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海外の日本食と、モンゴルの女の子

かなり久しぶりになってしまった。
最初は週1ペースで書こうと思っていたのに、過去の自分に申し訳ない。そして読んでくれた方々、本当にありがとうございます。
ただ、言い訳をさせてもらうとすれば、この1,2週間は怒涛だったのだ。
授業の課題の締め切りが出国の日とかぶり、レポートと向き合いつつパッキングや到着後すぐに引っ越しをしたためそのアレンジメントをしなければならず、並行して毎日仕事もあったため、なかなかこうして机に向かえる時間がなかった。
最後に日本を謳歌しようと思っていたのに、出国当日に至っては1時間睡眠で20時間フライトに臨んでしまった。
わたしのどうしようもない計画性のなさがさらけだされた休暇だった。

瞬く間に過ぎ去った一年ぶりの帰郷。
いままで旅行するお金も時間もなくて東京にずっといたけれど、今回は名古屋と福岡に行った。どちらも食べ物が鳥肌が立つくらいおいしかった。やはり、食べ物は日本が一番だと思う。たしかにハンバーガーやパスタはおいしいけれど、毎日食べるにしてはなんだか娯楽に走りすぎている印象を受ける。それに対して、お米、味噌汁、鍋。日常にいても贅沢過ぎないのに、それらから受ける幸福感は比べ物にならない。じゃああんたは日本食だけ食べてなさい、と言われたら、それは無理なんですが…。

ただ、こちらにいると、わたしは絶対に外食で日本食レストランに行かない。なぜか。嘘まみれだからだ。
日本食レストランに行くと、だいたいかつ丼、からあげ丼、寿司、ラーメンなどが主なメニューとなる。まるでサービスエリアの売店のような、ありあわせをとりあえず売っています感が半端ない。味もサービスエリアを感じる。ただ、値段だけはサービスエリアの4倍はするのだ。お金を払ってサービスエリアを感じたい人には、海外で日本食レストランに行くことをおすすめしたい。

そのため、わたしはもっぱら母が作ってくれたおいしい料理の写真を見返してよだれを垂らしながら、適当に肉やら魚やら野菜やらを炒めて、お米と一緒に食べている。生きていければそれでいいのだ、と自分に言い聞かせながら。大丈夫、泣いてないです。

恋しいのは母の料理だけでなく、最近はよく一緒に働いていた人たちのこともよく考える。
今までは日本では日本人と仕事する、という職場が多かったけれど、今回はモンゴルの人たちと仕事する機会がかなりあった。モンゴル出身の人と会うのは初めてだったから、モンゴル語を教えてもらったり、モンゴルの文化について教えてもらったりして、とても楽しかった。
よく話していたのがモンゴルから来た女の子だったのだが、とてもフレンドリーで愛嬌が良く、一瞬で好きになってしまった。わたしがもっと日本にいたら、きっといい友達になれたと思うし、なりたかったとも思う。それは少し残念だけれど、ただ彼女が日本で健やかに暮らしていてくれたらと願う。わたしは彼女と話すことをとても楽しんでいて、そのことに少し驚いた。彼女は日本に来て4年目だから、かなり流暢ではあるが、たまに言葉に詰まることがあった。ただ、それは会話の妨げにはならなかったし、むしろなんだか可愛らしく感じることさえあった。
わたしは英語を二つ目の言語として話していて、ネイティブと話すときに、ああこの人はわたしと話したくないだろうな、と思うことがかなりあった。わたしはそこまで英語がペラペラではないから、会話のスピードは速くないし、意味が通じないことも多い。だから、いらいらするだろうな、申し訳ないな、と思っていた。
でも、モンゴル人の女の子と、自分の母国語で話して、そんなことはないんだ、ということに気付くことができた。言語だけがコミュニケーションではない。言語は、ただの道具に過ぎないのだ。人とコミュニケーションを取るときには、もっと大切なことが山ほどある。

こういうことは言葉では聞いたことがあるけれど、わたしはあまり頭がいいほうではないので、身をもって体験しないと、学ぶことが難しい。そして、そうして学ぶまで、自分が知っている気になっているだけであることに気づくことすらできないのだ。
これから、異国の地で、またいろいろなことを学んでいけたらな、と思う。
昨日作った親子丼まがいの丼の写真を添えて。


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