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労働は光栄なり

7月9日 日

こんばんは。ヨハネです。
今日は、『生命式』を読みたいと昨日書いてたけど、その時間をもう一冊に使いました。

西加奈子さんの『くもをさがす』です。

「カナダでがんになった。 あなたに、これを読んでほしいと思った。」
ちゃんと韻を踏んで、何度も読みたくなるようなキャッチコピーから、この本が人気の出る理由を伺えるのです。

読みたいと思ったのは、もちろん出版対策しているから本をたくさん読んだ方がいいという下心もあるけれど、一番の理由は、自分の母方の祖母も、西さんと同じ年で乳がんに罹ったからです。

乳がんに罹って、片方の胸を切除されたのです。
最初はただ胸あたりにしこりがあって、痛い、と祖母が訴えたそうです。
違う町に暮らしているから、ロックダウンもあったりなかったりする中で、結局母親だけ看病の付き添いをして、孫の私は最後まで祖母の闘病の力になってあげられませんでした。
そういえば、闘病という言い方は良くないと西さんは言いましたよね。がんは、敵でも悪意を持っているわけでもない。コロナも同じ、ただ存在するだけ。人を殺そうとか、人間社会を瓦解せよとか、人類を滅ぼすとか、そういった目的も悪意も全くないのです。それでも、我々は、自らの存在が消されないため、抗うだけ抗うのですが…もちろん、その足掻きはコロナや、がんの存在をも脅かすことにはなるのです…

歳をとった祖母にがんなんて恐ろしい言葉を出したら、がんで倒れる前にパニックであの世に逝きそうだわという母親の主張で、祖母には皆で口揃ってがんのことを内密にしています。胸にモノが生えているから、それを取り出すために一部を切除しなければならないと、母親が伝えたそうです。晩御飯を食べてる時にその話をされた自分には、どこか遠い話のように感じて聞き流しました。なるほど。それでいいのなら、好きにしてくれ。といったノリで。なんという薄情な人。

今思えば、病名を知らずに体の一部を抉られ、しかも、農村で生まれた、伝統を守ってきた女性として、祖母はそのことをどう思っているのだろうと、気になって仕方がありません。もちろん、性的な意味は全くなく、ただ、私の国では、女性、働く女性、生育する女性、育児する女性、叩かれる女性、教育の権利を当たり前のように剥奪される女性、身体性を求められる女性、無いかのように国は経済発展に突進しているけど、あまりにも凄まじい変化に、人々の意識がついていけていないと、考えているのです。祖母の世代は特に、女性が知識など要らない、ただただ労働することで、いい家に嫁いでいくことで、子供を産むことでいいんです。価値が認められる前の話です。人間の価値なんていう言葉はあの時代の人々にとっては贅沢、あるいは、それこそ当時の彼らにとって価値のない言葉だったのかもしれません。個人は、集団のために尽くすこと自体が価値の実現だったのです。

ですので、そんな環境の中で生きてきた祖母のあのことに対する考え方に、私は想像力が足りていません。そして、何もしてあげられなかったというのは、今の自分にとって何よりの悔いです。幸い、今年は帰国するので、療養中の元気な祖母に会いに行きたいと、人生初めて、こうも切実に、心から願っているのです。

昨日は、12時前に必ず投稿すると大口を叩いたから、これから長くは書けないのです。
ただ、感銘を受けた西さんの言葉をここに貼っておきましょう。

「私はいつの間にか慣れ、馴染み、あっという間にマジョリティの仲間になっていった。自分の他者性を捨てることで皆と近づき、集団に溶け込むことは息をすることを楽にした。それは同時に、他人の他者性を忘れ、マイノリティの存在を亡き者にすることを受け入れることだった。私は「当然」を手に入れ、「普通」のなかで穏やかに暮らしていたが、その陰で、「そこ」にいようと足掻き、そしてそれが叶わず、あるいは許されず、苦しんでいる人たちがいることに、長らく、本当に長らく思いを馳せなかった。」ーーp180

祖母の話からは少しずれているけど、自分がいつも考えていることです。
馴染もうとするあまり、わたしはいつの間に、自分の他者性を捨てたところかもしれません。
この話は、また今度の夜に…
おやすみなさい。



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