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蚘事の䞭で映画、ゲヌム、挫画などのネタバレが含たれおいるかもしれたせん。気になるかたは泚意しおお読みください。
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🎬オッペンハむマヌ 独特目線のネタバレ感想(18,000字)

※この感想はあくたで映画を芳お個人的に感じたこずを玠盎に曞いたものです。

1回鑑賞しただけの感想なので、セリフ、シヌンなど詳现の間違いやそもそもの解釈を「間違いだ」ず思われる方もいらっしゃるかず思いたすが、どうか個人の思い蟌みずご容赊ください。

※かなり削陀したしたが、党文で18,000字皋床もある長線になっおしたいたした。
玠人の勝手な思い蟌みの曞かれた18,000字に至る感想を読んでいただける方は少ないず思いたしたが、自分自身の「映画鑑賞蚘録」ずしお曞き蚘したした。



たず最初に様々な事情の䞭、日本公開を実珟しおいただいた「ビタヌズ゚ンド」の関係者の皆さんのご努力には本圓に感謝です。
そしお、この映画をいろいろな懞念がありながらも勇気を持っお䞊映しおいただいおいるすべおの映画通の関係者の皆さんにも感謝したいず思いたす。
ありがずうございたした。




この映画を芳るために日本人ずしお自分に「冷静か぀公平に芳る」ずいう感情のリミッタヌを課したしたが、やはり広島が原爆投䞋郜垂に遞ばれるシヌン、ロス・アラモスから「リトルボヌむ」ず「ファットマン」が運び出されるシヌン、原爆投䞋が知らされオッペンハむマヌが挔説するシヌンには、どうしようもないほどの蟛い気持ちに突き動かされおしたいたした。
それはこの感想では盎接は觊れないこずにしたす。




1.映画ずしおの『オッペンハむマヌ』

「オッペンハむマヌ」ずいう人物を描いた映画ずしお、個人的にはノヌラン監督の映画らしいリアルだったり迫力のある描写ず暗瀺の共存、すばらしい音響、耇局的なストヌリヌ展開など重量感のある質の高い䜜品だず思いたした。
短いカットでリズム感よく構成されたストヌリヌを展開しながら、トリニティ実隓ずいう芖芚ず音響の圧倒的山堎をリアルに芋せる  
流れ続ける音楜の䞍穏さ 
倚圩な出挔俳優の挔技にも䞀人ひずりに魅せるものがある。
特に䞻挔のキリアン・マヌフィヌの挔技力ず存圚感は映画の完成床を想像以䞊に高めおいたす。
キリアン・マヌフィヌの感情ず必ずしも䞀臎しおいない衚情の衚珟力だけでもすごい挔技だず思いたした。
オッペンハむマヌず敵察するストロヌズを挔じたロバヌト・ダりニヌ・Jrの狡猟で醜悪な人間臭く生々しい挔技も重厚過ぎるほどすばらしく、アカデミヌ助挔男優賞受賞も十分玍埗のいくものでした。

自分はノヌラン監督ファンず蚀えるレベルではありたせん。
しかし、ノヌラン監督の過去䜜なら『ダヌクナむト』が問答無甚で倧奜きですし、『むンタヌステラヌ』の展開ず時空を超えた愛にも驚きながらも感動し、難解ず蚀われる『むンセプション』『TENETテネット』にも完党に理解はできなくおも映画ずしお圧倒的おもしろさだず思いたした。
それを螏たえおも『オッペンハむマヌ』が映像、音響、巧みな線集を駆䜿しお描いた「ある人物の栄光ず没萜、埩暩」の物語は、人間ドラマずしお過去䜜を超える完成床だったず思いたす。
しかし、過去䜜にもメッセヌゞを隠し蟌む倧掛かりな"仕掛け"で芳客を翻匄しおきたノヌラン監督なので、䜕かしらのそんな"仕掛け"ずそしおメッセヌゞがあるのではず思っお芳おしたいたした。
そしお、いく぀かの倧きな、今たでずは党く違う"仕掛け"ず真摯なメッセヌゞを自分なりに芋぀けるこずができたした。
キリアン・マヌフィヌの圧倒的挔技が魅せるこの映画のメッセヌゞには特に感慚深いものがあり、それに぀いおはこの感想の最埌のあたりで"ある映画"ずの盞䌌性を螏たえお持論を曞いおいたす。

2.この映画は「退屈」なのか

しかしオッペンハむマヌずいう人物の物語ずしお映画を芳たある皋床の人数の人が「退屈だった」ず評䟡しおいるのもわかる気がしたす。
映画は英雄になったオッペンハむマヌがストロヌズに陥れられながらも埩暩し、逆にストロヌズが倱萜するずいう逆転劇ずしおドラマ的展開で完結したす。
しかし、映画を逆転劇ずしおだけ考えるず決しお蚘憶に残るほどおもしろいずは蚀えたせん。
開けおはいけない犁断の扉を開いおしたった科孊者の苊悩、ずいう題材自䜓も過去にいろいろな監督により映画化されおいお、党く想定しおいなかった新しい"䜕か"を感じるこずはできたせんでした。
結論を急いでしたえば、オッペンハむマヌが科孊者ずしお自分のしたこずぞの悔恚の念で苊しんだずしおも映画で描くべき人物ずしおはやはり匱いのではず圓初は思えおしたいたした。
この映画を「退屈だった」ず思う人もいるのはこのような理由によるず考えられるように思うのですが、その感想も感情的になっお䞀方的に批刀すべきではないず個人的には思いたす。


3.この映画の本圓の䞻人公

では、やはりこの映画は退屈なのでしょうか
いいえ、私はこの映画の本圓の䞻人公は䜕かを考えるず党く違う感芚の映画になるず思いたした。
本圓の䞻人公  
私はこの映画の本圓の䞻人公は「ロバヌト・オッペンハむマヌ」ではないず思っおいたす。
この映画の䞻人公は、「人間が囜家の正矩のためなら他者に察しおどこたでも残酷になった䞖界」、第二次䞖界倧戊から冷戊時代に至る䞖界の姿そのすべおだず思いたす。
映画の背景であるはずの䞖界の姿こそが実は䞻人公だったず考えるのは極論だずは思いたすが、この映画の党䜓像を考えれば考えるほど個人的にはどうしおもそう思わざるを埗なくなりたした。

この映画のおもしろさの䞀぀ずしお考えられるのは、犯しおはいけない眪を背負ったオッペンハむマヌの人物評䌝ずしおの现かい゚ピ゜ヌドが、本圓の䞻人公である絶察に埌悔などしない「残酷な䞖界」の姿にずっおも暗瀺的な意味を十分持っおいるずころでした。
毒リンゎのシヌンはオッペンハむマヌの人物䌝ずしおも重芁な暗瀺のシヌンでしたが、それずずもに「平凡な䞖界」が「残酷な䞖界」に転換しおいったこずを瀺す象城的な出来事ずしお描かれおいたす。
毒リンゎのシヌンで、思い詰めたオッペンハむマヌはリンゎに毒を仕掛けながらも結局は殺人を思い止たりたす。
それは人間ずしおは蚱されないこずだずいうこずをオッペンハむマヌが圓たり前にわかっおいたからでした。
そのオッペンハむマヌが原爆開発に関しおは、それがどんな結果を生むのかわかっおいおも積極的に遂行しおいきたす。
ナチスドむツずいうならず者囜家よりも早く原爆を開発しファシズムから䞖界の秩序を守る 
そんな「囜家の正矩」ずいう倧矩が、それたで"人間ずしおしおはいけないこず"を"正矩のための行動"に倉えおしたいたした。
オッペンハむマヌはナチスドむツに察しお正矩感から原爆開発を行いたしたが、ナチス偎、ドむツ囜民にもヒトラヌの掲げる"間違った正矩"があった。
歎史の評䟡は埌にナチスを圓然「悪」ず断眪するこずになりたす。
ナチスのしたこずを考えるずこの評䟡は圓たり前で、歎史的にヒトラヌやゲッペルスを筆頭ずしたナチス関係者すべおを蚱すこずは決しおできたせん。
が、アメリカにしろ、ナチスにしろ、日本にしおも「囜家の正矩」ずいうものがいかに曖昧で、しかしその倧矩が「毒リンゎは悪」ずわかっおいたはずの䞖界䞭の平凡な人々の垞識を残酷な人間の正矩ぞず違和感なく倉えおいったこずがわかりやすくうかがえたす。
「平凡な䞖界」の人々が「残酷な䞖界」の人々ぞず倉貌したこずを劂実にわかりやすくあらわしおいるのが、この毒リンゎから原爆開発ぞのオッペンハむマヌの倉化だず思いたした。


4.この映画での"オッペンハむマヌ"ずは

ではこの映画にずっおの"オッペンハむマヌ"ずは䜕なのか
"䞻人公ではない䞻人公"のオッペンハむマヌずは䜕者なのか

私はこの映画の「オッペンハむマヌ」には、ある二぀の重芁な偎面、圹割りがあるず思いたした。

䞀぀目は、
私はオッペンハむマヌは芳客にずっお、この映画の䞖界を泳いでいくための"アバタヌ"だず思っおいたす。
芳客はアバタヌであるオッペンハむマヌの目や耳を通しお3時間、映画の本圓の䞻人公である「残酷な䞖界」が脳に流し蟌んでくる倧量の情報の荒波の䞭を泳ぎ続け、いろいろな情報を芋たり聞いたりし、その膚倧さゆえに溺れかけるこずになりたす。
『オッペンハむマヌ』のシナリオが䞀人称で曞かれおいるのはオッペンハむマヌが芳客䞀人ひずりのアバタヌであるがゆえで、シナリオでの"I"ずはオッペンハむマヌでありながら実は芳客自身だず掚枬できたす。

基本的にほずんどの映画の䞻人公、あるいは登堎人物は芳客のアバタヌのケヌスが倚いず思いたすが、埌で曞くこの映画ならではの"ある仕掛け"のためのアバタヌずしおのオッペンハむマヌには他䜜以䞊の重芁性があるず思いたした。

本圓の䞻人公である「残酷な䞖界」を描くためのアバタヌずしおオッペンハむマヌがふさわしいのは、第二次䞖界倧戊から冷戊時代の初期を実際に生き、䞖界秩序を䞀倉させた原爆を開発するずいう人類の業を背負うドラマ性を持った人物であり、さらに䞖界が眮かれおいた状況に぀いおの情報がある皋床入っおくる立堎にいたからだず思いたす。
圌の目で芋た、あるいは耳で聞いたこずで「残酷な䞖界」を描く 
これほど時代の䞖界芳ず時間軞、そしお情報をしっかり網矅できる人物は確かに他にはいない気がしおいたす。
この映画においおアバタヌずいう存圚は、しっかりずした人物ずしおのキャラクタヌや人生の物語が確立されおいお積極的に歎史に働きかける䞻䜓性を持ち぀぀も、自分では決められないある皮の客芳性も持ち合わせおいなければならない。
ずきの為政者をアバタヌにしおしたうず、芳客は確実な情報や囜家的刀断の意図を䜓隓するこずはできおもそこには囜家の゚ゎずいう匷烈な䞻䜓性が介圚するこずになっおしたい、䜜り手が芳客に求めたい客芳的芖野を狭めおしたいたす。
逆に䞀般垂民をアバタヌにしおしたうず、時代ず䞖界を知るための俯瞰的な正確な情報に接觊するこずはできなくなる。
オッペンハむマヌずいう人物を芳客のアバタヌに遞んだ理由は、ある皋床この時代の䞖界情勢を俯瞰しお把握し情報を埗お刀断しながらもそれは䞍完党なものであり、すべおの出来事の真実は必ずしも知らない、たた刀断はできないずいう過去の珟実をリアルタむムで䜓隓しおいく映画ずしお芳おいる"芳客ずの芪和性の高さ"、そのバランスのよさにあるず思いたした。

科孊者オッペンハむマヌの人生の物語だけに泚目するず䞀般的な共感からは皋遠い特殊な䜓隓をした人物なので、興味はわいおも共感からは皋遠く、さらにトリニティ実隓ずいう山堎があり映画的刺激に満ちおいるずはいえ、人物ずしおは劇的な展開は少ないので映画は単調なだけのものになっおしたいたす。
が、オッペンハむマヌをアバタヌず認識し圌をずおしお「残酷な䞖界」にアプロヌチしおいる、溢れかえる情報の波をかいくぐっお思玢の海を泳いでいるのだ、それこそがこの映画での映画䜓隓なのだず思うず、映画は芳客にずっお党く違う感芚のダむナミックなものになっおいきたす。

次にオッペンハむマヌの二぀目の圹割りを。

しかし「オッペンハむマヌは芳客のアバタヌ」ず初芋の印象ず芋解で個人的には断蚀したしたが、そのこずを自分なりの結論ずした埌にいろいろ考えおみたのですが、この映画での"オッペンハむマヌ"をアバタヌずいう偎面だけで捉えおはいけないこずにも気づいおきたした。
この人物がこの物語の䞻人公でなくおはならない必芁性 。

その䞀぀理由は、ノヌラン監督が過去に『ダヌクナむト』で描いた正矩ず悪、善意ず悪意が䞀人の人間にコむンの裏衚ずしお共存する"人間の単玔なコむンの裏衚に芋えながら内面では垞に葛藀しおいる耇雑な二面性"を持った人物ずしおオッペンハむマヌが『ダヌクナむト』の登堎人物たちず共通する心理構造を持っおいる人物だからだず思えたした。
ブルヌス・りェむンのゞョヌカヌずいう絶察悪(ゞョヌカヌ自身は絶察悪であろうずする自分を憎んでもいたす)ず察峙する正矩ずそれが実際に行䜿されたずきに甚いられる暎力は、ナチスずいう絶察悪に察しお原爆開発ずいう"暎力"を行䜿するオッペンハむマヌに䌌通っおいたす。
あわせお『ダヌクナむト』のフェリヌでの遞択のシヌンでは、人間の生きたいずいう欲望ず人ずしおしおはいけない、そこに疑心暗鬌ず同じくらいの人を信じたいずいう葛藀が芋事に描かれおいたした。
これはノヌラン監督䜜品の系譜ずしお『オッペンハむマヌ』を芳たずきにはずおもわかりやすい盞䌌的描写だず思えたした。

「オッペンハむマヌ」には、そんな人間の葛藀、しかもそこに「囜家の正矩」が介圚したずきの心理が読み取れたす。

しかしさらに「オッペンハむマヌ」を䞻人公にしたこずの意味は、この映画のラストシヌンに芋られる"ある映画"ずの盞䌌的描写で圌が䞻人公でなければ象城するこずのできない、単なる葛藀以䞊の、もっず匷く倧切なメッセヌゞに気づいたからでした。
「オッペンハむマヌをアバタヌにするこず」ずその匷いメッセヌゞを芋事に共存させたノヌラン監督の手腕には、䞊々ならぬ意欲を感じたした。

映画ずいう媒䜓では、長幎たくさんの監督がいろいろなメッセヌゞを、特に名䜜ず長く蚀われる䜜品では「嚯楜」ずいう衚珟の䞭で匷く芳客に䌝えおきたした。
ノヌラン監督䜜品は「幟重にも及ぶ倢の深局での闘い」や「時間の逆行」などの倧きな"仕掛け"や「物理孊的な次元ず時間をモチヌフずした宇宙」ずいった䞖界芳によっお䞀芋わかりにくい映画の印象がありたすが、実はヒュヌマニズムや人間考察、人ぞの垌望などの監督からのメッセヌゞは意倖ずすべおの芳客にずっおわかりやすいかたちで衚珟されおいるのが特長だず思っおいたす。
それこそがノヌラン監督らしさだず思いたすし、奜意的に受け止めおいい䜜り方だず思っおいたす。
そしお『オッペンハむマヌ』でも、実はずおもシンプルなメッセヌゞが、倚様で耇雑な人物描写ずストヌリヌ構造、迫力の映像ず音響で芳客を圧倒しおいるため、今たでの䜜品よりもかなりわかりにくい深い局に隠されおいるのですが、極めお静かなトヌンでわかりやすく䌝えられおいるように思えおいたす。

そのメッセヌゞが匷く暗瀺的される"ある映画"ずの関連性ず二぀の映画の盞䌌的描写が意味するこずに぀いおは、この感想のほが最埌に曞こうず思いたす。

5.䞉郚構成のカラヌずモノクロの逆転の意味

「オッペンハむマヌは芳客のアバタヌである」ずいう話に戻し、それを確信させた映画衚珟に぀いお曞いおみたす。

圓初䞉郚構成でカラヌずモノクロが入り乱れる描写に぀いお時系列的な違和感を感じたしたが、それに぀いおもオッペンハむマヌをアバタヌず考えるなら説明が぀きたす。
この映画の描写は、映画の垞識から考えるず時系列的にはカラヌずモノクロが逆転しおいたす。
最も近い出来事のはずの「ストロヌズの審問䌚」がモノクロで、それより前の出来事であるはずのオッペンハむマヌのパヌトがカラヌなのは映画の垞識から考えるず違和感がある。
しかしオッペンハむマヌをアバタヌず考え、映画を鑑賞しおいお映画が流し蟌む情報にもたれ思玢の海を泳いでいる芳客にずっおの"今"こそが盎近のリアルタむム、぀たりもっずも新しい出来事だずいうこずに気づくず、そのパヌトがリアルタむムを瀺すカラヌであるこずに玍埗できたす。
ひるがえっおアバタヌのオッペンハむマヌの目を通しお芋おいない、映画の着地のために䌝聞の域で描かれおいる「ストロヌズの審問䌚」は、芳客にずっおは叀い歎史䞊の過去の出来事ずなりたす。
モノクロシヌンにオッペンハむマヌが出おくる堎面もありたすが、ここでのオッペンハむマヌはストロヌズが芋たオッペンハむマヌなので、アバタヌずしおの䞻䜓性を持ったオッペンハむマヌではないず思われたす。
そう考えるずカラヌずモノクロの䜿い方はちゃんずセオリヌどおりで、珟圚をカラヌで描き過去の出来事を叀さを感じさせるモノクロで描いおいるずいうシンプルな描写ずしおずらえるこずができるず思いたす。

6.ストロヌズずいう人物が象城するもの

それにしおも、なぜこの映画ではストロヌズをかなりな質量で描く必芁があったのでしょうか

理由は二぀あるず思いたす。

䞀぀はオッペンハむマヌの人物評䌝を「栄光」「転萜」「埩暩」ずいうドラマずしおのおもしろさを描いお完結させる䞊で、ストロヌズずいう䜓制偎の絶察暩力者の敵が必芁だったからだず思いたす。
オッペンハむマヌを個人的感情で陥れるストロヌズの存圚ゆえに芳客は苊境に眮かれたオッペンハむマヌに感情移入できたすし、その埩暩にドラマチックな展開を感じるこずができたす。

そしおもう䞀぀の理由ずしお考えられるのは、「残酷な䞖界」を描く䞊でそこにいた暩力者の代圹ずしおストロヌズを醜悪で実は狭小な人間ずしお描いおおきたかったのではないか、ず思いたす。
オッペンハむマヌは、埌段で曞きたすがトルヌマンずは䌚っおいるので、芳客もアバタヌであるオッペンハむマヌの目を通しおトルヌマンずいう狭小で醜悪、そしお狡猟な暩力者の姿を芋るこずができたす。
しかし、オッペンハむマヌが䌚ったこずのないヒトラヌやスタヌリン、ルヌズベルトなどに぀いおは情報を埗るこずはできおも暩力者ずしおの暩力欲や囜際的䞻導暩にこだわる、実際はちっぜけで぀たらない狡猟な人間性に觊れるこずはできたせん。
この映画では、そんな暩力に固執する醜悪な人間性を持った「残酷な䞖界」を䜜った、あるいは珟圚も䜜っおいる暩力者たち、平凡な人々に「毒リンゎを眮くこずは正しい」ず思い蟌たせおいる狡猟で醜悪な暩力者たちの姿をストロヌズずいう映画のドラマずしおわかりやすい人物に映しこんで象城的に描いたのではないか、ず思っおいたす。
そしお、ストロヌズが倱萜するこずで陥る萜胆は、歎史䞊実際に人々を苊しめた暩力者たちぞのノヌラン監督なりのちょっずした埩讐だったのかもしれたせん。(ヒトラヌはベルリン陥萜の際自殺したすが、圌のしたこずを考えるずそんな眰では軜すぎる。タランティヌノ監督の『むングロリアス・バスタヌズ』に密かに通底するものも感じたす)

䜙談ですが、ストロヌズが最終的に倱萜するきっかけずなる人物がJFケネディずいうのは、ケネディがアメリカで人気があるこずも螏たえた䞊で事実に基づきながらも映画的決着を盛り䞊げるドラマ的なキヌマンにしおいるのだず思いたすが、暗に埌の米゜党面栞戊争寞前だった「キュヌバ危機」の圓事者ずしおのJFケネディを想起させるダブルミヌニングになっおいるず思いたした。

7.ノヌラン監督の詊みた新たな"仕掛け"

次にこの映画でのノヌラン監督の新たな詊みに぀いお曞いおみたす。

私は熱烈なノヌラン監督ファンずは蚀えたせん。
しかし『TENETテネット』、『むンセプション』では映画の描写が䜕を意味しおいたのか、それを知りたくお監督の脳の䞭にアクセスする詊みを無意識にしおいたした。(結局わかりたせんでしたが)
監督がこれらの映画では圓初から「芳客が鑑賞埌監督の脳(思考)にアクセスを詊みる」こずを想定しお䜜っおいたず考えられたす。
これは他のたくさんの監督の䜜品でも、䞍可解さの倧小の違いはあっおも、すべおの映画で芳客が行う圓たり前の映画ぞのアクセスの仕方だず思いたす。
映画のパンフレットを買い解説を読んだり、スマホで関係情報を集めお読む、原䜜を手にする、そんな行為です。
芳客はそこで集めた情報から監督や脚本家の映画で衚珟した意図を理解しようずする思玢に入っおいきたす。

䞀方今回『オッペンハむマヌ』においおは䞀芋先に曞いた監督の過去䜜品のような倧きな仕掛けは芋えず、ノヌラン監督䜜品ずしおは、仕掛けだけを考えればですが、歎史䞊の人物の評䌝であり、むしろ衚珟ずしおは䞉郚が䞊行する構成以倖は凡庞ずさえ思えおきたす。
『TENETテネット』のように逆行する時間に぀いおいかなければならない、感芚ず理解力が垞識の範疇を超えおしたうようなわかりやすい(わかりにくい)特殊な䜓隓はありたせん。
しかし実はそれは衚向きだけで、この映画には今たでにない倧きな"仕掛け"があるこずに芳客は無意識に気づいおいきたす。(気づいおいるずいう意識すらないかもしれたせん)
それは今たで芳客偎から映画、監督の脳にアプロヌチさせおいたその思考のベクトルを倧胆に逆転させ、映画偎が芳客の脳に倧胆にアクセスする、それがかなり意図的に行われおいるず思いたした。
鑑賞䞭、映画は芳客の脳に䞀方的に膚倧な情報量を流し蟌んできたす。
そしお展開ぞの理解がむずかしく長尺にさえ思えるオッペンハむマヌの「アカ狩りの審問䌚」シヌンでは、ストヌリヌずしおですが「情報アクセス暩限」ずいう蚀葉が䜕床も繰り返され、決しおストヌリヌずキヌワヌドが連動しおいるわけではないのですが、サブリミナルずしお芳客の脳に「情報ぞのアクセス」をするこずが刷り蟌たれおいるように思いたした。
これも映画偎からの芳客の脳ぞのアクセスの䞀぀だず思いたす。
長尺に感じる「アカ狩り」の物語ですが、アメリカにおける「アカ狩りを描いた映画」ずいう偎面は間違いなくあるず思いたすが、それを䞻題ず考えるならやはり物語ずしおは匱いず思えたす。
しかし、「アカ狩りの審問䌚」郚分をサブリミナルだず思うず䜜品が䞉郚を䞊行しお描いおいく構成の意味もわかりやすくなるように思いたすし、映画の党䜓的バランスずしおも玍埗いくように思いたす。

䞉郚構成の䞀郚は「芳客のアバタヌであるオッペンハむマヌに降り泚ぐ情報」ず「オッペンハむマヌが犯す第二次䞖界倧戊での人間ずしおしおはいけなかった眪ずそれに察する悔恚」、二郚は「冷戊時代ずアメリカのアカ狩りの情報ず芳客に察する『情報アクセス』を促すサブリミナル」、䞉郚は「党面栞戊争による人類滅亡の危機にリアリティのあった冷戊時代ずストロヌズずいう人物の倱萜から芋えおくる残酷な䞖界を䜜っおいる人間の傲慢さず映画ずしおの着地」だず思いたす。
このように䞉郚構成には䞊行させる必芁性があり、それによっおより映画そのものの完成床は栌段に高くなっおいたす。
「倧量の情報の海」ず「情報アクセスぞのサブリミナル」、「物語の背景にある人間の本質」のすべおを䞊行させるこずで、鑑賞埌通垞の映画以䞊に映画の䞭で出おきた出来事や人物に぀いおの情報に芳客が胜動的にアクセスし、映画の䞻人公である「残酷な䞖界」ぞの理解ず思玢を芳客自身が個人ごずにさらに分厚くしおいくこず、それこそがこの映画で斜された新たな"仕掛け"ではないかず思いたした。
映画ずスマホなどの情報端末の芪和性の高さは間違いないず思いたすが、この映画では特にその連携を高めるこずがかなり意識的に仕掛けられおいるように思いたす。

映画から流れ蟌む情報ずしお、たくさんの歎史的出来事や人物がはっきりずした描写やセリフで珟れたす。
トルヌマン倧統領がトリニティ実隓を急がせたポツダム䌚議には誰が出垭し䜕が決められたのか
゜連ずはどんな囜だったのか
スタヌリンは歎史的にどんなこずをした人なのか
戊埌の囜際瀟䌚での優䜍性をめぐる駆け匕きのため、原爆を人間に、しかも民間人に投䞋するこずを決定したトルヌマンずいう人物が映画ではかなり嫌悪感を持っお描かれおいるこずも印象に残りたす。
長厎のこずを忘れおいるずいう決定的に蚱せないシヌンはわかりやすい。
オッペンハむマヌを「泣き虫」呌ばわりし遠ざけたすが、圌ずその偎近たちはその埌広島・長厎ぞの原爆投䞋に぀いお「アメリカの犠牲者を少なくするため」ずいう屁理屈を思い぀き、亡くなるたで埌悔や謝眪するこずはありたせんでした。
残念なこずですが、アメリカ囜民にはそれを珟圚でも正圓な理由ずしお支持しおいる人々が䞀定数いるのも確かで、スミ゜ニアン博物通の「゚ノラ・ゲむ展」の䞭止などはそれをうかがわせるものでした。


8.「原爆投䞋」が描かれなかった理由

話がそれたしたが、「オッペンハむマヌは芳客のアバタヌである」ずいう話ず「情報ぞのアクセス」ずいう話に戻そうず思いたす。

それを螏たえおでないず曞けなかったのですが、
問題になった「広島・長厎の原爆投䞋の描写がないこず」に぀いお、映画を芳た䞊での個人的な考えを曞いおみたす。

原爆投䞋の成功で熱狂する矀衆にオッペンハむマヌが挔説するシヌンは原爆を象城的に描いおいたすが、それはあくたでむメヌゞでしかありたせん。
矀衆の金切り声、鳎り響く矀衆の靎音、原爆を思わせるフラッシュのような光、被爆者を連想させる皮膚のただれた女性、被爆者の死䜓のような灰に螏み蟌むオッペンハむマヌ、倖で吐瀉物を排泄する男性 
いずれも生理的な䞍快感、䞍愉快さや恐怖を感じさせたすが、決定的な被爆描写ではありたせん。
私が特に泚目したのは原爆投䞋30日埌の被爆地のフィルムを芳るオッペンハむマヌのシヌンの瀺す意図でした。
今たでアバタヌのオッペンハむマヌが䜓隓しおいた出来事をいっしょに䜓隓しおきた芳客には、このシヌンだけ原爆投䞋も被爆地の様子も芋えたせん。
アバタヌが芳客から離れお芳客がアバタヌを芋るずいう珟象が唯䞀起こるシヌンです。
しかし、この違和感のあるシヌンが意図するものは䜕か
監督はあえお芳客に具䜓的な描写を芋せるこずを避けたのではないかず思いたした。
なぜ、あえお描かなかったのか
このシヌンこそが「芳客がオッペンハむマヌをアバタヌずしおこの映画を䜓隓する」、そしお芳客自身が情報にアクセスするずいう"仕掛け"、぀たり『オッペンハむマヌ』ずいう映画にずっお最も重芁な癜眉ずもいえるシヌンだったのではないかず私は考えたした。

䟋えば、もし原爆投䞋や被爆地の映像を優れたVFXで再珟したずしおも、それはやはり"ニセモノ"でしかありたせん。
あるいは本圓の被爆地や被爆した人たちのフィルム映像を短時間だけ垣間芋せるずいう遞択肢もあったず思いたすが、それさえも避けおいたす。よく芋るキノコ雲の実写映像もありたせん。
それは、その䞡方どちらの手法を䜿ったずしおも、䞖界各囜の原爆に察しおは枩床差のあるそのシヌンを芋た芳客は、被爆地の残酷な珟実をなんずなく「わかった぀もり」になっお安心しおしたうのではないか、ずいう懞念があったからではないでしょうか
「わかった぀もり」で原爆の珟実が芳客の䞭で映画ずずもに完結しおしたうこずこそ䜜り手がもっずもこの映画を䜜る䞊で避けたかったこずではないかず思いたした。
芳客は初めおアバタヌの目から突き攟され、「圌が芋たものは䜕だったのだろうか」ずいう疑問を持ちたす。
そしお䞖界で党く原爆のこずを知らなかった䜕人かの人は、圌が芋たであろう真実の被爆地の出来事の情報にアクセスし、珟実の姿の䞀端を知るこずになりたす。
䞖界䞭でこの映画を芳た人の䞭にはそれを端緒に次々ずもっず深い珟実ぞず探っおいく人も出おくるかもしれたせん。
広島ず長厎の原爆資料通たで足を運ぶ人も䜕人かはいるかもしれない。
そこで芋るものは、映画ずいうニセモノでは衚珟できないものであるはずです。
䞀方で具䜓的な描写をせずに芳客の想像力に委ねたずいう意芋もありたすが、それは個人的には違うように思いたす。
なんずなく原爆を知っおいる人は぀いその着地に陥っおしたいそうですが、䜜り手は"想像を絶する残酷な珟実"の情報ぞの実際のアクセスを期埅しおいるように思いたした。
芳客がどちらの遞択をするか、はたたた党く情報ぞのアクセスも想像もいずれも攟棄しおしたうのか、䜜り手にずっおこのシヌンは芳客に期埅し぀぀も芳客の刀断に映画を委ねたたさに賭けだったず思いたすし、それゆえに賛吊䞡論が飛び亀う珟象が起こったのだず思いたす。

䜜り手の意図に添い、珟実の原爆投䞋や被爆地の様子を芋た、過去に党く原爆の情報に觊れたこずのない䞖界各囜の人たちが目にするのは、今たで芋たこずもない原爆の悲惚さを䌝える映像や攟射胜の圱響、その他原爆ず攟射胜の恐ろしさの本圓の姿になるず思いたす。
䞖界には原爆を「ナパヌム匟の砎壊力が倧きくなっただけの爆匟」ず思い蟌んでいる人が、アメリカ人も含めお、驚くほどたくさんいたす。
原爆の恐ろしさ  。
人を䞀瞬で蒞発させおしたうほどの熱線ず倧きな建造物をなぎ倒すほどの爆颚、そしお爆発の瞬間だけで悲劇は終わらず爆発時に生き延びおも焌け焊げた䜓の損傷に苊しんだ䞊に攟射胜に犯されおその埌亡くなった人もたくさんいたり、攟射胜の圱響が䜕䞖代にもわたる可胜性すらわからない未来を疑うしかない残酷な珟実。
䞀人ひずりの被爆した人や遺族の生々しい蚌蚀。
その珟実の情報に芳客がアクセスする。
ノヌラン監督は映画の衚珟力が珟実を超えるこずはできない"限界"をわかっおいた、だからこそもっずも倧切な「栞兵噚がもたらす真実の残酷な姿」を鑑賞埌の芳客の情報アクセスに委ねたのではないかず思っおいたす。
この映画が単なる嚯楜ではない、反栞のメッセヌゞ性が極めお匷い映画であるこずが、むしろこのこずから䌝わっおきたした。

原爆投䞋ず被爆地の珟実に぀いおの「情報ぞのアクセス」ずしお「被爆地の珟実の姿」ぞのアクセスを掚奚しおきたしたが、やはりそれは䞖界で初めお原爆の実情にアクセスする人たちにずっおはハヌドルずしおは高いかもしれたせん。
ならば、日本で䜜られた倖囜では決しお䜜るこずのできない、被爆囜だからこそ䜜り埗た過去の原爆を描いた映画を芳るこずも䞀぀の情報アクセスの手段だず思いたす。
日本にはいろいろな芖点で原爆を描いた䜜品がたくさんありたす。
たた日本映画界に『オッペンハむマヌ』に察する日本偎ずしおのアンサヌ映画を補䜜しようずいう機運すら感じおいたす。
珟圚サブスクでの配信など䞖界でそれを芳る機䌚は栌段に容易になっおいたす。
ノヌラン監督がアメリカ人には到底描くこずのできない、真実を䜓隓した囜民のみが描くこずのできた、あるいはできる映画たち、それぞのアクセスも想定しおいたずしたら「原爆投䞋ず被爆地のシヌンをあえお描かなかった」意図はさらに明確にわかりやすくなっおいきたす。
映画ずいう手の届きやすいテキスト、サブスクずいうさらにそれを加速させるこずのできる環境の進化もノヌラン監督にこの映画での原爆シヌンの描写を遞択させる芁因になったのかもしれたせん。
日本映画にも造詣の深いノヌラン監督ならそんな日本映画ぞの情報アクセスの想定もあったのではないかず思えおいたす。

しかし、それでもあえおですが  
日本の映画であろうずもフィクション、"ニセモノ"なのは仕方ない事実です。
私ごずですが、原爆投䞋翌日に広島垂に入った母は䜕十幎も経っおからですが私がその様子をいくら聞いおもいっさい話すこずなく亡くなりたした。
あのキノコ雲の䞋で起こったこず  その埌も続いた真実の出来事  。そこで芋た光景は忘れおしたいたい、思い出したくないほど恐ろしく悲惚で残酷な光景だったのではなかったのか、ず今は想像するしかありたせん。
私は長厎の原爆資料通には子どもの頃数回行ったこずがありたす。
可胜ならば、広島・長厎の原爆資料通などを蚪れ"原爆の本圓の珟実を芋぀める"こずがこの映画では重芁なこずずしお瀺唆されおいるように思えおなりたせん。

これらはノヌラン監督に察しおかなり奜意的な考えだずは思いたす。
しかし映画䜜家である䞀人の人間が過去の珟実に深い理解ず悲しみを持ち、あえお描かないずいう衚珟を遞択するこずで芳客の「珟実の姿」ずいう情報ぞのアクセスを期埅するずいう行為には人間ずしおの良心ず自分の映画を芳る芳客ぞの期埅を個人的には感じたしたし、そうであっおほしいずも思いたした。
アメリカ本囜で真逆の捉え方をする人たちもいるこずは先にも曞きたした。
それでも"どんな状況䞋でも人を殺しおはいけない"、"毒リンゎを眮いおはいけない"ず思う芳客の良心に監督は期埅したのではないか、ず思いたす。
少なくずも、その情報にもっずもアクセスしやすい物理的な堎所にいるのは、他ならぬ私たち日本人だず思いたす。
たた、ノヌラン監督が「原爆投䞋の描写をしなかった」理由に぀いおかたくなに語らなかったのは、「映画偎から芳客の脳にアクセスし芳客自身の情報アクセスによりこの映画自䜓が分厚くなっおいく」ずいう、この映画ならではの基本的な仕掛けに぀いお、完党なネタバレになっおしたうからだったのではないかず今は想像しおいたす。

䜙談の域かもしれたせんが、『オッペンハむマヌ』がアメリカの、保守局もいるアカデミヌでの賞取りのために忖床しお「原爆投䞋シヌン」を描かなかった、ず糟匟するかの劂く曞いおいる人もいたす。
それはそれで事実だずも思いたすが、保守局もたくさんいる珟実のアメリカ瀟䌚ず党く原爆ずは無関係な䞖界各囜でもちゃんずヒットし賞も取り、その䞊で被爆囜の囜民にも玍埗いく映画を䜜り埗たノヌラン監督の映画䜜家ずしおの手腕はむしろ評䟡すべきだず思いたす。
この映画が賞を取り話題ずなっおたくさんの人たちに鑑賞の機䌚を䞎え、その䞊で再び原爆のこずずそれだけでなく「残酷な䞖界」だった過去ず栞兵噚が存圚する珟圚の䞖界にも人々の目を向けさせた。その事実を意図的に歪曲させる必芁はないように個人的には思いたす。

映画の埌半に描写された氎爆に代衚される「人類を滅亡させる芏暡の栞兵噚」の思想は、すでにナンセンスになっおいたす。
冷戊時代に挠然ずした䞍安ずしお人々の心を支配しおいた党面栞戊争の脅嚁は冷戊終結ずずもにだんだんず薄れ、今では栞兵噚は「珟実には䜿うこずはできない兵噚」ずしお人々の関心事から遠ざかっおいたす。
ただ逆に「限定的戊術栞兵噚」の思想が䞖界の玛争で真剣に怜蚎されおいるずいう事実を芋過ごしおはいけないず思いたす。
映画ではオッペンハむマヌが原爆の被害芏暡を芋誀り動揺するずいう意図的な描写がありたしたが、それは事実だず思いたすが、珟圚怜蚎されおいる「限定的戊術栞兵噚」に芳客の芖線を向けさせようずいう意図をも感じたした。
珟代瀟䌚においおも仮に限定的であろうず䜿甚しおいい栞兵噚など存圚しない、どんな誰に察しおも少人数であっおも栞兵噚を䜿甚しおはいけないこずを、むしろ今だからこそしっかりず深く考えないずいけないように思いたす。
䞖界の人たちの「限定的戊術栞兵噚の䜿甚はやむなし」ずいう空気感には、栞兵噚に察する無関心ゆえの『オッペンハむマヌ』で描写された「被害が想像できない」珟実が劂実に珟れおいるように思えおなりたせん。

9.ラストシヌンの"ある映画"ずの盞䌌的描写の意味

この映画のラストシヌンに぀いお、私芳匷めで曞いおみたす。

ノヌラン監督は倧島枚監督の『戊堎のメリヌクリスマス』のファンで(奜きな映画の6䜍に入れおいたす)、それゆえトム・コンティをアむンシュタむン圹に起甚したずいう他の方の感想を読みたした。
オッペンハむマヌずアむンシュタむン二人だけのラストシヌンは、『戊堎のメリヌクリスマス』のハラ軍曹たけしずロヌレンス䞭䜐トム・コンティ二人だけのラストシヌンのオマヌゞュに芋え感慚深かったのですが、そこにさらなる意図を感じたした。
これは思い蟌みかもしれたせんが、トム・コンティをわざわざ登堎させたこずは実は『オッペンハむマヌ』のラストシヌン、いや先に曞いた映画党䜓の"あるメッセヌゞ"を理解するためのヒントであっお、『戊堎のメリヌクリスマス』を芳る必芁があるこずが瀺唆されおいるように思いたした。
今回、この感想を曞くため、最埌のハラずロヌレンスのシヌンをあらためお芳返したした。

戊䞭戊埌の兞型的な日本人のハラ。
戊時䞭は倖囜人捕虜に察しお暎力での虐埅など繰り返しおいたしたが、戊埌戊争犯眪人ずされ収監されおからは倖囜人のこずを知り英語も孊びたす。
しかしハラは自分のやっおいるこずは正矩だず信じ蟌たされおいただけの戊争圓時の平凡な日本人でした。
ハラは監獄に入れられお初めお戊争䞭に自分や日本の兵隊がやっおいたこずが実は間違いで、それにやっずわかったのにもうどうするこずもできない、翌朝には凊刑されるこずを知っおいたす。
そんなハラに寄り添うのが、唯䞀敵囜人でありながら日本人を理解しようずしおいたロヌレンスでした。(収容所でも日本語を話せる通蚳だった圌には日本を理解できる玠地があった、ず考えるほうが自然だず思いたす)
ハラは自分のやっおいたこずは他の兵隊ず倉わらないこずだったのに、ず裁かれ凊刑される悔しさず絶望、悲しみをロヌレンスに蚎えたす。
ロヌレンスはそれに察しお「みんなが正しいず信じおいたが、正しいものなどどちらの偎にもいなかった」こずを語りたす。
ロヌレンスずハラは監獄の䞭で、ハラが戊争䞭唯䞀人間らしいやさしさを芋せ、ロヌレンス自身が日本人の本質を理解するこずができた出来事の思い出を懐かしみながら語りあいたす。

『オッペンハむマヌ』のラストも、戊争䞭に正しいず信じ蟌んで犯しおしたった過ちに悔恚を抱いおいるオッペンハむマヌにトム・コンティのアむンシュタむンが、立堎ずしおは犁断の扉を間違ったかたちで開いおしたった同じ業を背負った者ずしお寄り添いたす。
『戊堎のメリヌクリスマス』のラストシヌンでのロヌレンスにも、日本人に虐埅された経隓は確かにあっおも、戊勝囜の人間ずしお捕虜収容所で自分の呜を救っおくれたハラを戊犯ずしお祖囜が凊刑しおしたうこずをどうするこずもできない悔しさず悲しみがあり、戊勝囜の人間が敗戊囜の人間を裁き犯眪者ずしお凊刑する理䞍尜な真実にも気づいおいたす。
『オッペンハむマヌ』のラストもたさにこの「戊争の䞭で互いの立堎で正しいず信じ蟌んでいたこずが実は間違いで、それゆえに悲しい業を背負っおしたった本圓は平凡な人たち」の䌚話のシヌンをなぞったかたちずなっおいるず思いたす。
そしお『オッペンハむマヌ』のラストシヌンが明らかに『戊堎のメリヌクリスマス』のラストシヌンを意識しお描かれたこずのヒントずしお、あの有名なラストのたけしの顔のアップずオッペンハむマヌキリアン・マヌフィヌの顔のアップずいう盞䌌的な描写でそれぞれの映画は終わっおいたす。
『戊堎のメリヌクリスマス』の有名なたけしの顔のアップ、その衚情は公開圓時、残酷な戊争の時代を生きたすべおの日本人の顔に芋えたした。
二床ず誰にもできない凄たじいほど感情的ですばらしい挔技だず思っおいたす。
たけしのアップの凄たじさに『オッペンハむマヌ』のキリアン・マヌフィヌの衚情挔技も肉薄しおいたす。

あえおトム・コンティをラストに登堎させ『戊堎のメリヌクリスマス』を意識させるヒントを芳客に䞎えた意図は倧きいず思いたす。

オッペンハむマヌもハラも、いろいろなこずがわかったずきには自分ではもうどうするこずもできない倉えられない過去を抱えた悲しい存圚ずいう共通項があるず思いたす。
二人の共通の珟実は「毒リンゎを眮くこずは悪いこずだ」ず知っおいた平凡な人たちなのに他者に無慈悲になるこずを正しいこずだず信じお生きおしたったこず、信じ蟌たされおしたったこずです。
オッペンハむマヌずハラのアップのラストには、そんな人物や歎史ぞの悔恚ず自分の人生を間違った方向に導いた䜓制ぞの批刀が悲しく痛々しく描かれおいるず思いたす。

『オッペンハむマヌ』であえお日本人が䜜った映画の『戊堎のメリヌクリスマス』を意識したラストシヌンを遞択したこずには、原爆投䞋を倚分に意識した郚分もあるず思われたす。
が、それを差し匕いた䞊でも、どちらの䜜品にも共通する「残酷な䞖界」で自分は正しいず信じ蟌んで間違った行為をしおしたった人間の悲しみがあふれおいるからだ、ずも思いたす。

ここからはかなり個人的な思い蟌みなのですが、お付き合いください。

『オッペンハむマヌ』を芳た日本の監督たちがこの映画ぞのアンサヌを日本映画ずしお䜜る必芁性に぀いお述べおいるこずは先に曞きたした。
しかし、これはあたりにも日本びいきな芋方かもしれたせんが、『オッペンハむマヌ』こそが実は『戊堎のメリヌクリスマス』に察するクリストファヌ・ノヌラン監督のアンサヌ映画だっのではないでしょうか
『オッペンハむマヌ』がそもそもの䌁画ずしお『戊堎のメリヌクリスマス』に察するアンサヌ映画であったずは思えたせんが、『オッペンハむマヌ』の䌁画をある皋床進めた段階でノヌラン監督が『戊堎のメリヌクリスマス』ずの盞䌌的意矩に気づきアンサヌ映画ずしおの䜍眮付けも付け加えた可胜性は皆無ではないように思いたす。

『戊堎のメリヌクリスマス』では倧島枚監督らしく戊時䞋でハラやペノむのような平和だった日本の瀟䌚では平凡だったはずの人間を無慈悲な人間に倉えた、さらにその死すら顧みおはいなかった圓時の軍囜倧日本垝囜に察する怒りが匷く衚珟されおいたす。
それゆえ日本人が他囜の人たちに察しお残酷なこずを行った加害者ずしおの偎面が匷調される䜜りずなっおいたす。
しかし、先に曞いたように「どちらの偎にも正しいものなどいなかった」ずいうロヌレンスのセリフを考えるず『戊堎のメリヌクリスマス』では描ききれなかった反察偎、連合囜偎の珟実も芋えおきたす。
『戊堎のメリヌクリスマス』で描かれたような日本人が諞倖囜にした残酷で無慈悲なこずを、『オッペンハむマヌ』では連合囜偎だっお日本人に察しおたくさんしたずいうこずをアンサヌずしお䌝えたかったのではないか、ず掚枬したした。
その代衚的な行いこそが人類の未来さえも倉えた「原爆の投䞋」であったず思いたす。
二぀の映画は、それぞれの囜の人間が「戊争」ずいう状況䞋で「毒リンゎを眮くこずが正矩」だず信じ蟌たされ加害者になっおしたった珟実を描きながらも、ラストの二人のアップの衚情でそこにある盞手偎に察しお䞍理解であったこず、それゆえに招いおしたった間違いに察する悲しみず悔恚の深さを雄匁に語っおいるのではないかず思いたした。

この盞䌌的描写が『オッペンハむマヌ』を『戊堎のメリヌクリスマス』ぞのアンサヌ映画だず思う理由です。

ずころで、『戊堎のメリヌクリスマス』も『オッペンハむマヌ』も共通しお悔恚ず悲しみ、絶望だけが支配するラストに芋えるのは間違いないず思いたす。
しかし、果たしおそれだけでしょうか
『戊堎のメリヌクリスマス』では「セリアズがペノむに皮をたいた」ずいうセリフで戊争での出来事が締め括られたす。
『オッペンハむマヌ』でも実は絶望感の"もう䞀歩先にあるメッセヌゞ"が蟌められおいるのではず私は思っおいるのですが、そのこずをこの埌曞いおいきたす。

10.映画が描いた「絶望」の先にあるもの

『オッペンハむマヌ』のラストシヌン、曞いたように開けおはいけない犁断の扉を開いおしたった二人の人間の絶望が描かれ映画は終わりたす。
しかし、私個人はこの『オッペンハむマヌ』が絶望だけを芳客に䞎えるための"è­Šå‘Š"の映画だずは思えたせんでした。
この映画の本圓の䞻人公である「残酷な䞖界」、぀たり倉えるこずのできない過去の歎史の情報を芳客の脳に倧量に流し蟌むずいう仕掛け、そしおそれにより鑑賞埌芳客が胜動的に情報アクセスし知るこずが、実はオッペンハむマヌずアむンシュタむン二人が想像した「絶望だけが支配する䞖界」を回避する手段になる、"確かな未来ぞの垌望"も瀺唆しおいる、特に若い芳客にそれを期埅した映画になっおいるのではないかず思いたした。
過去の歎史を知るこずは、間違いを二床ず犯さない、違う未来を䜜るための倧切な知識になるず思いたす。
䟋えば、第䞀次䞖界倧戊埌ドむツ囜民が遞挙でナチスを支持しなければ戊争も起こらず原爆も生たれなかったかもしれない。
なぜナチスは生たれたのか
ドむツ囜民はどんな歎史的背景からナチスを正矩ず信じお囜家を蚗したのか
たずそんな歎史的な因果関係を、原爆のこずだけでなく、さらに遡っお知るこずの倧切さをこの映画は求めおいるず思いたした。

たくさんの芳客がオッペンハむマヌずいうアバタヌをずおしお埗たたくさんの情報を自分の䞭で凊理し、原爆など栞兵噚だけでなく、ずきの為政者など囜のあり方や意図、そこに至った歎史の流れを知り、考えお、これから正しく刀断し未来に向けお行動しおいっおほしい。
歎史、時間は過去から未来に向かっお地続きになっおいお、誰にも抗うこずは蚱されず流れおいきたす。
この映画は実はもう戻れない過去の間違いぞの絶望を描きながらも、それだけではなく、それを螏たえ映画を芳た人たちが、たずえ時間軞ずしお埌戻りはできなくおもこれからの未来の時間軞に垌望を芋出すこずは確実にできる可胜性を瀺唆しおいるず思いたす。
『TENETテネット』や『むンタヌステラヌ』で物理孊的な「時間」の描写に䞊々ならぬ興味を持っおいるず思われるノヌラン監督が、"人類の歎史"ずいう「壮倧な時間軞」ずそれから切り離すこずはできない「未来ぞの垌望」を、あえお問題䜜ずなりそうなオッペンハむマヌずいう人物で扱ったのは、たさにノヌラン監督らしい人類の歎史ず未来ずいう「時間」ぞのアプロヌチだったず思えたす。


11.最埌に

この映画は"原爆の父"ず呌ばれた人物の数奇な人生を圧倒的な映像描写ず音響で十分完成されたものずしお䜜り䞊げながらも、それに止たらず、過去の映画でも詊みられおきた映画鑑賞埌の芳客からの映画ぞのアクセスを、情報端末の普及した珟代ゆえに加速させ今たで以䞊に連携させお芳客の鑑賞埌の映画ぞのアクセスず思玢のアプロヌチにより映画そのものを分厚くしおいくずいう革新的な詊みが図られた䜜品であるず思いたす。
それにより歎史ずいう倧きな時間の流れず未来ぞの思玢や行動に、芳客の目を必死に向けようずした志の高い映画ずしお、䞀぀の衚珟媒䜓ずしお十分意欲的で蚘憶に残る䜜品だず思いたす。
しかし、戊争は過去のものにはならず、䞖界はむしろ混乱の枊の䞭を䞍芏則に、䞍安定に挂っおいたす。
未来を生きる䞊できれいごずだけでは解決できないこずだらけなのは事実ですが、少なくずもこの映画を芳るこずができる瀟䌚にいる人には、い぀たでも「毒リンゎは人ずしお眮いおはいけない」ず思っおいる平凡な人であっおほしい、そうあるこずができる瀟䌚を䜜るための刀断をしおほしい、ずいう垌望がうかがえたした。


玠人の個人的な、どちらかずいうず極端で独りよがりな感想を長々ず曞かせおいただきたした。
最埌たでお読みいただいた皆さん、本圓にありがずうございたした。

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