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ep22 竹筒(その2)

 明けましておめでとうございます。昨年秋から始めた村境の検索も今年は進めて行きたいと思います。雪解け以降、本格的に行動出来ると思います。それまでは地図など眺めながら十津川村のあれこれを記載しようと思います。
お付き合い頂ければ最高に嬉しいです。
 
⭐︎photo mkujira99さん 綺麗な熊野川の写真を使わせて頂きました。

竹筒と周辺地域について

 竹筒集落の眼下には北山川が流れていて、大変見晴らしの良い場所となっています。この辺は、北山川が大きく蛇行しており、竹筒集落の反対側は細長い半島のような形状になっています。
 正面から見ると、こんもりと高い丘のような山に見えます。その半島の東半分が十津川領であり、西半分は三重県紀和町となっています。要するに、この半島半分は村境によって分断されていると言うことになります。

 川を渡って向こう側に十津川村の土地があると言うこと自体、なぜなのか理解することができませんが、領地を決める際に色々と話があったのでしょう。

青線が村境となります。竹筒より対岸も一部十津川領内となります
渡し舟で行き来したいた時代、竹筒は九重や花井とも密接であったと考えられます


花井(ケイ)

 前述の通り、この半島の西側は三重県紀和町になります。そしてこの一帯は花井(ケイ)いう場所になります。江戸時代までは北山川両岸、今の九重の南部を花井としていましたが、廃藩置県以降、九重(クジュウ)の対岸が花井となりました。
 江戸時代の花井は製紙が盛んに行われていて、ここで作られた紙は衣服、布団、蚊帳など様々な物に使われました。花井紙は非常に良質な紙で有名でした。

 花井は川沿いに集落が並び、九重から直線距離が短かく、渡し船が唯一の交通手段でした。学校などは無く、道が繋がるまで渡し船で九重に通学するなどしていた様です。夏場は大水になる事が多いので増水時は学校にも行けなかったと想像されます。車道が開通したのはごく最近で、昭和59年の頃でした。

 平成12年(2000年)頃には住民は移住して常駐する人は居なくなり、平成23年(2011年)の紀伊半島大水害では家屋が大被害を受けました。


百夜月(モモヨヅキ)と竹筒の由来

 花井の1番北の端に百夜月という場所があります。この場所、現在も家があります。ただ、陸路で辿り着ける場所では無く、船を使って行く必要があります。へんてこな名前だと思って調べてみると、百夜月にはこういう昔話が残っていました。

簡単に解釈すると↓
 昔々、花井に紅梅寺というお寺があり、そこにはたいそう美しく信仰に熱心な尼僧が居たそうです。尼僧は近隣の村の若い男たちの憧れの存在でした。

 ある若者が、「どうしても尼僧に会って話がしたい!辛抱たまらん!」と、夜に対岸から船を漕ぎ出しました。闇夜のはずが月光が眩しく、尼僧に会いたくても地元民にバレてしまう。憧れの尼僧に迷惑をかけてしまう。と船を引き返す羽目になります。幾度も若者は夜な夜なチャレンジしますが、その都度明るい月が現れて対岸に渡れません。そこで何故か若者は母親にその事を話します。

 経緯を聞いた母親は「月があの方を守ってるんや。お前みたいな者が100回行っても会える様な人物では無いからやめとけ」と諭したそうです。

 若者が尼僧に会う為川渡りを試みた回数は何と99回。この様な出来事から百夜月と言う地名が付いたそうです。

若者よ、、残念。。。
という言い伝えで、お寺跡やお堂が残っている様です。

 更にこの熱心で美人の尼僧は、周囲の村にも仏教を広めるべく、各村で祀ってもらうよう寺のお宝を渡します。

①九重の重箱は現在の九重へ
②花瓶は現在の花井へ
③竹の筒は現在の竹筒へ

この様にして周辺の村が名付けられたそうです。中々素敵なエピソードで、非常に興味を持ちました。

百夜月の裏山を通る村境

 百夜月へは陸路が無く、船で渡る事が通常です。現在もかつて暮らしていた方が管理しているとの事。ただ、地図を見ると尾根伝いで行く事が出来そうです。その尾根が村境の稜線になっているのですが、何故ここ境目としたのかが不思議でなりません。山があったのか、重要な何かがあって、必要なので十津川領としたのでしょうか? 謎は深まります。。。

 この辺りにアプローチするには、国道168号線より三和大橋を渡り花井へ続く峠道の途中から入山する必要がありそうです。今後、村境の確認に是非行ってみたいです。
 一応、『北山川の向こうに存在する村境』としてルートを引っ張ってみました。

等高線地図
衛生写真

村境の東側は一枚岩の大きな岩盤なので決して近付かない様にしなければなりません。

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