相対主義は自己矛盾ではない

相対主義とは?

とりあえず辞書的な定義を調べてみると、次のように述べられていた。

〘 名詞 〙 哲学で、真理、規範、価値などが、唯一絶対のものであることを否定して、すべて個人や社会と相対的なものであることを主張する立場。ギリシアのソフィスト(プロタゴラスゴルギアス)、近代ではロックヒュームらがその代表。絶対主義に対していう。

精選版 日本国語大辞典

世の中には様々な主義がある。相対主義に絶対主義、資本主義に共産主義、保守主義に進歩主義等々。あるいはフェミニズムやナショナリズムなどの『~ism』もそう。こういった主義を掲げる人々は自らの主張が正しいと信じ、それを他人にも広めようとする。フェミニストは現代社会において『女性』が差別されているという『現実』を正すべきだと信じているし、資本主義者は個々人の利益追求行動が市場を効率化し効用を最大化するのだから、国は市場への介入を最小限にするべきだと主張する。

相対主義の自己矛盾?

相対主義を批判する際にたびたび言われるのが「相対主義は自己矛盾に陥っているから正しくない」という主張だ。前述したように、『主義』というのは、その主張が絶対的に正しいものだということを前提としている。これを相対主義にも適用しよう。すると「相対主義者は世界のあらゆる物事は相対的に決まるという主張を正しいと信じている」ということになるが、これは自らの主張は絶対的に正しいと主張していることにならないか?
つまりこの矛盾は端的に次のような言葉で表されるだろう。

「相対主義は絶対的に正しい」


相対主義の自己矛盾を回避するには?

二つの方策がある。一つ目が自らの相対主義は『主義』ではないとする。二つ目は相対主義は絶対的に正しいとする。

相対主義は『主義』ではない


相対主義は主義ではない。つまり相対主義は絶対的には正しくない。つまりこれは個人の感想であって、他人に押し付ける必要はないということになる。しかし「相対主義は絶対的には正しくない」というのも一つの主張であって、これが正しいとするのも主義である。つまり、

「『相対主義は絶対的には正しくない』という主張は正しい」

という主義である。言い換えると『相対相対主義』だ。ということは

「『【相対主義は絶対的には正しくない】という主張は絶対的には正しくない』という主張は絶対的に正しい」

という『相対相対相対主義」もありうるし、
「相対主義は絶対的に正しくないという主張は絶対的には正しくないという主張は絶対的には正しくないという主張は…………………」
というものもありうるだろう。
つまり、相対主義は完結した論理的な言葉ではなく未完結な運動である――

とか言われて納得できるか?

相対主義というのも所詮一つの言葉であって、言葉である以上、『自然な使い方』というものがある。

「相対主義的に考えればどちらの主張も否定できないよね」

という言葉は自然だが、

「相対主義的に考えればどちらの主張も否定できないよね、いや、待てよ、相対主義的に考えるならこの主張も相対的なわけで以下無限の時間が過ぎる」

というのはどう考えても不自然だ。言葉の意味は、言葉が使われているその場面に立ち返って考える必要があるのではなかろうか。

相対主義は絶対的に正しい

結局この主張は、先ほど示した論理で自己矛盾へと突き進むわけだが、この方策はそれに対して「それがどうした?」と主張する。一言でいえば

相対主義は『主義』である以上絶対的に正しい。

『主義』である以上、~主義はすべて、その主張が正しいということを前提とする。相対主義が例外である必要はない。確かに自分自身に対しても相対主義を適用するなら矛盾が生じるかもしれないが、ならばそれをしなければいいだけではないか?自分に関しては『相対』よりも『主義』のほうが優勢に立ってもいいのではないか?これはそう言う主張で、これ以上でも以下でもない。相対主義という言葉を使う上で、これが一番自然で都合もいい。結局のところ、相対主義という言葉を生み出し使ってきたのは人間なのだし、言語運用上それが通じるのなら、相対主義は自分に対しては適用されていないと解釈するのが一番自然だろう。「それは逃げだ。自然かどうかではなく論理的かどうかという方が重要だ」と主張するなら、人間が社会生活をおくる上でその都度作り上げていった『言語』というものに、いかに例外が多いかということを考えてみてほしい。言語、正確には自然言語は果たして完全完璧に論理的か?
英語を学んだ時になんで不規則動詞なんてものがあるんだと考えたことはなかったか?なんで三単現の時は動詞にsだけでなくesやらyがiに変わってesを付けるやらわけのわからない規則がある?どこからが『これ』でどこからが『それ』でどこからが『あれ』なのか論理的に説明できるか?小さい動物と虫は明らかに異なるものなのに、なぜどちらも『~匹』と数える?大きさではなく動物と虫という種類で数え方を変えてもよくはなかったか?

結論としては、言語というものがこのようなものである以上、相対主義批判として、「相対主義は自己矛盾をしているから正しくない」と主張することはナンセンスだ。だから相対主義を批判したくなった時は別の方法を考えた方が有意義だし、そちらの方が互いに議論もしやすいだろう。個人的に極端な考えというのは全部現実に即していなくて、その間が一番いいんじゃないかと思うから、そういう議論を通じて、ちょうどいいところを探っていけばいいんじゃないかなと思う。



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