【映画評】クロエ・ジャオ監督『ノマドランド』(Nomadland, 2020)。
フランシス・マクドーマンドの演技には敬服するも、『スリー・ビルボード』(2017)に引き続きその主演作が「白人」を慰撫するような映画になっているのが気にかかった。ノマドとは言い条、彼らは車上生活を自ら選び、孤独でこそあれ大自然の中での生活を謳歌している、要は遅れてきたヒッピーである。
彼ら選択的季節労働者=車上生活者にとって、Amazonに代表される巨大企業(コングロマリット)は、安定した工場労働を定期的に提供してくれる庇護者であり、彼らを搾取する悪としては描かれない。また、監督が中国籍であるにも拘わらず、本作にはほとんど「白人」しか登場しない。果たしてその様な世界における「自由」とは何なのか。
いや、彼らというよりは「彼女ら=アマゾネス(Amazones)」というべきか。白人女性ノマドたちの車上生活を蝶番にして大自然と大工場を共に「大風景」として提示する監督の手つきの危うさよ。それは状況が既にそうなっていることへの諦念で、Amazonをよもや「崇高(sublime)」の名の下に称えたい訳ではないのかもしれないが。
ハウスではなくホーム。物に対する所有欲ではなく(車のヴァンが象徴する様な)物への思い入れ、物が喚起する記憶、物との共生。いくらでも流行りの言葉で語れそうな映画ではあるけれど、消費社会に搾取されながら消費生活を続ける「白人」の映画という意味では、ジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』(1978)に近いかもしれない。
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