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『ツァラトゥストラ』

フリードリッヒ・ニーチェ 1844〜1900
『ツァラトゥストラ』 1883.2

・いったいこれはありうべきことだろうか。この老いた超俗の人が森にいて、まだあのことを何も聞いていないとは。神は死んだ、ということを。

・人間は、動物と超人との間に張り渡された一本の綱である、深淵の上にかかる綱である。

・渡ってかなたに進むのも危うく、途上にあるのも危うく、うしろを振り返るのも危うく、おののいて立ちすくむのも危うい。

・あゝ、兄弟たちよ、わたしのつくったこの神は、人間の製作品、人間の妄念であったのだ。あらゆる神々がそうであるのと同じように。

・健康な肉体、完全な、歪まぬ肉体は、より誠実に、より純潔に語る。そしてそれは大地の意義について語るのだ。

・国家は善と悪についてのあらゆることばを使って嘘をつく。国家が何を語ろうと、それは嘘だ。国家が何をもっていようと、それは盗んできたものだ。

・人間が存在してこのかた、人間は楽しむことがあまりに少なかった。それだけが、われわれの原罪なのだ。

・そしてよりよく楽しむことを学びおぼえるなら、他人に苦痛を与えようとする気持ちなどは、きれいに自分の中から払い落としてしまうだろう。他人の苦痛になることを考え出すこともなくなるだろう。

・真理にむかって、『生存への意志』ということばの矢を射かけた者は、もちろん真理を射当てなかった。そういう意志は、存在しないのだ。

・既に存在しているものが、さらに存在や生存を意欲することは、ありえぬことだからである。

・およそ生があるところにだけ、意志もある。しかし、それは生への意志でなはくて、力への意志である。

・国家は偽善の犬だ。煙と咆哮とで語りたがる。そして、自分は物事の核心から語っているのだと信じさせたがっている。


これまで人間存在に意味と価値を与えてきた神の死は、その人間存在の、無意味、無価値を結果するものである。

人間の存在は偶然である。

世界と宇宙にもなんの必然性もない。

このようなニヒリズムの確認、その恐怖の直視は、ツァラトゥストラの出発点である。

そしてそこから、「わたしは人間たちにかれらの存在の意味を教えよう。意味とはすなわち超越したる人である」というかれの進路が定められる。

 ループ系


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