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社宅の生活 二軒目

昭和45年の夏、戦前の下町の様な古い社宅から、表参道の同潤会アパートの様なコンクリート三階建てのアパートの社宅に引っ越しました。
前より新しいと言っても、多分戦後直ぐのアパートだったと思います。
同じ、市内でしたが、高台(山の上)で、3階に入居したので、とても眺めのいい部屋でした。

最初の社宅と大きく違うのは、トイレが水洗だった事です。水道の蛇口も、台所、その横の洗面台、トイレ、ベランダにもありました。(ベランダに洗濯機が置けるようになっていました。靴などを洗う流しも付いていました。多分、洗濯機などない時代の洗濯槽だったのではないかと思います。)
そういえば、この年、引っ越しで、新三種の神器である(⁉︎)二層式洗濯機、緑色の2ドア冷蔵庫、カラーテレビを購入した事を思い出しました。

部屋は2DKで、台所にテーブルと椅子があり8畳くらい、6畳2部屋で、2畳分の押入れがありました。
ただ、古いアパートなので、流し台などは、コンクリートでてきていました。

こんな感じでした


冬、寒いので、ガス給湯器を購入して、ガス炊飯器も買いました。そうして一気に文化的になりました。
三人家族にはちょうど良い広さでした。
ここも、共同浴場でしたが、家から見える所に風呂場があり、前より少しよくなりました。

平面図描いてみました。こんなです

ここは、私が大学で、いなかった時も両親が住んでいたので、10年以上いました。

社宅で、水道代は無料で、その為かどの家庭もガンガン水を使っていました。
特に、このアパートは、新婚さんが入ってくる事が多く、故に、子供達が多いアパートでした。
当時は専業主婦が多く、また、おむつはまだ布の時代、昼間の洗濯機稼働率は半端なくどの家も動いていました。
それで、屋上貯水タンクではないアパートでしたから、三階まで、昼間は水が上がってこなくなり、トイレの水も困るほどでした。
母は、夜洗濯していました。
とても子供の多い社宅だったのです。

このアパートには、玄関のドアの横に小さな窓があり、中に配達された牛乳など入れるところがありました。
反対側には洗面台があり、そこにも扉があって家から取り出せるようになっていました。
牛乳は、あまり買わなかったのですが、「ヤクルト」をずっと購買していたので毎日楽しみに
洗面台から取り出していました。

ヤクルト


ところが、ある時から、「ヤクルト」が入らなくなったのです。
何日も、続きしまいには飲み終えたボトルが入っていました。
そう、下の階の子供が取って飲んでいたのです。証拠はありませんが、コトコトと音がして子供の声が聞こえてきました。すぐ、いなくなったので、怒る事も出来ず、結局「ヤクルト」の購買は辞めました。
アパートも色々あるんです💧

眺めは良かったのですが、高校になり、疲れ果てて、高台のアパートに帰って来た時の3階は、大変でした。ましてや、お風呂に行くのに階段降りて、お風呂に入って、また、階段を登らねばなりません。
高校迄、9kmはある道を自転車で最初通っていたのですが、実は最後の上り坂の前に、もう一つ山越えをしないといけなくて、「剣道」をした後の自転車は流石に体力が持たず、三ヶ月後には、駅まで3kmを自転車で行って、電車に乗っての通学に変えましたが、それでも辛かったです💦

そうして、自然と体力がついていったと思えるアパートでした。
16歳でバイクの免許を取ってバイクに乗っていたのには訳があったのでした。

今は、二軒ともありません。
私の思い出の中だけに残っています。

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