【映画評】デイヴィッド•リンチ監督『マルホランド・ドライブ』(Mulholland Dr., 2001)
隠されたあらすじ
生まれ故郷のカナダ・オンタリオ州で開かれたジルバ大会で優勝した(さらには叔母からいくばくかの財産を分与された)ダイアン・セルウィン(ナオミ・ワッツ)は、それをきっかけにスター女優になることを「夢見て」ハリウッドにやってきた。彼女は、映画『シルヴィア・ノース物語』の主演女優オーディションを受けるが、カミーラ・ローズ(ローラ・エレナ・ハリング)に役を奪われる。そのカミーラと恋仲になって彼女と同棲を始め、また『シルヴィア・ノース物語』の端役をも得たダイアンであったが、監督のアダム・ケシャーとカミーラが次第にその仲を深めていくのを見過ごすことができず、殺し屋ジョーに叔母からもらったお金でカミーラ殺しを依頼する(その殺しがうまくいったことが「青い鍵」の合図でダイアンに知らされる)。しかし、良心の呵責に耐えかねたダイアンはベッドの上で拳銃自殺を図る。
胡蝶の夢
観客は『マルホランド・ドライブ』という「難解」な映画を全て観終わった後に、映画の前半部分が主人公ダイアンが死の直前に観た「夢」であったこと、そしてその「夢」の背後には上記のような「物語」が隠されていたことを事後的に理解するだろう。
古典的なハリウッド映画であれば、上記のような「物語」を過不足なく描いたに違いない。「古典的ハリウッド映画」とは「形式よりも物語を優先する」、「1930年から60年のあいだにハリウッドで流行した映画製作スタイル」である(ブランドフォード 113-114)。そこではコンティニュイティ編集(インヴィジブル編集)が用いられ、それは「映画がそもそも編集されているという事実を隠蔽」し「継ぎ目(縫い目)がないように見える効果」(自然化)をねらっている。そのとき、「物語」は、まず、前提となる一定の「秩序」がなんらかの「出来事」によって破壊され、それによって「因果の連鎖」が動きだし、最後にその問題が「解決」されることによって「秩序」も回復される、というパターンを踏襲することになるが、ハリウッド映画は、その「物語」に「自然」で「リアル」な「世界の様式的構築」を結び付けることで、「ジェンダー、人種、セクシュアリティの諸問題および資本主義経済という問題に関する常識的な見解に大きな貢献をしてきた」のである(同)。
デイヴィッド・リンチが本作で行うのは、このような「古典的ハリウッド映画」の「物語」に対する自己言及である(もう一つ、「フィルム・ノワール」という、戦後事後的に見出されたアメリカ映画のジャンルを換骨奪胎してもいる)。だからこそ、リンチはわざわざ、ハリウッド・ヒルズの尾根を走りハリウッド大手映画会社のスタジオが立ち並ぶ「サンセット大通り」 につながる「マルホランド・ドライヴ」にタイトルと舞台をずらし、その上で「物語」ではなく「形式」を優先させた映画を作ったといえよう 。ジェンダー学的観点からは、そのような(古典的「物語」が後景に退き「形式」が優先される)世界においてこそ、ヘテロ・セクシュアリティーをずらすことが可能になっているというところに注目すべきだろう。つまり、「男-女」の「ロマンティックな異性愛の恋愛が結婚と安定という結果に終わる」(同)ハリウッドのパターンが、本作では「女-女」の恋愛関係に置き換えられる。いや、そのような「女-女」の関係が前景化されるからこそ、ハリウッド的な技法や語りが無効となったというべきだろうか。
夢破れたダイアンが死に際にハリウッドで見た悪夢、「胡蝶の夢」は、古典的ハリウッドに一矢報いたのか否か。
参考・引用文献:竹村和子「「欲望」の「夢」の出来事を生きれば―『マルホランド・ドライブ』をとおって」『彼女は何を視ているのか』、2012年、19-30頁/塚田幸光『シネマとジェンダー―アメリカ映画の性と戦争』、臨川書店、2011年/バックランド、ウォーレン『フィルムスタディーズ入門』前田茂他訳、晃洋書房、2007年/ブランドフォード、スティーヴ他『フィルム・スタディーズ事典』杉野健太郎他監訳、フィルムアート社、2004年。
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