファイターズはそういう流れを引き継いでいると言えるのではないでしょうか。

広島で高橋慶彦の後に背番号2を着けた瀬戸輝信も捕手でした。ドラ1で入団し達川光男の後継者として期待されましたが、西山秀二とのポジション争いに敗れ、正捕手にはなれませんでした。ただし二番手捕手として長く現役を務めました。
オリックスの三輪隆、近鉄→オリックスの的山哲也も背番号2を着けた捕手でした。三輪は二番手、的山は近鉄時代はレギュラーでしたがオリックスではレギュラーになれず一年で引退しています。
阪神時代の野口寿浩も背番号2を着けています。面白いのは中日時代背番号2を着けてレギュラーを獲れなかった矢野輝弘が阪神では背番号2の野口を二番手に追いやっていたことです。そういえば、現在埼玉西武で背番号2を着けている岡田雅利も「永遠の2番手捕手」ポジションにいますね。オリックスの若月健矢も現在は森友哉のケガによりレギュラーに定着していますが、打力の向上がないと森の復調次第で二番手に追いやられる可能性が高く、奮起を期待します。去年は重用されていた千葉ロッテの松川虎生も監督が代わって以前の正捕手・田村龍弘が復権し、佐藤都志也も結果を出していることから現在は厳しい状況にあります。ただ、まだ高卒二年目なので長い目で見守りたいところ。

背番号2の投手

日本球界においては基本的に、守備番号でもある背番号1以外の一桁を着けた投手はレアケースです。これは「チームの伝統」や「前任者からの流れ」という理由がやはり大きいのですが、何より「なんで他の野手が欲しがる若い番号を、わざわざ欲しがってもいない(何なら実績もない)投手にくれてやる必要があるのか」という感情論によるものもあるんじゃないかと思います。それをあえてやってしまうどこぞの球団は、やはりどこかおかしいと思います。確かにMLBの背番号に日本のようなルール(一桁は野手の良番、十番台は投手の良番)はないので、それを意識しているんでしょうけど……。

ただ「チームの伝統」や「前任者からの流れ」が定着していなかった戦前や2リーグ制初期は背番号一桁の投手も決してレアケースではありませんでした。特に阪神では2リーグ初年の昭和25(1950)年からショートが本職の本屋敷錦吾が阪急から移籍してきた昭和39(1964)年まで、背番号2は投手がずっと着け続けてきました。面白いのは、阪急時代の本屋敷は17という逆に現在では野手として珍しい背番号を着けていたことですね。
ちなみに上述した「どこぞの球団」の前身では、それこそ小池兼司の入団前も9年ほど投手が続いているので、そういう意味では原点回帰ともいえるのでしょうが……(汗)

背番号2の外国人選手

背番号1同様、日本人にとって良番である2番をわざわざ外国人に着けさせる球団は多くありません。ただ「一人も着けさせたことがない」球団は多くなく、背番号1とは逆にセリーグでは阪神のみ、パリーグは阪急~オリックス、消滅した近鉄、新興球団の楽天のみです。ただロッテは監督のバレンタインだけで、現役外国人選手は着けていません。
とはいっても、数自体もそれほど多くなく、1球団あたり1~2人のレアケースがほとんど。巨人はブラントリーの1年のみ、中日はバートとバンスローが1年ずつ、広島は上述のロペスが2年とディアズが1年、日本ハムはスケールズが半年と今年から上述のアリエル・マルティネス、太平洋~クラウン~西武はアルー2年、ロザリオ1年、カーター1年。一応太平洋時代にドローチャ監督が背番号2で就任予定でしたが、結局来日しませんでした。
横浜大洋~DeNAは上述のレオンとロペスの二人だけなのですが、それぞれ3年、6年と長期に渡り活躍しており、他球団とは状況が違っています。
そんな中、別格なのがヤクルトです。このチームは背番号1を特別扱いする代わりに、背番号2~5(場合によって6)を外国人専用番号として通常二人の在籍外国人の間で使いまわしてきました。特に80年代は空き番時代も含め、背番号2を着けた日本人選手がいない状態です。上述の杉村が剥奪された後、近鉄から出戻ったチャーリー・マニエルが背番号2を着けます。これはマニエルの後釜だったスコットが背番号4を着けて残留3年目だったからです。力の衰えたマニエルが一年で解雇され、後釜のデントンも一年限り、スミスと横浜大洋から移籍のレオンがそれぞれ2年ずつ。その後、上述の飯田哲也が着けて定着するも、楽天に移籍後はまた外国人のリグスが着けて4年残留。エスコバーが1年で解雇、昨年はキブレハンが着けてやはり1年で解雇……と。全部が全部ダメ外国人ではないですが、他球団とは量も質も違います。反面、この球団は外国人定番の「42」「44」「49」を着けた外国人が極端に少ないのですが、それはまた別の話。

まとめ

話を多岐に広げ過ぎて、背番号1よりも圧倒的に長くなってしまいました。
たぶん、一桁が一番長くなると思うので、目標である10番以降はこれほど長くなることはないんじゃないかと思いますがはてさて。

それでは次回「背番号3」でお会いしましょう。


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