「文にあたる」と言葉の多様性


浅葱色

「文にあたる」という牟田都子さんの本が新聞やWEBで紹介されており、校正とは何か?を知るために、早速読んでみました。

内容は校正者の仕事についてのエッセイなのですが、単なる校正・校閲の奥深さだけではなく、仕事を通じて得られた柔らかな人生訓のようなものが散りばめられていて、印象深い本でした。

それ以来、辞書は「引くもの」ではなく「全部引くもの」になりました。

著者が校正者として駆け出しの頃、「間違いでは」という言葉を「拾えた」と思っていた鉛筆(指摘のコメント)を見た師匠が「全部引いた?」と言ったようです。そこで校閲部の書架にある三十種類近くの辞書を引いてみると、間違いだと思っていたものとほぼ同じ形の文章が例文として載っている辞書があったようです。

これを読んだ時、以前から湧いていた「正しい日本語とは何か?」という疑問に対するヒントを見つけた気がしました。

言葉は辞書によって違うし、時代によっても変化するということです。たとえば、

「敷居が高い」

著者は「敷居が高い」という言葉を例に挙げています。「高級過ぎたり、上品過ぎたりして入りにくい」といった「ハードルが高い」意味で理解している人が最近多いようですが、本来は不義理した相手の家に行きにくい、という意味のようです。恥ずかしながら私は前者の理解でいました。
ところが、「間違いだった」方の意味も2018年刊行の広辞苑(第七版)に採用されたとのことです。

果たして「渡る世間に鬼はない」と「渡る世間は鬼ばかり」は一千年後にどちらが一般的な言葉になっているでしょうか?

「浅葱色」

以前、鎌倉の鏑木清方記念美術館を訪れたところ、「桜もみぢ」という個人的に大好きな作品のキャプション(子供向けのキャプションも)に、気になる表現がありました。
鶯色の着物を指して「浅黄色」と記載してあったのです。

これは単なる変換ミスなのか?
解説文を読んでいて、一瞬止まりました。それは浅い(薄い)黄色と解釈できてしまうため、解説としてのキャプションには緑に近い薄藍色をダイレクトに示す「浅葱色」にするべきではないかと感じました。

浅葱色は《薄いネギの葉の色の意。「葱」を「黄」と混同して「浅黄」とも書く》とデジタル大辞泉にあり、更には浅葱色と浅黄色は別の色として実際の色見本を掲載しています。また、「浅黄」を誤用と記載している記事もネットに散見します。

何とその矢先に、今更ながら漱石の「我輩は猫である」(新潮文庫 百二十五刷)を読んでいたところ、「浅黄木綿(あさぎもめん)の着物を」と振り仮名付きの記述があるではありませんか!

こうしてみると、なるほど日本語は恐ろしいほど多様で、大胆に変化をし続けている生き物のようです。

「文にあたる」にあるように、1つの言葉を取って「間違い」だと簡単に指摘することが出来ないのは、良く分かります。

ややともすると、これは人生のあらゆる場面にも言えることかもしれません。

メディアに頻出する「論破」という、いささか刺々しい言葉がありますが、果たして相手をやり込めるような「正しさ」とは何だろうか?と自戒を込めて考えてしまいます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?