『さまよう刃(東野圭吾先生)』を読んで(ちなみに未読了です)


まず、この記事を書くにあたって・・・。

今までも、そこまで深く物語に入り込んだ感想というものは書いてきませんでしたが、
特に今回は全ての文を読み終えた訳でもなく書かれた

浅くも浅い、ちょ〜浅い感想文です。


それをまずあらかじめにご了承ください。

『そんなん読む意味ねぇわ』と思われた画面前のあなた。
今すぐブラウザバックを推奨します。


ともかく、どうして途中までしか読んでいないのに、こうしてNoteに記事として出したのか。

それは、『さまよう刃』の前半を読んで今、どのような感覚に陥っているのか、それをこのNoteを読んでくださっているそこのあなたと、未来の自分に共有したいと思ったからです。

それでは感想の方に移りたいと思います!


読んだところと感想


初めの父親視点による娘、と亡くなった妻の回想と、少年たちが夏祭り帰りの少女を襲う様子が並行して描写される。

どちらも娘の存在は第三者視点から描かれている。

そして、数日後、娘の死体が発見される。

父親は一つの電話を受けて、娘の死に関係しているのであろう『人物』の家に向かう。

そこには実の娘の死の真相が、娘を愛する父からすれば到底耐えられないような、地獄のような真相が残されていた。

そこに、『人物』が帰ってきたのか、玄関が開いた。

筆者はこの時点でもう読むのが辛くなった。

胸が酷く圧迫され苦しくなっていく。

どれだけ読み進めても怒りが邪魔をして文章が入ってこない。

長峰(娘を殺された父親)と感情がシンクロしていく。いや、それ以上に耐えられない、行き場のない怒りが全身を巡る。

だから、落ち着きを取り戻して、「そういう作品なんだ」ということを理解した上で今後、読んでいこうと思いました。


というのが、メモした感想になります。

「そういう作品なんだ」ということを理解する、というのは私にとってそれが現実で起きている事件ではないということを脳に理解させるという、時間と工程が必要である、というそのままの意味です。

この作品で書かれた内容が、現実のものだと思ってしまう。

いや、現実に実際に起こっている事件もある。

だからこそ、その内容が現実に起こったものだと錯覚してしまう。

まるで自分が体験したかのように。その当事者のように。

ちょっと、何を言いたいのか自分でもわからなくなりましたが、

この記事を読んでらっしゃる本好きなみなさんにも、本を読んだり、ニュースを見たり

するときにそういった経験がある人がいると思います。

その、想像力というものは、意外と人間を苦しめるものですし、

それを与えてくれる小説という媒体は素晴らしいものだと、私は思います。

(もちろん現実ではそんな目に会いたくはないですが!)

という、小説の感想というよりは、感性の話になってしまいました笑

この『さまよう刃』、心の準備が整い結末まで全てを見届けた後、再度感想として書き

起こそうと思います!

その時は何卒、ご一読の方、よろしくお願いいたします!

それでは残り半分の今日も、素敵な一日を!

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