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「勝利そのもの」の値打ち

まず、問題(クイズ)です。
「128チームで野球(ラグビーでもいいのですが)のトーナメントを行います。試合数は全部で何試合でしょうか?」
よくある簡単なクイズです。
答えは「127試合」です。
答えの導き方は、「1試合ごとに必ず1チームが負ける。負けないチームは優勝した1チームだけなので、参加数128から1を引いた127試合となる。」

勝負ごとにはいろいろなものがありますね。囲碁や将棋などのゲーム類もありますし、とりわけ大多数のスポーツには勝負が付き物で目立ちます。
「勝負」あるいは「勝敗」、「勝ちと負け」、「勝利と敗北」、表現方法はいくつかありますが、「勝利と敗北は1セット」です。
勝利が単独で存在することはありません。
もっとも、比喩的な使用方法では別ですが(例:「この成果は団結の勝利だな!」といった使い方)。

勝負は社会生活で必要な仕組みとして利用されています。
たとえば、大学入試の合格と不合格を勝敗になぞることはありますね。
また、仕事の入札やビジネスのコンペなども、勝敗で表現することがよくあります。

一方で、「人生は勝ち負けではない」という表現もよく耳にしますね。
それは当たり前なのですが、少し「負け惜しみ」のニュアンスを感じます。
そう感じるのは、「人生も勝ち負けがある」と感じているからこそであって、「勝ち組、負け組」という表現や、少し前に流行った「負け犬」などもその潮流からでしょう。

その勝ち負けを少し冷静に考えてみましょう。
「勝利そのもの」に、どのような値打ちがあるのか、ということです。
「勝ちの価値(かちのかち)」です。
「勝利そのもの」というのは、「勝利に付随する名誉や賞金・賞品」を除外するという意味です。
賞金、契約金、金メダル、表彰状やトロフィー、副賞の自動車、勝利によるCM出演(出演料)、記録や他者からの記憶なども、「勝利そのもの」の値打ちではなく「勝利したことによる後付けの金品・名誉」いわば「副賞」です。

では「勝利」とは何か、それは「相手を負かすこと」です。
前述のように、「勝ちと負け」は1セットであって「勝利」単独では存在しません。
勝利には第一に「相手」が不可欠です。
その相手を「負かす」ことが「勝利」です。

それでは、「負かす」とは何でしょうか。
「勝負の付け方」「勝利と敗北の分け方」を丁寧にルール策定して、正確な判定をすることで初めて「勝ちと負け」を分けることができます。
「丁寧なルール策定」と「正確な判定」、この両者がそろわないと「勝利」を決められません。
野球でもサッカーでもラグビーでもアメフトでもいいのですが、分かりやすく陸上の「110メートルハードル」を例に取ります。
昔は男子も「100メートルハードル」でしたが、今はこれは女子のみで男子にはないそうです。
この競技は110メートルが109メートルでも111メートルでもいけません。
きっちり110メートルです。ハードルの数は10台です。
それ以外にも細かな取り決めがあるのでしょう。

さらに判定です。
スタート時のフライングは禁止で、ゴールは選手の胸がゴールラインを通過した瞬間に決まる、など細かく判定基準が決まっていて、多くの点は自動判定が採用されていて、人為的なミスや不正が起きないように配慮されています。

このように(本当はもっと細かな)「丁寧なルール策定」と「正確な判定」によって初めて、「勝利」と「敗北」とを分けることができます。
実際にはこれでも「同着」や「引き分け」が存在するので、勝敗を分けることができないケースもあるのです。

何が言いたいのか、というと・・・
「これほどの懸命な(涙ぐましいほどの)努力の末にようやく勝利が決められる」のです。
時間計測の分解能の0.01秒、1㎝にも満たない差異によって「勝負」を分けているのです。
陸上ならばまだしもです。
野球のストライク判定、サッカーのオフサイド判定、最近では「三苫選手の1ミリ」などは、その試合の「勝敗」が逆転してしまうほどの強力な影響力を持っています。
「事実は一つ」なのに、勝利(と敗北を分ける現実)はふらつくのです。
それでも「勝者」は歓喜の下にビールをかけ合い、「敗者」は寂しくその場を去って行くのです。

このように、勝利とは単なる決め事の上に成立することであって、とてもあやふやなもので、少なくとも「勝利そのもの」に値打ちはない、別の言葉でいえば、「勝利そのもの」は「新たな値打ちを生まない」ことに気づきます。

もちろん、勝利による「努力のプロセスやその成果」には尊いものがある、これは認めます。
勝利を目指すことで、その人の身体と精神が鍛えられます。
上級者は、人間の限界に挑戦することになり、強靱さや美しさという値打ちを獲得できます。
さらに、上級者にしか見えない景色を見ることができます。
しかしそれは、「勝利そのもの」から生まれる値打ちではありません。
あくまでも「勝利を追い求めた結果としての副産物」です。
「勝利者の周辺の見学者たちが感動する」という値打ちも、「勝利そのもの」が生み出した値打ちではなく、副産物の一種です。
そうした副産物によって、実社会での貢献につながることもあるでしょう。したがって「勝利そのものには値打ちはない」が、「勝利を追い求めた結果として得た副産物によって値打ちを生み出すことはある」ということですね。

つまり、「勝利を追い求める」努力やプロセスや副産物の方が大切な部分であって、仮に敗北した側であっても、勝者と比べて、こうした効果の面では大差ないのでしょう。

人間は、「勝利という麻薬」に毒されています。
繰り返しますが、勝利とは「相手を負かすこと」です。それ以上ではありません。
負ける相手が存在しなければ、勝利は絶対に存在できないのですから。
冒頭のクイズに示した「トーナメント戦の試合数」が「敗者に注目すればすぐに分かる」ということからも、「勝者よりも敗者の方が本質的」なのかもしれません。

また、「勝利と敗北」が結果的に生み出してしまう「負の側面」もありますね。
勝敗は上下(感)を生み出してしまいます。
たとえば、「勝ち組が上で、負け組が下」、「勝ちが優れていて、負けは劣る」といったイメージがありませんか?
「そんなことはない!」と口(言葉)でいくら強調しても、こうした先入観から逃れることは簡単ではありません。
もちろん、上下や貴賤といった概念から生み出される「相手を見下す感情」は、百害あって一利なしです。
独裁や専制政治、支配と隷属、虐殺や人権侵害をはじめ、「相手を見下す感情」がこの世を乱している、そう感じる事態が増えているように感じます。

そこで、身近な改善方法として「対等な会話」を推奨したいと思っています。
「対等な会話」は、相互理解の入り口、第一歩です。
全員がお互いに「対等な会話」をしてくれたら、この世の中の多くの問題が緩和・解消されるのではないでしょうか。
これからの社会に不可欠な「人間の多様性を尊重すること」、そもそも「他者を尊重すること」を世界憲法の一条としたいくらいです。

ビジネスの場面における関係性では、上司と部下、買手と売手、採用者と応募者など、現実的には上下関係が生じてしまっていて、「対等な会話」の場面は、意外と多くありません。
この点で、最近は改善しているのでしょうか。
組織内全体でお互いに「対等な会話」に向かう熱量があれば、少なくともパワハラやセクハラなどは解消できるのでしょうね。

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