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【映画評】ジェレマイア・S・チェチック監督『悪魔のような女』(Diabolique, 1995)

 こうして、煙草を吸う女は甘美な女らしさをもって、男の安心のために男によって作られた、控えめで消極的ではかない女らしさを断ち切る。煙草のけむりを介して、女は自らの存在のみならずその快楽を強調する。煙草を吸う女は快楽をわがものとし、それを見せつける。そもそも20世紀になるまで、女性はおおやけの場所で煙草を吸わなかった。女たちが公然と吸い始めるのは(19)14年の戦争からだ。時代が女性を仕事に就かせ、工場では女たちが戦争にいった男たちにとってかわった。堅苦しいコルセットによる束縛から解放されたのだ。煙草の権利はしなやかさの権利、解放された曲線の権利だ。この時代、喫煙する女が男の役割を横取りすると考えられていた。ルイーズ・ブルックス、グレタ・ガルボ、ジーン・ハーロウ、キャサリーン・ヘプバーンのようにパンタロンスーツをまとい、髪をボーイッシュにして帽子をかぶりネクタイをした女たちが(Gombeau 89-90)。

 1995年版『悪魔のような女』は「煙草」めぐるドラマと読める。映画史上に燦然と輝く1955年版もそのような物語として理解できないわけではないのだが、当リメイク作はこの小道具を前面に押し出したという点で興味深い。
 映画の冒頭、画面に現れたニコル(シャロン・ストーン)は既に煙草をくわえている。発作を起こして倒れたミア(イザベル・アジャーニ)を冷静に介抱するニコルは、その後しばらくは、学校で、自分の家で、喫煙の権利を謳歌する。そのように煙草を吸う自由を享受する限りにおいて、彼女は、ミアと共にたくらんだ夫ガイの「殺害」とその後の隠ぺい工作を主導することができるだろう。つまりここで煙草は、物語における「男性的」ヘゲモニーの象徴としてある。
 もちろん、女たちの背後には男が、ミアに対しては夫として、ニコルに対しては情夫として横暴を働くガイがいる。物語前半において裏から女二人をあやつっているのはまぎれもなく彼である。いや、この男が喫煙するシーンはなかったはずだし、そもそもヤツは映画の表舞台から長らく退いているではないか、そう思われる向きもあるだろう。しかし、思い出してほしい。彼が沈んでいるはずの学校のプールの底から、彼の代わりに拾い上げられたものがなんであったかを。そう、ライターである。この陽光を反射して金色に輝く、煙草に火をつけるための道具が、ガイという男が未だヘゲモニーを失っていないことを強烈に主張する。
 このように、ヘゲモニーを象徴する小道具として煙草を見るとき、最後まで受動的であることをやめないミアが非喫煙者であることにも納得がいくだろう。では、最終的にこの映画を支配するのは誰なのか。
 シャーリー(キャシー・ベイツ)はどうやら禁煙を試みているらしい。死体置き場から走り去るミアを見つめる、あるいはミアのいるダイナーに押し掛ける彼女の手には、火のついていない煙草が握られている。こうして、半ば強引にミアを説得したシャーリーは、ニコチンガムをかみながら「事件」に介入する。面白くないのはニコルである。彼女がいらだたしげに煙草をくゆらせる間に、ニコチンガム・シャーリーの捜査は着々とすすめられることになる。
 その後の煙草の描写もなかなか気が利いている。一度はミアのもとを去ったニコルは、車を止めて一服することで引き返してミアを救おうと決心する。あるいは、ミアがガイの「生存」を確信してか弱い心臓をかかえて逃げ惑うはめに陥るのは、火をつけられたままの葉巻が彼の机に置いてあるのを発見したからである。
 無論、最後にこの映画を支配するのは、禁煙をきっぱりあきらめて、さもうまそうに煙草をくゆらせ悦に入る、シャーリーその人である。

〈引用文献〉 Gombeaud, Adrien, Tabac & Cinéma: Histoire d’un mythe, Editions Scope, 2008.

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