シェアハウス・ロック2310中旬投稿分

【Live】落語ネタ2連発1011

 春風亭一之輔の演目は、『雛鍔』『愛宕山』だった。
 この会は、どちらかと言えば独演会である。厳密に言えば「独」じゃないのでなんと言えばいいのだろうか。で、前回は苦肉の策で、落語の会と言った。
 一方、寄席は独演会のようなものとは、じつは磁場が異なる。阿佐田哲也さんによれば、寄席に行き、ひとつでも膝を乗り出すような噺が聴ければ上出来の部類ということである。あとは、たらたら見ているだけであり、暇をつぶす場所だったというのが阿佐田説だ。だから、昔々は、寄席はもっともっとゆるーいところだったのだろう。
 前に、寄席文化とか、文化の根っこが深いとか言ったので、きつきつなものと誤解されるといけないので、もともとは、もっとゆるやかだったんだよと付け加えておく。
「シェアハウス・ロック1004」で、現正蔵と海老名家の悪口に聞こえかねないことを書いた。訂正はしないが、追加をする。 
 後の彦六(後の前は正蔵)と海老名家の間で、正蔵の名跡を巡って確執が生じ、その筋の人まで出てきたという。これは有名な話だが、私は、どこかに誰かが書いたのを読んだわけではないので、あえて、これを風説と言っておく。
 この話が本当であれば、後の彦六は、一代限りではあっても海老名家から正蔵の名前を借り、名乗ったのであって、まだ彦六(当時は正蔵)は元気だったので、どう考えても非は海老名家の側にあるはずだ。
 正蔵の名を継ぐべき位置にいた林家三平が1980年9月20日に死去し、後の彦六は同9月28日に「正蔵」の名跡を海老名家に返上した。初七日が明けた日だ。これで、彦六は、自身が正蔵の名前に執着したというよりも、三平に正蔵を名乗らせたくなかったことが推測できる。
 以上から、私は、海老名家に正直なところいい感情を持っていない。
 だが、現正蔵(元こぶ平)は、落語は聞いたことがないけれど、どっちかと言えば好ましい人柄だと私は思っている。
 影山民夫にトラブルバスター・シリーズというのがあり、文庫本で3冊出ているが、そのどれかにこぶ平(当時だからね)が解説を書いている。その本には、主人公の宇賀神邦彦が、カー・オーディオでエラ・フィッツジェラルドの『on the sunnyside of the street』を聴く場面があり、影山民夫は、「拍手があり、エラが可愛く『サンキュー』と言ってテープが終わった」(ここの記述は原典にあたれず不正確かもしれないが、意味的には合っているはず)と書いている。
 これに対して、海老名家(池之端)の地下にオーディオルームを構えるほどのジャズファンで知られていたこぶ平は、「エラのライブ(拍手があるので:筆者注)の『on the sunnyside of the street』はレコードになってないはず」(ここも同)と言う。これが文庫本の解説なのである。私は、相当感心した。
 つまり、こぶ平は暗黙に、本の解説は自分の任ではないけれど、ジャスに関しては言えることがあると言っていることになる。なかなかの見識であると思う。
【追記】
 昨日投稿分に対して、わが畏友から、「俳句の表記は空白を置かないぞ」と指摘された。コイツ(畏友と言ってる割にすぐコレである)は放送作家であるが、私の見るところそれは世を忍ぶ仮の姿であり、本質は文学者で俳人でもある。だから、謹んで、空白は削除されたいと申しあげるものである。

遠征、あるいは道場破り1012

 で、私らジャズ喫茶小僧どもは、その「いまかかっているレコード」のジャケットを借り、席に持って帰り、解説を読む。大体は輸入盤なので、英語である。辞書を引く。前述のように店内は暗い。辞書の字は細かい。これで、私は相当に目を悪くし、近眼のメガネをかけるようになってしまった。
 なにせ、レコードもそれほどなく(その店にではなく、世の中にというか、日本に。ちょっと気の利いたやつは輸入盤だったからね)、私のちょっと上の世代の話であるが、ジム・ホールがリーダーと思えるアルバム『インタープレイ』を聞きに、わざわざ東京から宇都宮に通ったという猛者までいた。
 とにかくジャズ喫茶には入り浸った。私は、ジャズ喫茶から高校に通ったことすらある。
 一方、ジャズ小僧には派閥があった。白人のジャズを認めない一派、ボーカルを否定する一派、フリージャズを信奉する一派、バップこそ神だという一派、etcetc。だから、ジャズ喫茶そのものにも、傾向があった。これは、逆だな。ジャズ喫茶の傾向で派閥が形成された。
 通常、ジャズ小僧には根城にしている店がある。大体はその店でとぐろを巻き、聴取、情報収集、情報交換に明け暮れる。またその店のマスターに薫陶を受けるわけだが、「遠征」というのがあった。「遠征」、あるいは「道場破り」である。
「道場破り」と言っても、時代劇にあるような乱暴なことはしない。ただ、大人しく金を払い、コーヒーを飲み、ひたすらかかっているレコードを聴くだけである。リクエストすら、めったにしない。
 で、誰かがどこそこの店に行って「道場破り」をしてくると、その成果の発表会があった。おおむね、レコードの片面を(ジャズ喫茶は、レコードの片面だけかけ、次のレコードに行く。裏表かけるような店はモグリである)6、7枚聞くと、帰ってくる。報告内容はおおむね、「いい店だ」「たいしたことない」「イモだ」の三通り。
 とは言っても、「たいしたことない」は「自分の知っているのしかかけなかった」であり、「いい店だ」は、「自分の知っているの」+「自分が知らず、かつ自分の好みに合うのを2枚程度かけた」であり、「イモだ」は、「自分の好みに合わないのしかかけなかった」である。いま、食べログみたいなのでそんな評価をしたら店にはいい迷惑だが、まあ、子どものやることだから。それに、仲間内だけでだから。
 ただ、自分の好みに合わなくとも、畏敬の念みたいなものが私たちにはあった。少なくとも、私と、仲のよい連中にはあった。畏敬の念とは、ジャズは私たちなんかが知っているよりもずっと広い肥沃な大地であり、私たちなどが知らないことがたくさんあるという感覚のようなものだ。
 そして、好みの音楽と、いい音楽とは別なのだという真理を、私たちはジャズ喫茶で与太っている間に知ったのである。

リクエスト1013

 リクエストは、紙に書いて、マスターに差し出す。「あれ掛けてよ」などと大声で言うことはない。なにせ「しゃべるな!」だからね。
 そして、リクエストは、必ずかけてもらえるとは限らない。というのは、かけるアルバムには流れのようなものがあり、その流れを損なうようなリクエストはカンムシ。つまり、完全に無視。「まあいいだろう」という、つまり流れを損なうほどではないというリクエストはかけてもらえることもある。客から見て最高の評価は、リクエストの紙片を見て、マスターがニヤッと笑うことである。これはつまり、「かけようと思っていた。おまえ、わかっているな」ということである。私は、数回だが、その評価をもらったことがある。
 だから、前回お話しした「道場破り」のときに「リクエストすら、めったにしない」と言ったのは、そもそもその「道場」の傾向も流れもわからないでリクエストなどしても、ほぼカンムシに合うからである。
 そのリスクを侵さない程度の慎重さと、流れ、つまりそこのマスターの感性を尊重する姿勢が、私たちにはあった。
 その「道場」がよほど気に入れば、まず「道場破り」転じてモグリの門弟になり、その店に通い、知り合いが2、3人でき、その「道場」の流れが多少読めるようになってから、はじめておずおずとリクエストの紙片を差し出すということになる。
「知り合い」とは、その店ではなく、別の、近所のフツーの喫茶店でしゃべった。なにせ「しゃべるな!」だからね。 
 なにがなし、修業のようだが、実際修業だったと思う。
 もちろん、もっとお気楽に、なんとなくジャズ喫茶に行き、なんとなくジャズを聴いて、ああ楽しい、ジャズっていいねという人たちもたくさんいたろうが、少なくとも私の周辺は私も含めて修業であり、そういう人たちしか私らは目に入らないから、そっちがマジョリティだと思っているのかもしれない。
 

【Live】3連休気分1014

 我がシェアハウスのおじさん、おばさんが昨日、今日、明日と新潟に行っているので、私は3連休気分である。我がシェアハウスには私しかいない。
 旅行団はおおむねおふたりの仕事仲間+αで構成されるが、6、7名程度。年二回、函館、小倉、京都、大阪などを巡礼する。勘のいい方はもうおわかりと思うが、競馬旅行である。専門家はこれを旅打ちという。これは、変換しないほどの専門用語である。
 面々は、歳のせいか最近こそ行状が若干おさまってはいるが、以前小倉に行ったときなどは競馬で目が出ず、競輪、競艇まで行ったという。それでいて、ちゃっかりいい飲み屋を発見したりしている。さらに、あろうことか、このときこの連中は飛行機待ちの時間に、賭け麻雀までやっているのである。
 ここまでくれば、立派に反社会的集団と呼ばれる資格を得ていると思う。
 以前、これを難詰したところ、「すべて合法だ」という返事が返ってきた(常習賭け麻雀は違法。常習の目安は年20回程度らしい)。それにしても、法にさえ触れなければなにをやってもいいというその図太さ、心根が憎い。法律以前に、人間には道徳、倫理、お天道さま等々、もっと重要なものがあるはずである。それらの、人間として外してはならない規範の下にある、最低限の定め事が法律であるはずだ。
 まあ、「ここまでくれば、」のあとは、他愛のない冗談である。冗談に聞こえないかもしれないけど。
 連中が反社会的行為にふけっているあいだ、私は、あるお爺さんの宗教的自叙伝の編集作業を進めたり、オーディオで音を出してなにやらを聴いたり、のびのびとやっているわけだ。爺さん(これは私のこと)の分際で他人を爺さんよばわりするなんざぁ太いと思われるかもしれないが、一回り以上歳上なので、爺さんと呼んでもいいだろう。こっちはへなへなの爺さんだが、あっちは筋金入りの爺さんである。
 ただ、筋金入りなので姿勢もよく、足腰も、頭もしっかりしている。
 そのあるお爺さんは、信仰にも筋金が入っているので、編集作業をやる過程で、そっちの方角からも聖書を見直す視点が得られるような気がする。
 シモーヌ・ヴェイユという人は、後年、限りなくカソリックに接近したが、洗礼は拒否した。ヴェイユの孤立峰のような思想がそれを拒んだのだと思うが、ヴェイユがメジャーデビューしたのは、ぺラン神父、ギュスターヴ・ティボンというカソリックの人たちの手によってである。彼女の死後のことだった。
 ヴェイユの話のあとに私の話で、なんともおこがましいにもほどがあるが、私は、信仰からは見放されている人間である割には聖書をよく読んできたと思う。だが、不信仰なので、歴史を、あるいは文学を読むようにしか読んでこられなかった。それが若干は補正されるかもしれない。
 オーディオは、この日のために、アンプの電源だけは落とさないようにしている。これは、ジャズ喫茶・ベイシーのやり方にならったものである。

後年のジャズ小僧1015

 後年にもほどがあるが、ジャズ喫茶で与太っていたころからおおよそ40年後、私は新宿区に移り住んだ。私の棲家から、坂を上がったところが荒木町である。荒木町は、新宿区では神楽坂に並ぶ旧花町であり、その名残か飲食店が立ち並ぶ地域である。そのなかでも昭和の風情をいまに残す、柳新道という通りに「ディープ」というバーがある。
 レコードをかける店である。1000枚はあったと思う。
 その店にいたとき、なんだったか忘れたがジャズがかかっていて、私はその流れから、『アンダー・ザ・カレント』(ビル・エヴァンス、ジム・ホールのデュオアルバム)が聴きたくなった。「ありますか?」とマスターに問うと、「うちはリクエストには応じないんだけど、たまたま私も聴きたくなっていたから」と言ってかけてくれた。往年のジャズ小僧は爺いにこそなったものの、健在だったわけだ。
 ジム・ホールは、日本では『アランフェス協奏曲』で有名になってしまった人なのでバカにされている傾向があるが、『アンダー・ザ・カレント』のジム・ホールは圧巻である。
 そのマスターは、店の権利を売り、インドネシアに移住してしまい、常連がその店を受け継いだ。
 この人の代になっても、私はその店に、多少頻度は落ちたが通った。
 あるとき、ロッド・スチュアートの『グレイト・アメリカン・ソングブック』がかかっていた。アメリカを代表するような名曲を歌い、確か5集まで出たと思う。若いころさんざんヤンチャしたあんちゃんが、初老になり、なんだかかっこいい、シブイじいさんになったような、いい感じのシリーズに仕上がっている。
 そんな話をしているときに、うつけ者が乱入してきた。せいぜい30代のあんちゃんである。
 開口一番、「なんだよ、ロッド・スチュアートなんかかけてるのかよ。ジャズかけろよ、ジャズ」とその不埒者は叫んだ。
 マスターは、よせばいいのに、「なにかけますか?」と応じてしまった。痴れ者は「アストラッド・ジルベルトかけろよ」と暴言を吐いた。
 悪いけど、アストラッド・ジルベルトは、ジャズでもなんでもない。『ゲッツ/ジルベルト』という名盤はあるものの、あのジルベルトはそのころ亭主だったジョアン・ジルベルトのほうであり、アストラッド・ジルベルトが一曲かそこら歌っていようと、あれはスタン・ゲッツとジョアンのアルバムである。
 その場では言わなかったが、後にマスターに会ったとき、「ああいうときは、『ジャズを置いている棚を調べたんですが、アストラッド・ジルベルトはないですねえ』と応じるんだよ」とアドバイスした。彼は、「ああ、そういう手もありましたね」と言ったが、後の祭りである。

どっちが幸せか?1016

 私がジャズ喫茶に通い始めたころ、アルバムは3000円弱。オーディオ装置は、まあまあ満足できるもので30万くらいした。大卒初任給は5万とか、そのくらい。立ち食い蕎麦は30円(かけ蕎麦)。つまり、アルバム一枚の金で、立ち食い蕎麦なら、ほぼ一か月腹を満たせた。通常の喫茶店のコーヒーが80円。ジャズ喫茶では150円から200円。
 ただし、このころはインフレ基調だったので、一年経つとだいぶ値上がりしたから、これらの値段は多少不正確になる。
 アルバイトの時給は100円くらい。つまり、アルバイトの時給から考えると、オーディオ装置もアルバムも高嶺の花だった。だから、金のないジャズ小僧はせっせとジャズ喫茶に通い、いらぬ修業までしてジャズを聴いたわけである。
 それから45年くらい後、我が長女が孫を連れて我がシェアハウスに遊びに来てくれた。
 そのときに聞いた話では、なんとかいうサイトと契約すると、ジャズでもなんでも聴き放題、それで月額500円だという。いい時代になったものだと、とりあえずは思う。
 だけどねえ、私たちはリクエストするにもオドオドし、当時としては高額なコーヒー代を払ってジャズをおぼえた。「好きな音楽を聴いた」のではなく、「いい音楽をおぼえた」。
 前回お話しした狼藉者は、もしかしたら一生「好きな音楽」だけを聴く人生を送り、「いい音楽」「よくない音楽」を峻別する耳を持てないかもしれない。「かもしれない」というのは、人間には可塑性があるから、あのうつけ者にしても、なんかの加減で音楽に目覚め、いい耳を持てる回路が開けるかもしれないからだ。
 ただ、私たちには、社会的な枷があったから、逆に、いい耳を、それも楽にというか自然に持てた。
 ここまで考えると、なにが幸せで、なにが不幸か、まったくわからなくなる。
 それと、私たちには、いい音楽を共有する仲間ができた。これは大きい。月額500円の聴き放題を続けていても、音楽を共有する仲間はまずできまい。

【Live】季節の移りを感じる出来事1017

 文学者、それも純文学の人の随筆のようなタイトルだが、ご安心いただきたい。自慢じゃないが、そんな格調の高い文章などとても書けない。
 ここ数日、とても過ごしやすい日々が続いている。それで、こんなことを書いてみたくなるわけである。
 出来事とは、コーヒーとメダカに関する。
 コーヒーは、17歳から自分で淹れて飲んでいるから、もう60年近くになる。10年もやると、作法が定まってくる。作法と言っても、お湯を沸かすあいだに、豆を挽き、ペーパーフィルターをセットし、といった程度のことだ。長年やっていると、順番が定まり、全体の流れが遅滞しないようになる。最適化ということである。
 ところが、涼しくなってくると水の温度も下がり、既定の作業が終わってもまだ沸かないということになる。そこで、なにがしか作業を追加する。気温の変化に鈍感な私でも、こういうときには季節の移りを感じる。
 もうひとつ、暑い間は作業中に換気扇を回す。そうしないとキッチンにいるのがつらいが、これもやらなくてよくなる。
 もう一方のメダカだが、4月から9月あたりまでは朝昼晩の3回餌をやっている。涼しくなってくると、餌の食いも悪くなってくるし、朝などは底に沈んでいて、餌をやっても見向きもしないようになる。だから、餌やりは温かい昼間の一回になる。餌を余らすと、水が汚れるからね。
 涼しいを通り越して寒くなると、彼らはまったく餌を食べなくなる。だから、毎年11月下旬くらいから翌3月中旬くらいは、餌もやらなくなる。水も取り替えない。そのままにしておく。この期間は、彼らは半冬眠状態である。爬虫類や両生類じゃないんで本格冬眠はしないが、でも冬眠と言っていい状態である。
 リスとかクマの冬眠もそうなんだろうな。哺乳類だから、本当の冬眠はしないはずだ。
 だから、11月下旬くらいから翌3月中旬の期間は、メダカの顔を見ないで過ごす。多少さびしいが、3月下旬くらいになり、彼らが顔を出すと、「おお、元気だったか」と、しばらく会わなかった友だちと再会したくらいの懐かしさをおぼえる。
 なんとも非文学的な歳時記ではあるが、そういう人生なので仕方ない。

ローランド・カーク1018

「修業」みたいにしてジャズを聴いていると、ジャズマンの好みが確立していく。「好み」と言っても、「これいいね」などといった軽いものではなく、「こいつの出す音だったら、とりあえずなんだって聞いてみよう」とでもいった、もうちょっと重いものだ。
 あるいは、「好み」などといった軽快なものではなく、「偏頗」とでもいった、もうちょっと深いところに根ざしているなにかだ。
 私個人のことを言うと、セロニアス・モンクはソロで聞くのがよく、アンサンブルの一員である場合は、あまり聞きたくない。ねっ、相当「偏頗」でしょ。
 私の「偏頗」な好みの極北は、ローランド・カークである。
 この人はヘンな人で、首から三本管楽器をぶらさげる。三本同時に吹くことすらある。この三本はリード属の管楽器だ。通常は、もう一本フルートをさげている。相当ヘン。相当ヘンでも手は二本しかないから、右手左手で一本ずつ押さえ、重音(二音だと和音とは呼ばない)を出す。三本目はドローンである。文字通り、手が回らないからね。
 それ以外にも、ステージではホイッスル、マウスサイレン等々小道具もぶら下げる。全体だと、蚤の市の移動楽器屋みたいな姿になる。
 なので、おバカなジャズ評論家は、彼の音楽をグロテスク・ジャズと呼んだ。よー言ったな、こら。
 だが出す音はグロテスクではなく、むしろロマンティックなものだ。音だけを聴いていると、オーネット・コールマンとか、アーチー・シェップなどのほうがむしろグロテスクだ。
 一時期、ジャズの啓蒙本にはまったことがあった。「ジャズ百選」とか、そういった本のことだ。多くは新書サイズだった。著者はおおむね私の知らない人である。このときに、ローランド・カークが活躍してくれた。
 つまりローランド・カークを酷評している人の本は読まない。無視している人の本は、読んでやらんこともない。正当な評価をしている人の本は、当然購入して読む。ローランド・カークはジャズの啓蒙本を選ぶ際の、とてもよいリトマス試験紙だった。

 
世界ビックリショウ1019

『世界ビックリショウ』は昔々、土曜日の午後一時ごろ放映されたテレビ番組である。中学校から帰って来て、昼飯を食う時間だ。放映されていたのは、60年ほど前である。
 タイトルの通り、たまたま日本に来ていたサーカス芸人などが出ていたのだろう。司会は鈴木ヤスシ(歌手、後に俳優も)と女の人だった。女の人は木の実ナナだったような気もするが、それは『ホイホイミュージックスクール』のほうだったのかもしれない。かもしれないと言ったが、「ホイホイミュージックスクール」のほうはほぼ間違いなく、その二人だった。まあ、そんなことはどうでもよろしい。
 さて、そういう安易なつくりの番組だったので、一年やそこら放映されていたにも関わらず、ふたつのことしかおぼえていない。
 ひとつは、『サマータイム』という曲にまつわる。
 番組はたぶんスタジオで収録されたもので(あるいは当時だったから生放送だった?)、そのスタジオにはステージを取り巻くようにひな壇がつくられていた。いろんな人がひな壇に座り、ステージで演じられるショウを見るわけだ。
 その日、鈴木ヤスシは『サマータイム』を歌い、二番を歌うときに、ひな壇の前席に座っていた黒人女性(赤ちゃんを抱いていた)にマイクを回してしまった。さあ、たいへん。この女性がめちゃめちゃうまい。もしかしたら軍属の奥さんとして日本に来ていたアレサ・フランクリンだったのかもしれない。冗談だよ、本気にしないように。でも、本当にめちゃめちゃうまかった。鈴木ヤスシの顔が、真っ青になっていくのがわかった。モノクロテレビだったけど(笑)。
 そのあと、鈴木ヤスシもプロだから、引き取って歌って収めたけどね。相当に、やりにくかっただろうと思う。大人と子どもだった。
 もうひとつが我がローランド・カーク先生である。ただし、同じ日ではない。別の日。
 カーク先生はなんと鎖につながれて出てきた。スタイルは前回お話しした通り。それに、さらに鎖である。さぞ重かっただろう。これって、当時のプロレスの演出だもんなあ。プロレスラーくらいの体格がないと、鎖だけでも重いはずだ。
 マネージャーのような人が鎖を持っていた。ローランド・カークは盲人である。この演出を、カーク自身は面白がって応じたとしても、信頼できる人間以外には鎖を持たせないだろう。
 カーク先生は暴れながらステージ中央、マイクの位置にまで引っ立てられ、あろうことか一言「ガオーッ!」と吠え、演奏を始めた。
 曲目は『ラッシュ・ライフ』だったのではないか。まだ私はジャズ小僧になる前だったので自信はない。演奏は言うまでもなく、とてもよかった。この落差がすごかったので、記憶に残ったのだろう。
 もちろん、その段階で私はローランド・カークを知らず、ジャズを多少は聴いていたものの、ほとんど何も知らなかった無辜の少年だった。「あれがローランド・カークだったんだ」と知るには、あと2年ほどの歳月が必要だった。

【Live】「水の中で生きる多様な生物」1020

 年金生活で暇だけは売るほどあるのに、誰も買ってくれない。で、仕方ないので市民講座によく行くようになった。
 9月22日の講座は、「水の中で生きる多様な生物とそれらがおりなす生態系 そして外来生物」だった。ほぼ一か月前になる。
 八王子市では浅川という大きな川が西から東に流れ、最終的に多摩川に注ぐ。ほぼ並行して大栗川があり、こちらはどぶ川といった規模なのだが、清流である。全体が山地なので、さらにたくさんの小さな川がこれらに流れ込んでいる。
 この水系では魚、昆虫、貝、etcetcが生態系を形成しており、植物も豊富だが、きりがないので話を魚類に絞る。コイ目(アブラハヤ、ドジョウ)、ナマズ目(ギバチ)、キュウリウオ目(アユ)、スズキ目ハゼ類(ヨシノボリ)などが生息している。ところが、これらが外来のものに置き換わったり、生息数が大きく減少(アブラハヤ)したりしているそうだ。オイカワも、琵琶湖系統のものに相当数が置き換わってきているという。
 また、放流した稚アユに混じっていたらしい西日本のカワムツが、川の中層を優占しているのが見られるようになった。カワヨシノボリ(関西系)も、在来のヨシノボリに多数置き換わっている。生態系が変わりつつある。
 日本列島が大陸とつながっていて、日本海が内海だった時代がかつてあり、そんな時代の古黄河が日本の淡水魚の起源地であるようで、そこで多様に種や系統が分化した淡水魚の移入が継続した。
 ところが、数千万年前、西日本と東日本の間に海峡ができ、そのため東日本への移入は止まり、東日本では古い時代の種、系統のみが「陸封」されたようになったという。この「海峡」は、後にプレートの衝突による隆起で山脈になった。結果、フォッサマグナが形成され、その西と東は生物圏として分断された。日本が「列島」になった影響も当然ある。淡水魚の分断は、彼らが海に出られないことによるが、陸生動物であるモグラなどでも分断は知られている。
 西日本の種も「外来」になるのを、私はこの講座で初めて知った。この「外来」は、遺伝子レベルの多様性を減じる。遺伝子レベルでの多様性を保持しておかないと、気候変動などに際して、種全体が絶滅してしまうリスクが高まるという理屈は私でも納得できる。
 一方で、世の中では、本格的な外来生物が問題視されている。問題外来種の代表選手、ブラックバスなどは多額の予算をつけて「駆除」していることがよく知られている。でも、私は、この件ではそれほど危惧はしていない。自然環境全体は、もっとマージンのあるものだと思っているからだ。だからあれは、税金の無駄遣いだと思う。
 遺伝子レベルで交雑が進むとその「種」は一様になってしまい、前述のような危険性があるが、もうちょっと上のレベルでは、それほどの問題はないのではないか。
 自然は大きな可塑性を持ち、絶妙にバランスをとっているのではないかというのが素人の結論である。外来種で、とりあえず競合相手のいないものは、一時期猖獗をきわめるが、いずれバランスをとっていくようになるのではないだろうか。もうちょっと長めのスパンで見たほうがいいと思う。

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