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詩的な静寂さと、崇高性を求めて ! ある建築家の軌跡

今回は、独自の建築哲学により、詩的な静寂さと明快な造形により、精神的高揚と崇高さを持ち、時間を越えた独創的な建築をつくり続けて来た「最後の巨匠」と呼ばれた建築家、ルイス・カーン(Louis  Isadore  Kahn  1901年〜1974年)について書いてみたいと思います。

ここでは「ルイス・カーン論」ではなく『 私にとってのルイス・カーン 』を書いていきたいと思います。

私がルイス・カーンに出会ったのは、大学2年の頃でした。紹介された大きな書店に立ち寄ってみると、そこには建築コーナーがあり、その一角に建築家の書棚がありました。そこで手に取ってページを捲って見た本が、工藤国雄(著)「私のルイス・カーン」でした。

暫く立ち読みを続けていましたが、、読み進めていく内に、建築のことも、「建築家」と言う職名のことも、何も知りませんでしたが、何故か感動し、その場でその本を買い求め、夢中になって読んだことを、今でも鮮明に憶えています。

この本は、20世紀が生んだ偉大で難解で、かつ謎が多いとされていた建築家のルイス・カーのもとで、働き学んだ著者が、カーンの実際の設計の進め方、思い出、エピソードなどを織り混ぜながら、ルイス・カーンというひとりの建築家を人間的な側面から、生き生きと描き上げたものでした。

この本が縁となり、ルイス・カーンを学ぶことになりました。
学び始めて最初に直面したのが、カーンの抽象的で難解な言葉でした。けれども、その言葉は詩的で力強いものがあり、いつの間にか惹き込まれてしまっていました。

その後、カーンのどの書籍の頁を捲ってみても、どの建築作品集の頁を捲って見ても、そこには必ず、カーンの言葉がありました。 

眼にする難解な言葉が増えていく中で、それを観念だけで理解しようとしている自分に気付き、暫く、間を置く必要を感じ、後にもう一度、取り組むことにしました。

その時から多くの年月が流れてしまいましたが、再び、ルイス・カーンについて取り組む機会を、漸く持つことが出来るようになりました。

何故、時を経なければならなかったのか、そのことについて、もう少し具体的に記してみたいと思います。

20代、30代という若くて人生経験が乏しい当時の私が、体験の伴わない机上の知識で、観念的に理解しようとしたならば、結果的には表相的な理解で終わってしまうのではないかと思ったからでした。

カーンの建築思想や建築を理解するためには、カーンが、どのような生い立ちで、どのように生き、そして、そこからどのように自らの建築思想と建築を築いていったのか、その過程を知ることが必要であると思いました。

そしてその過程を知るには、私自身の人生体験と、自らの内面を深く見つめられる心的態度が備って
いることが必要であると思いました。

それでは、これから順を追ってカーンについて書いていきたいと思います。 

最初に、ルイス・カーンと他の建築家たちとの大きな違いについてですが、モダニズムの建築家たちは、人間を外形的形式として、フィジカルなものとして、そうした視点から人間を捉えていきましたが、カーンは、彼らが決して立ち入ることをしなかった建築と人間の根源的な関係、そして、その存在の在り方について、独自の方法で、徹底的に考え続けていったことでした。

このような経過を経て、漸く到達したのがカーン独自の建築思想であり建築でした。

それを紐解くには、カーンの語る言葉は抽象的で難解ですが、その言葉を丁寧に読み解いていくことが、とても重要であり、それがカーンの建築思想及び建築を理解するための、道しるべになるのではないかと思っていました。

それではここで、私が学生の頃、カーンに出会い、それからずっと忘れず、今も心に残っているカーンの言葉のいくつかを記してみたいと思います。

「私は元初を愛する。私は元初に驚嘆する。
    ( I  love  beginnings.   I  marvel  beginnings. )」

「私はこう言いたい。元初はすべての人間にとって
 本来的なものであると。元初は人間の“本性"を露
 呈する。」 

「元初を見出そうと求めるのは私の性格だと思う。」

「ひとりの人間のもっとも優れた価値は、その人が
    所有権を要求できない領域にある。」

「街角の古い教会は、中で祈る信者たちを支えるだ        けでなく、建物の前を歩く人々をも支えるのだ。」

「自分自身の表現はその人のかけがえのなさから生
    まれる。」

「あるものにプレゼンスを与えようとするとき、
    あなたは自然の力を借りねばならない。」 

「われわれめいめいが沈黙と光の出会いが宿る閾を
    持っている。」 

「ジョイントが装飾の始まりだと私は固く信じて
    いる。」

「私が他のひとりの人とルームの中にいるとき、   
    山々や木々や風や雨は心の中のものになり、ル
     ームはそれ自体でひとつの世界になります。」

「街路は都市における最初のインスティテューシ
    ョンだ。」

「街路は合意のルームです。」

『 最後に一言、言っておきたい。
 過去の建築家たちによって造られた建物に対して 
 敬意を込めて述べる。
 かつてあったものは常にあったものである。
 今あるものも、常にあったものであり、 
 いつかあるであろうものも、常にあったもので
 ある。
 ビギニングスとはこの事だ。 』
                                          __ Louis  I.  Kahn __         

『 何かに  “ かたち"  を与える時は、その “ 本性 " に
     問いかけねばならない。
    それがデザインの始まりだ。
    例えば煉瓦に、何になりたい? と話しかける。
    アーチになりたい と煉瓦は言う。 
    アーチに金がかかるから、コンクリートの  “ま
 ぐさ"  でやるけどいいか?  と煉瓦に聞くと、
     “ アーチがいい " と言う。
     ここが大事だ。
     素材に敬意を払うべきだ。
     素材なんて一杯ある、という考えはダメだ。
     やりかたもいろいろある、ではいけない。
     煉瓦に敬意を払い、賛美せねばならない。
     使い方を誤る前にだ。』
            __ Louis  I.  Kahn __   

『 新たな空間の要素が受け入れられると感動する。
     それは、必要だとしてつくられてきた従来の空
     間と違うからだ。
     新しい要素が受け入れられる時に、自分は建築
     家だと実感できる。
     芸術作品は歩いたり、走ったりする生き物では           ない。
     だが、生命としてわれわれに働きかける。 
     それは手の精巧さの驚きに等しく、心の驚きに           もまた等しく、技の驚きでもある。
     いかに真実であるか、超越的かの驚きだ。 
     交響曲第5番のようにある種の力を持っている。
     それらは、一度聴いたら忘れられず、心が求め
     る物でもある。 
     何度聴いても聴きたくなるように、芸術作品は
     われわれに語りかけるのだ。
     自然でもつくれない物を、人間はつくる事がで
     きるのだと。」                 
               __ Louis  I.  Kahn __ 

次に、カーンのいくつかの主要な建築作品を紹介してみたいと思います。

🍏イェール大学アート・ギャリー(Yale  University         Art   Gallery  /1953年)
この建築はカーンがギリシャやエジプトなどを訪れ、建築の本質とは何かという問いへの啓示をうけ、それを手掛かりに建築したものです。
これが、カーンのデビュー作品となりました。

🍏ペンシルベニア大学リチャーズ医学研究棟
   (Richard  Medical  Research  Building,  University           of  Pennsylvania  / 1964年)
これは研究者の活動とその空間の大きさ、そしてその関係及びその空間の共有化の意味ついて、具体的なテーマのもとに設計した建築です。
この作品で、カーンの名を一躍世界的なものにしました。

🍏ソーク生物学研究所
(Salk  Institute  for  Biological  Studies  / 1965年)
この建築はソーク博士から、修道院のような中庭と回廊をもつ空間を求められての建築でした。
中心に太平洋を望む中庭を配置し、それに面して左右対称に研究室、実験室を配置しています。

この建築には素晴らしいエピソードがあります。

カーンはこの中庭に植栽を計画していましたが、決めかねていました。そこでカーンは、親交が深かったメキシコの建築家で、都市計画家でもあったルイス・バラガン(Luis  Ramiro  Barragan  Morfin  / 1902〜1988年)に相談にのってもらうため、メキ
シコから、カリフォルニアにあるソーク研究所の建設現場に彼を招きました。

「海に向かって開かれた中庭スペースを、どのようにデザインしたらいいと思う?」とカーンがバラガンに尋ねました。

するとバラガンは『わたしなら、1本の木も、1
枚の葉もここには植えません。ここは庭ではなく、石のプラザであるべきです。ここをプラザにしたら、空へのファサードを得られるでしょう』と言
いました。

バラガンが「空へのファサード」と、口にした美しい言葉の響きに、カーンはとても感心したそうです。

以降、カーンはこの話しを好んで、講演会では何度も取り上げ、当時から私は、詩人と呼ばれていましたが、バラガンも詩人ですと。そんな思いを込めてカーンは「だれが詩人なんでしょう」と語っていたそうです。
この「空へのファサード」には、カスケードと言われる水路があり、静かに水が流れる音が聞こえてきます。 
  
🍏キンベル美術館
 (Kimbell  Art  Museum  / 1972年)
カーンの最高傑作であると同時に、20世紀につくられた美術館の中では、最も素晴らしいと言われている建築です。
外観はコンクリート打ち放しの柱、壁、屋根、そして大理石(トラバーチン)によって構成されていますが、親しみ易く落ち着いた気品のある表情をしています。そして内部空間は、屋根のスリットからの自然光を柔らかな間接光に変換し、それが季節や天候や時間により、光と影が劇的に変化し、素晴らしい空間となっています。

🍏バングラデシュ国会議事堂(Sher-e-Banglanagar    National  Assembly  Hall  / 1974年)
1962年に設計を始めて、1964年に着工されました。その後、パキスタンからの独立戦争の影響もあり、何度となく工事が中断され、完成したのは、カーンが逝去して9年後の1983年でした。 

この国会議事堂で印象に残っていることは、今から20年程前になりますが、私がバングラデシュでの都市計画に関する仕事の関係で、現地を訪れたとき、この国会議事堂を直接、自分の眼で見て、そして体感することが出来たことでした。 

外観を見たときの第一印象は、「スケールが大きい!」といった感じでした。凄い存在感があり、力強さを感じましたが、不思議なことに、威圧感はなく、自然に議事堂の中に入って行けるような、そんな雰囲気がありました。

そして、議事堂の内部を見学する許可を頂き、議事堂の中に入り、暫く立ち止まって、内部空間を仰ぎ見たとき、外壁と同じ様に、内壁もラフなコンクリートと大理石で仕上げられていました。
そして、エントランスから回廊に眼を向けると、学生時代に、初めて読んだ建築家の本「私のルイス・カーン / 工藤国雄(著)」の中に掲載されていた、カーンが繰り返し繰り返し重ね描いた、立柱照明のスケッチが、そのまま作品となって、中央に位置する会議場を囲う街灯のように、回廊に立ち並んでいました。それを見て「あの本に掲載されていたスケッチ、これだったんだぁ!」と思い出し、微かな感動があったことを憶えています。

後で、学んで知った事ですが、この立柱照明が立ち並んでいる回廊は、カーンが長い間ずっと追い求めて続けて来た、中間領域的なロビーの空間で、カーン後期の建築思想の骨格を形成したものでした。
カーンはこれをアンビュラトリー(ambulatory)と呼び、とても重要視していました。

会議場とその周りの施設を結び合わす、この回廊、アンビュラトリーを、ゆっくり歩いていると、上部から差し込む光と、その光によってつくり出された影が、不思議な空間を演出していることに気付きました。そしてもう一つ、回廊は反響音が大きかったことを憶えています。

そして今度は、議事堂の外に出て、もう一度、議事堂を遠くから、ゆっくり眺めてみました。すると、この議事堂が、いかに厳格な幾何学によって組み立てられているかということに気付きました。
厳格な幾何学で構成されている建築なのに、まるで古代からそこにあった遺跡のようにも感じ、また何となく温かな雰囲気も感じ、実に不思議でした。

技術もなければ、材料もない、そんな発展途上国のこのバングラデシュで、どのようにしてカーンはこの建築をつくったのか、それを知る由はありませんが、カーンが長い年月をかけ、探し求め続けて来た、詩的で静寂で力強い存在感のあるこの建築を、直接、自分のこの眼で見て、体感出来たことは、本当に嬉しかったです。 

もう一つ印象に残ったことは、この議事堂の中で日々執務をしている(アメリカやイギリスの大学に留学し建築や都市計画を学び、帰国し、そしてバングラデシュの国の発展のために努力している)行政の方たちが、私に「何もない最貧国のこの国にあって、ルイス・カーンによってつくられた、この国会議事堂の存在は、私たちにとって心の支えであり、心の拠り所でもあります。そして希望です。だから私たちにとってルイス・カーンは、かけがえのない、尊敬すべき偉大な建築家なのです。」と、力強く語ってくれたことでした。

ルイス・カーンが、最晩年に到達した建築は、「自然に、人を迎え入れてくれる様な、そんな親しみ易い雰囲気があり、その上で、どこか凜とした存在感と、気品がある」そんな建築でした。

🪵それでは、カーンがどのような生い立ちで、どのような人生を歩み、どのように自らの建築思想を形成していったのか、そのカーンの軌跡を概観して見たいと思います。

ルイス・イザドア・カーン(Louis  Isadore  Kahn)は、1901年に、ロシア帝国エストニア地方のバルト海に浮かぶ小さな島、サーレマー島のクレサーレで生まれました。父親はステンドグラス職人、母親はハープ奏者でした。その後カーンの両親はロシアに移住して暮らしていましたが、1905年にユダヤ人への5万人に及ぶ大量虐殺があり、カーン家もユダヤ人であったため、難を逃れて父親が先に、ペンシルベニア州フィラデルフィアに兄弟を頼って移住しました。そして翌年の1906年には、母、妹、弟、そしてカーンの4人が父親の後を追い、住み慣れたこの地を離れ、異郷の地アメリカに渡り、フィラデルフィアで移民として暮らすことになりました。

ここでの暮らしは、戦争や不況も重なり、過酷で厳しいものがあったようです。そんな状況のなかでも唯一救われたことは、フィラデルフィアの人々が移民に対して好意的であったことと、移民の人たちが集まって住んでいた移民地区では、移民同士がお互いに助け合い、協力し合って、寄り添うように暮らしていたことでした。こうした密度の高い人間関係が築かれていたこの場所で、この環境で、カーンは育てられました。

けれども、幼少時代にカーンが経験したことは、ユダヤ人の移民、貧困、それだけではありませんでした。
カーンを扱ったドキュメンタリー映画のインタビューの中で、カーンと同じユダヤ人で、カーンの妻(医師)であったエスター・カーン(Ester  Kahn)が、カーンの顔面にある大きな傷跡について触れ、「カーンが幼少の頃、暖炉の中で妖しく緑色に輝く炎に魅せられ、それをそのままエプロンに取ろうとして、顔面に大火傷を負ってしまったんですよ。」と、カーンが顔面の傷跡によって生じてしまった心の傷を思いやるように、優しく語っている場面がありますが、エスター・カーンがそうして語るほど、カーンにとっては、その傷跡は、特に若い頃のカーンにとっては、心に深い影を落としていたのではないかと思います。

こうした様々な逆境に出遭いながらも、それに耐えて生き抜いていかなければならない、とても厳しい試練がカーンにはあったように思います。 
そんな逆境の中でも、カーンの父親も母親も、これを試練として受け入れ、希望を失うことなく、父親はカーンに絵画を、母親はカーンに音楽を教えました。
それが後に、カーンがペンシルベニア大学で建築を学ぶことが出来るようになったのは、母親から習った音楽がきっかけでした。
ピアノの演奏が出来たカーンは、無声映画館でオルガン演奏の仕事を得、そこで得たお金を貯蓄し、それが後に、カーンがペンシルベニア大学で建築を学ぶための学費となりました。その上、大学の奨学金を得ることが出来ことは幸運でした。
そしてもっと幸運なことは、後のカーンに大きな影響を与えた、カーンの指導教授、ポール・フィリップ・クレ(Paul  Philippe  Cret )に出会えたことでした。

大学卒業後、およそ9年間は、いくつかの設計事務所でドラフトマンとして修業を重ね、その内の1年間は仕事で得たお金でヨーロッパ各地を巡り、古い建築や、都市を見て歩いたようです。

事務所での修業を終えた後、3年間は住宅の供給問題についての研究をしていたようです。そしてカー
ンが34歳の時、設計事務所を開設しました。 
それからイェール大学アート・ギャラリーの設計を手がける1951年までのおよそ15年間は、建築の計画を約20案、都市再開発の計画を約10案、提案をしていましたが、実現したプロジェクトはごく僅かだったようてす。この15年間から20年間という長い期間、カーンにとっては経済的にどん底時代だったようです。
そんな中、1950年の11月から3ヶ月間、アメリカンアカデミー研究員としてローマ、エジプト、ギリシャを旅する機会を得ることが出来ました。
この旅でカーンは自らの建築の方向性を見出し、これが後のカーンの建築思想、建築へと繋がり、カーンの人生を大きく変えていきました。

この長かった不遇な時代について、後年、「当時は何をしていましたか」と問われると、カーンは決まって「Studyしていた」と答えたそうです。 
これは後に、カーンの有名なエピソードのひとつになりました。
1957年に、カーンはペンシルベニア大学の教授になり、以降、現代建築の巨匠として、カーンは享年73歳まで、世界を驚嘆させる建築をつくり続けながら、独自の建築思想を語り続けました。  

🍏🍏ここからは、難解とされているカーンの建築思想について、その概要について少し触れてみたいと思います。

次のようなカーンの言葉があります。
「われわれが建築にできる唯一の道、いいかえれば、われわれが建築を存在させ得る唯一の道は、測り得るものを通してである。われわれはこの法則に従わなければならない。けれども究極においては、すなわち建築が生活の一部となる時には、それは測り得ない性質を呼び起こさなければならない。煉瓦の数量や建設と技術のさまざまな方法を包含した設計の過程が終わり、そのあとに建築の存在の意味が現れてくるのである。」

この言葉のなかで、「測り得ない性質を呼び起こさなければならない」と「建築の存在の意味が現れてくる」に注目してみたいと思います。

カーンの思想を理解する上で、欠かせない概念のひとつに「存在」というのがあります。そしてその存在は2つあると言っています。一つは、エグジスタンス/ existence であり、もう一つは、プレゼンス / 
presence  であると、そしてプレゼンスは、ものとして存在している場合の存在を言い、エグジスタンスは、物でなくても存在しているような、形がなくても存在しているような存在を言います、とカーンは言っています。
これを具体的に説明するため、カーンは街角に立つ教会を例に、次のように語っています。
「街角の古い教会は、中で祈る信者たちを支えるだけでなく、建物の前を歩く人々をも支えるのだ」と。つまり街角に教会が物質としてあるという意味ではプレゼンスであり、同時に、そこに建っているのは自然現象によるものではなく、何らかの意図によるという意味で、それはエグジスタンスであると言っています。これがカーンが言っている「測り得ないもの」と「測り得るもの」であり、これが「沈黙」と「光」であると言っています。

先程の「測り得ない性質を呼び起こさなければならない」と「建築の存在の意味が現れてくる」とは、
測り得ないものを探し求めていくと、エグジスタンスが現れてくると。建築の本質はここにあるとカーンは言っているのではないかと思います。

このことは、次のカーンの言葉からも読み取れるのではないかと思います。

「 ピラミッドが建設されているときへ立ち帰ってみましょう。そしてその場所をしるすもうもうたる砂塵のなかの勤労に耳を傾けてみましょう。そしていまわれわれはピラミッドを完全なプレゼンスの中で見ます。そこには沈黙の感情がゆきわたり、その沈黙の感情の中に人間の表現せんとする願望が感じ取れます。最初の石が置かれる以前に、この願望は存在したのです。」

「(英国史全集を読む)私のただひとつの真の目的は、いまだ書かれざる第零巻を読むことにあります。ひとにこのようなものを探させる心とはなんと不思議なものでしょうか。このような(元初の)イメージが心というものの出現を示唆しているのではないでしょうか。」 

     ※ 注釈)カーンの言っている「測り得ないもの」
     とは、宗教的なことではありません。

🍏そしてまた、ルイス・カーンの建築思想については、『 ルイス・カーン建築論集 』ルイス・カーン 著、前田忠直  編訳 の本の序文において、建築家で
ある磯崎新氏が「あらたに読解の光があてられる」と題して、文章が記載されていますので、その一部を抜粋し、ここに記載したいと思います。

「若年の時期にモダニズムの典型のような公共住宅を大量に設計したあげくに、ルイス・カーンは自らの50歳代の初めに、地中海域への再度のツアーを介して、古典主義のなかにひそむ《建築》の真髄を感知したのだろうと思われる。それ以降の20余年にわたる思索と設計の作業は、あのとき得た確認を言語化し、建築作品化する過程であったと私は考えている。」
「ルイス・カーンその人は、自分の作品の模倣を禁じた。その作品の生みだされていく際の背後にある理念について語りはしたが、結果としての作品の表相的な模倣は何も生まないことを繰り返し強調している。」
「ルイス・カーンが超越論的な視線を《建築》に注ぎ、かつ、存在論的建築を構想していた。」と記し
ています。

次に、ここでは、カーンがどのような人で、どんな人にどんな影響を与えて来たのか、カーンのドキュメンタリー映画に登場した人たちの言葉を中心に、カーンに直接、関係して来た人たちの声を、ここ
に記してみたいと思います。

🍏フィリップ・ジョンソン:Philip  Johnson
  ※ 1906年〜2005年  (享年98歳)アメリカのモ 
   ダニズムを代表する建築家

フィリップ・ジョンソンはある雑誌で「俺はコマーシャル・アーキテクトとしては、1番成功したと思わないか?」っと言っていましたが、
それを踏まえた上での言葉だったと思います。

「ルーは “ ガラスの家 " に来たことはなかったよ  
 ….… 。  なぜかって?   それはただのガラスの四
 角い箱だからさ。 」

カーンと親しかったフィリップ・ジョンソンは、カーンのことを「ルー」と呼んでいました。「ガラスの家」とは、フィリップ・ジョンソンが設計し世界的に話題になった建築です。

後日談ですが、実は、カーンはこの「ガラスの家」を見に来たことがあったそうですが、そのとき、この建築について、カーンは何も語らなかったそうです。

🍏イオ・ミン・ペイ:I. M. Pei  
  ※1917年〜2019年  (享年102歳)ルーヴル美術
   館のガラスのピラミッドを設計した建築家

「今風の作品はエキサイティングで面白いが、50年
 後にはどうなっていると思う? ルイスのソーク
 生物学研究所はその点で注目すべきだ。 」

🍏フランク・O・ゲイリー:Frank  O.  Gehry  
   ※1929年〜(95歳)1980年代以降の30年間で、
   もっとも重要な建築物のひとつとして、称賛   
   されているビルバオ・グッゲンハイム美術館
   の設計をした建築家

「ポストモダニズムが生まれ、建築が形骸化していったんだ。 そんな時、 ルイスは新鮮な空気を吹き込んでくれた。 私の最初の作品は彼への敬意から生まれたんだ。」

🍏ダンカン・ブエル:Duncan  Buell
               (建築家/元所員)
「彼は本当にタフで、仕事への精神力が強かった。
 私なら参っていたはずだ。 」

🍏ジャック・マカリスター:Jack  MacCallister
  (建築家/弟子)

「コンクリートの傷も顔の傷と同様に、隠さずそのままにしてある。壁づくりの難しさを見せるために隠さないんだ。これは彼の人生観と関係していて興味深いことだ。 」

🍏キャシー・コンディー:Kathy  Conde (秘書)

「彼が最後にインドに行った時のことをよく憶えているわ。ルイスの息子、ナサニエル・カーン(Nathaniel  Kahn)も見送りに来ていたわ。」 

🍏香山壽夫(ルイス・カーンに師事した建築家) 

「ルイス・カーンは、ドイツの哲学者 フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich  Wilhelm  Nietzsche)が好きで、特にニーチェの著〈ツァラトゥストラかく語りき〉の中での"遠人”に、理想の姿を求めていたようです。」

🍏ノーマン&ドリス・フィッシャー:
                 Norman  and  Doris  Fisher
    (内科医師 / 内科診療所経営者)
    フィッシャー邸のクライアント

「1960年のことでした。わたしたちはフィラデルフィア郊外に、木々に囲まれ、小川の流れる2エーカ(約8,100㎡)の土地を購入していましたが、家の設計を誰に依頼するか、これといってあてはありませんでした。ある設計事務所を訪ねたとき、そこの代表者の恩師であったルイス・カーンという建築家が住宅を設計していると聞き、カーンに電話をかけてみることにしました。」
「そしてカーンに初めて会いました。」  

「カーンに会った印象は、顔に子供のときに負ったひどい火傷の跡がありましたが、あふれんばかりの知性と活力、茶目っ気のある温かい人柄に触れ、それから7年間、だいたい2ヶ月に1度ほどのペースでカーンと会いました。」

「彼は家ができたあともやってきて、一緒に食事をしたり、わたしたちの友人も交えて、この家や彼の建築哲学について、ちょっとした議論を交わしたりしました。」

「わたしたちは、内科診療所を開いていたので、夜の診察時間もあり、カーンとの打合せの時間を見つけるのは難しいと思っていましたが、カーンはいつも深夜まで働いており、夜の10時に訪ねていこうが平気でした。」

「カーンは昼も夜も、食事といえばその辺ですぐに買えるようなものですませ、1日中ぶっ通しで働き、よく事務所で寝泊まりしていたそうです。」

「カーンがダッカやアーメダバードへ数週間行っていることもあり、設計に4年、建設に3年を要しました。」 

「この間、わたしたちはカーンを信じていました。そしてその信念はやがて報われることになりました。温かみがあり、力強く、そして美しい、調和のとれた家の出来映えに、わたしたちは大喜びをしました。」

「カーンとの親交はじつに愉快でした。冗談好きで人間味にあふれた人でした。わたしたちの要望をいつも快く受けいれてくれましたし、要望に応えられないときには、なぜだめなのかを説明しようと心を配ってくれました。」

「カーンと過ごした7年間、わたしたちは素晴らしい建築の教育を受けたと思っています。そして、いまに残るのは、たいへん住みやすい無二の家と、愛情に満ちた格別の友人と過ごした思い出です。 」

「 こうして、カーンとの素晴らしい関係は、カーンが亡くなる1974年まで続きました。」
 

🪵『 ルイス・カーン、インドからの帰国途中、ペンシルベニア駅で心臓発作のため死去 』という報せを
知った、建築家、磯崎新氏が語ったカーンについて

建築家の磯崎新氏は、世界の建築界をリードし、世界の建築界に大きな影響を与えた「知の巨人」と呼ばれて来ました。その磯崎新氏は、約60年にわたりアジア、ヨーロッパ、北アメリカ、中東そしてオーストリアなど世界各地で100以上の作品を手がけて来ました。そして、1922年12月に91歳で死去しました。

その磯崎新氏が、生前、自らの著書の中で、1960年代の全世界の建築界に圧倒的な影響を与え、同時に国際的にもっとも高名であったアメリカの巨大な建築家、ルイス・カーンが、インドのアーメダバードからの帰国途中、ニューヨークのペンシルベニア駅の構内で心臓発作のため死去、という報せが1974年3月17日に報じられ、その報せを知って、次の様に記しています。

「…………彼は、フィラデルフィアに自分の設計事務所をもつかたわら、ペンシルベニア大学の建築学科で教鞭をとっていた。彼の仕事は、アメリカ国内でもいくつか進行中だが、いまは国外のほうが多いくらいで、バングラデシュの首都ダッカに国会議事堂を建設中で、1週間の予定で現場に出向いた帰りのことであった。その 1ヶ月前には、丹下健三氏と共同で設計を進めているテヘランの中心部開発計画の打合せでイランまで出向いているから、まさに東奔西走といったところであった。
短躯、73歳の高齢で、よくこれほど動けるものだと思われるほどの仕事をかかえ、それも執念深く没頭していた。このような状態にみずからを追い込んだのは、彼が一般の建築家にくらべて、遅れて出発したからだという説もある。事実彼の処女作《イエール大学アートギャラリー》(1953年)の完成したときに、もう50歳を過ぎていた。それ以降、フィラデルフィアの《リチャーズ・メディカル・センター》(1961年)サンディエゴ近郊の《ソーク生物学研究所》(1965年)など世評の高い作品を発表し、さらにアーメダバード、エルサレム、ヴェネチア、テヘランと多くの国外の計画に取り組んでいたのだが、どちらかといえば職人的にひとつひとつ自分のスケッチを重ねるやり方のため、組織をうまく使って能率をあげるわけにもいかず、いきおい自己の肉体を酷使することになっていた。と同時に余命の少なさを感じて無理に多くの仕事を引き受けたこともからんでいるだろう。……… 」 

「………建築家は設計事務所をもち、大統領や大パトロンと握手し、建設現場で采配をふるったりする。建築の設計はひとつの場所でできるだろう。しかし建築物はそれぞれの土地に密着して建造される。そこでその土地の現場まで出かけて行き、関係者に会い、周辺の状態をのみこみ、設計の打合せを行い、デザインを説明せねばならない。さらに建設途中は幾度となく訪れ、欲をいえば現場の横に寝とまりし、過程を細やかに見まもり、微調整を行わねばならない。ということは、建築物が動くことはまず稀であるから、建築家が彼のかかわっている場所にたえず吸引されていることになる。だからいくつかの仕事を同時にやろうものなら、めまぐるしく旅をつづけることになってしまう。………」

これが「建築家」の宿命であり、「建築家ルイス・カーン」の宿命でもあったと、磯崎新氏は語りたかったのかもしれません。

ルイス・カーンの良き理解者のひとりであった建築史家、ヴィンセント・スカーリー(Vincent  Scully)は、ルイス・カーンについてこんな言葉を残していました。

【 ルイスが光の方を見ている時や、沈黙を楽しん 
 でいる時などは神秘的なものを感じる。 
 まるで、作品の中に宿っている神と語りあって
 いるかのようだ。】
          __  Vincent  Scully  __

カーンの建築思想や建築は、カーンが過酷で厳しい50年間に及ぶ逆境の中で、自らを信じ、諦めることなく、建築への希望を失わず、自ら信じた道を歩き続けて来た、その人生の過程で構築されたものでした。

建築を学び、建築家を志し、歩み続けて来た私の道程に、常にポラリス(Polaris)のように存在していたのが、ルイス・カーンの建築思想であり、建築であり、建築家ルイス・カーンでした。

60年代から今日まで、全世界の建築界に圧倒的な影響力を与え、享年73歳で生涯を終えた巨大な建築家、ルイス・カーンに敬意を表したいと思います。また感謝したいと思います。

最後になりましたが、、ルイス・カーンの良き理解者のひとりであった建築史家、ヴィンセント・スカーリー(Vincent  Scully)の言葉を、ここに記して、この投稿文の作成を終えたと思います。

『 およそ人間にとって一番大事なことは、人生の厳しい試練にじっと耐えて、なおかつ生き抜いたという事実である。』
                                           __  Vincent  Scully  __

前回に続き、今回も長い文章になりましたが、最後まで読んで下さり、誠にありがとうございました。
感謝を申し上げます。


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