人生は漫画のコマである ー高野文子「奥村さんのお茄子」ー 4話
お待たせしていたかどうかはわからないが、作品に戻って、その後のあらすじから続けたい。
異次元の世界のお姉さん(名前がないのでこう呼ぶしかない)がまたやってくる。あの食堂のビデオは1968年6月6日の撮影で間違いなかったと言いながらお別れパーティをしましょうという。そのパーティなる場で、お姉さんはスーパーで買ってきたという茄子の漬物を奥村さんに食べるように勧める。ところが、奥村さんがそれを食べようとすると、突然皿にのったナスを振り払って、食べさせない。「あの茄子毒です」と言い出すのだった。
その次の来訪時にようやく、茄子が毒だという理由、ひいてはお姉さんがやってきた理由、先輩が1968年6月6日に調査にやってきた本当の訳が明かされる。お姉さんの先輩は当時の人間の食生活調査に来ていたのではなかった。実は食べると30年後に死んでしまう茄子を研究所で開発したので、その効果を試すためにその日の奥村さんを実験台とすべくやってきたのだと説明する。先輩は定食のお皿に毒茄子を入れ、奥村さんが食堂にやってくるのを待っていたのだが、目論見がはずれる。奥村さんはその日の午前は資格試験があって、お昼の営業時間には現れず1時過ぎて自分の弁当を持参してきたのだという。先輩には好都合なことに、奥村さんのお弁当のおかずがナスだったので、奥村さんが毒茄子を食べたとの「偽りの証拠」としてその映像をビデオに撮って研究所に提出したのだ。
先輩はこの失敗をずっと気にしており、その失敗を隠すために、5年たつと死んでしまう茄子を開発していて、実は、その前の来訪時のパーティでお姉さんが奥村さんに食べさせようとしたのは「その5年タイマーのナス」だったことを打ち明ける。わざわざ本当のことを告げたのは「先輩亡くなったんです。昨夜電報が来ました」とあっけらかんな表情で付け加える。
一方的に、身勝手な殺人計画の顛末を聞かされた奥村さんは、もう話の相手にはならないという憮然とした態度を示すが、お姉さんはさらに、「その日に食べた茄子の味を思い出してほしい」という。その理由は30年タイマーの毒殺効果を5年後に別の仲間が奥村さんのところにやってきて、本当に毒ナスを食べたのかを確認し、食べてなければもう一度食べさせようとするに違いないからだという。
きわめて、ややこしい状況設定であるが、自分には何も良いことのない事情の説明に奥村さんの反応は悪い。そこへ奥村さんの過去の大切な記憶のコマ、奥さんと出会った頃のテニス、子供が小さい時に自転車にぶつかって運び込まれた病院、そういった重要度の高い映像のその時に1968年6月6日何を食べたか聞かれたら何と答えるのかの映像をオーバーラップさせながら若いお姉さんがたたみかける。自分にとって大切な記憶のコマと6月6日も同じように希少な記憶のコマであることを奥村さんは得心し、お姉さんの意図が自分を守るためだということを理解する。
こうして奥村さんとお姉さんとの録画したビデオのコマの映像の再検証の作業に進む。当日の奥村さんが手に持つアルミ弁当箱の裏側には醤油さし(つまりは先輩)も映っている。そこから先は、さらにビデオに映った映像の分析が続く。奥村さんは箸の間の窓の向こうの小学校にいた子供がこちらを向いている映像に気が付く。するとお姉さんは、この子供を探し出して、奥村さんが茄子を食べていたかどうかヒアリングに行くが当然に本人はそんなことは記憶していない。ビデオのズーム機能を使うとさらに見えていなかった映像が見えてくる。その子供は佐久間君という名前だったことが体育服の名札からわかる。佐久間君の後ろでは二人のクラスメートの姿とボールが見え、そこから体育の授業のドッチボールの最中だったことがわかる。ボールのずっと後ろには体育を見学して休んでいる少年がしゃがんでいて、右側には先生らしき男性が何か注意している。その先生の後ろには郵便配達員が自転車で左へと走っていく、その前方には鳥居があって、鳥居の前にはポストがある。ちょうどポストには女性が手紙を投函するところで、そのうしろを軽トラックが走っていて、並木に隠れてはっきりしないが、トラックには「下田」と書いてあるように見える。(先の回で説明すべきだったが、奥村さんが資格試験に合格したらバイクをくれると約束してくれたのが下田さんだった)ここまで、ありふれた日常の風景であるが、フラッシュバックのようなコマの連続である。
ここで漫画にでてくる録画映像は、どこに記録されたものだろうか。漫画の設定とお姉さんの説明によれば、醤油さしの姿の先輩が当日撮影したテープをテープデッキの拡大機能を使って再生したものである。高野文子先生の設定はその通りではあるが、これを読んだ読者の立場でとらえると、この映像は奥村さんの脳内のニューロンに記録されたその日の映像の断片ではないだろうかとも思えてくる。
確かに物理的には先輩の記録したテープ媒体ではあるが、そこに撮影された人物や風景を奥村さんが「理解できる」とは、奥村さんの脳の中にもこれに相当する(ほとんど壊れかけているかもしれないが)記憶のコマが存在していることをこの漫画は、高野文子先生は言いたいのではないだろうかと、思うのだ。なぜならば、奥村さんの脳内に「このテープの映像に関わる情報」が何も存在しなければ、そのテープが何を記録しているかを理解することができない。ところが奥村さんはほぼすべての映像を説明しきっている。
少し前の文芸雑誌の「KOTOBA」(集英社No.51)がカズオ・イシグロの特集をやっていた。同誌に掲載された多くの評者の解説を総合すると、カズオ・イシグロの小説の特徴は「私」という語り手の不確かな説明があるという。そして説明される事実と「私」の説明の微妙なずれに、その妙味があると説明されていた。
そのうえで、生物学者福岡伸一先生のカズオ・イシグロを巡る寄稿では福岡先生がかつてカズオ・イシグロとの対談したときのことを引用し、「人間の脳は、ビデオテープや光ディスクのように記憶をそのまま保存できない」「脳の奥底に沈んだ記憶は、想起することで絶えず作り変えられ、変容しながら蘇る」という点で意見が一致したと書いていた。この文脈では「動的平衡」論生物学者と「つかみ取ろうとしてもつかむことのできない記憶という事実」のもどかしさを書いたカズオ・イシグロの間での意見の一致に留まる。
ところが、高野文子の「奥村さんのお茄子」の読者たる私には、この漫画のコマ/記憶の構造を説明している「一般法則」のように聞こえてびっくりした。
つまりは、冒頭の5コマが網膜・視覚神経から人間の知覚までに入力されるコマという映像情報(すでにコマ切れで時間的にも空間的にも欠損だらけ)の生理学を見事に説明したとすれば、ここでのコマのフラッシュバックは、脳内の奥底に沈んだ記憶というコマが、これも読み書きを繰り返してぼろぼろになりながらも再生される、そのような稀有な情報の入力と再生の現場を
この漫画は人生のコマの希少さを儚さ、愛おしさとともに描いているのではないだろうか。
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