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腑に落ちるコミュニケーション       「知らないこと」と「分からないこと」

私がNOTEに投稿を始めて10日間が過ぎ、これまで8つの書き物をアップしてきました。
この間、「文章で伝える」つまり「書き言葉だけで伝える」ことの難しさを感じているからこそ、「伝えたい、分かってほしい」という強いモチベーションが維持できているのかもしれません。
もちろん、それを実現させる力量がまだまだ伴っていませんが…。
今回は、この「分かっている」という言葉をきっかけに、コミュニケーションについて書いていきます。

第1回の投稿では「説明責任」を取り上げました。
アカウンタビリティー(accountability)は「納得責任」と訳すべきだ、と書きました。
「話し手」と「聞き手」がいる場面、よくそんな場面がありますね。
たとえば、記者会見が典型例で、学校の講義もそうでしょう。
一般に、話し手は「その場のテーマにおける情報を持っている人」なので、「情報強者」と名付けます。
他方の聞き手は「その場のテーマに興味があるが情報を持っていない人」なので「情報弱者」と名付けます。

情報強者である「話し手」は、情報弱者である「聞き手」に納得してもらおうと工夫を凝らしてこそ、初めて伝わります。
仮に、話し手が「伝えたくない、隠したい、知られたくない」のであれば、情報弱者たる聞き手は納得するはずがありません。

「腑に落ちる」という経験をしたことがありますね。
「な~るほどね!」と膝を打つような爽快感、難問を解いた瞬間の達成感、自分の能力向上を自覚した充実感、話し手はこの状態を目指すべきです。

聞き手の側にも条件があります。
第一に「その場のテーマに興味を持つ」ことです。
次に「話し手の発する言葉に集中する」姿勢が必要です。
この点では、前述の「記者会見」と「学校の講義」の違いが分かりやすいですね。
前者の集中力は高く、後者は低いといえるでしょう。
もちろん仕事と勉学の違いもあるでしょう。
仕事であれば、情報を獲得した後にそれらを使って貢献するという使命があるので、必死にそれを掴(つか)みに行くからです。
一方、勉学であっても集中力を維持できる聞き手もいます。

私(筆者)は「耳から手を伸ばして(必要な情報を)掴みに行く」と表現していますが、これが常時できる人とできない人に分かれます。
もともと「耳という感覚器官」の厄介な性質は「(音声が)常に入ってきてしまう」「聞こえてしまう」という点です。
音声は「何の苦労もなく耳から入ってきてしまう」ので、「意識から切り離す」ことができる習慣が身についています。
つまり「(どうてもいいことを)聞き流すこと」と「(大切な情報を)掴みに行くこと」が分かれているのです。
だから「(大切な情報を)聞き逃す」という不幸な事態が発生してしまうことがあります。
また、書き物と違って聴講は、耳からの一時的インプットなので、レコーダで録音しておかない限り、書き物のように繰り返し情報に接することができません。
聞き手には、かなりの力量が必要なのかもしれません。

このように、情報を耳からインプットするだけでもこれだけのハードルがありますが、実はその後が本番です。

前述のように、「知っている」とは・・・
情報を自分の脳にインプットしていること、
記憶していること、
聞いたことがある、ということです。

一方、「分かっている」とは・・・
単に「知っている」つまり記憶しているだけではなくて、
その意味について「内容を的確に分割(=分けること)」して、
「自分の既存の記憶と矛盾なく結びつける」ことで、
「他者を納得させるような説明ができる水準」、
あるいは「自分がその情報を活用できる水準、に高めた上で記憶する」こと、
・・・ここまでいけば「分かっている」といえます。

だから、「知っているが分からない」ということがたくさんあるはずです。
以前に触れた「CSR」や「環境マネジメントシステム」などは、多くの人たちにとって「知ってはいるが分かっていない」典型例ではないでしょうか。

自分の頭の中でさえ、この有様です。
コミュニケーションつまり、自分と他者の間で情報のやり取りをする場合は、前述のような聞き手の事情を念頭に置いた上で、話し手は、情報強者として、聞き手に腑に落ちてもらう工夫と努力をつくす、納得責任を果たす役割を担っています。
最初から「煙(けむ)に巻いてやろう」「分からないのはおまえのせい」という姿勢は、聞き手からの信頼を裏切る行為です。

言葉というものは、実に厄介(やっかい)な道具です。
この点を甘く見てはいけません。
他者との意思疎通には、どうしても「この厄介な道具」を使わざるを得ません。
他にも、画像、絵画、図、音(言葉以外)、ジェスチャー、接触などがありますが、スピード、効率、情報量などいずれの指標でも言葉を超える道具はありません。
言葉には曖昧(あいまい)さ、意味の広がりがあります。
たとえば「環境」という言葉は、以前書いたように、大勢の人々が頻繁に使っているにもかかわらず、その意味は実に曖昧で、人それぞれに異なる広がりを持っています。
文章になるとさらに厄介で、強調する部分(濃淡)、ニュアンス、翻訳語・外来語、行間などの要素が加わりますし、会話となると表情との組合せや時間的な制約も加わります。

こうしてみると、ビジネスの場で「上司が部下に指示を出す」とようなよくある場面で、言葉の意味する実態が的確に伝わっているか、もう少し神経質になってもよさそうです。
上司の側は、前述のように「伝えようとする強い意志」が肝要です。
「分かってほしい!」「腑に落ちる(落とす)」さまざまな工夫と努力が基本です。
逆に、避けるべきは「無責任な発言」、嘘、プロパガンダ、威圧、悪意、曖昧な表現、聞き違い易い言葉の使用(たとえば「1=イチ」と「7=シチ」。私はあえて「7=なな」と発音します)、などです。

さらに、情報強者としての話し手は、情報弱者の聞き手が何をどのように受け取ったのか、意図に反していないか、などを確認しながら話を進めなければなりません。
話し手のテクニックとしては、全体をロジカルに構成し、大切な部分は繰り返し、誤解しやすいところは言い換えや喩え話・比喩を意図的に挿入し、簡単な言葉を選び、必要に応じて確認作業(たとえば、テスト=出題は肝心なポイントの強調につながります)を実施することもあります。

私は、読み手の皆さんからの信頼に対して、納得責任を果たせているでしょうか?
道半ば、まだまだだなぁという自覚はあります。
なので、しばらく投稿を続けることで力量向上を目指していこうと思っています。(*^_^*)

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