シェアハウス・ロック2410中旬投稿分

夏の盛りには1011

 当該の文章は、次のように始まる。

 夏の盛りには、時間がほとんど停止してしまう。たぶん一年の真中まで漕ぎ出してしまって、もう行くことも帰ることもできないのだろう、とわたくしは思っていた。あとで発見したのであるが、人生にも夏のような時期があるものです。(『ヨーロッパ退屈日記』伊丹十三)

 これはとてもいい文章だと思う。いつまでも人さまの文章を褒めていてもしかたないので、先を急ぐ。
 四国の松山のお寺の一室に「島流し」のようになっていた伊丹十三のところへ、「放浪のピアノ弾き」が訪ねて来る。意気投合した伊丹は、下宿を移り、ピアノが弾けるところで、そのピアノ弾きと暮らすことになる。ピアノ弾きはふたつの女学校から演奏のオファーがあり、練習をしなければならなかったのである。
 練習を聞くうちに、伊丹は「演奏というものがわかり始めている自分に気がついた」と言う。これがいい。15歳でそれがわかり始めたというのは、相当に幸せである。
 開催された演奏会で、ピアノ弾きは、次のようなことを言ったという。伊丹十三も、その女学校に行ったんだね。

「バッハの書いた譜面には、ピアノとかフォルテの指定がありません。だから、ぼくはバッハをなだらかに均等に弾くことをしてみようと思う。(中略)バッハの音楽は(中略)音がつぼんで閉じていったり、また明るく開けてきたり、そういうもんじゃないかな」

 この解説もとてもいい。50年前からいまに至るまで、こんなにいいバッハ評を、私は聞いたことがない。
 演奏会を終えた夏の終わりに、ピアノ弾きは松山を去るのだが、

 十年ばかり経ってわたくしが結婚する時、彼は式場にやって来て、「フランス組曲6番」を弾いてくれた。彼は今創価学会の幹部になっている。

 私が50年前に読んだ版では、「創価学会」ではなく、「ある新興宗教」であった。これはおそらく、創価学会側からクレームがついて直したのだろう。彼らは「新興宗教」と呼ばれることを嫌う。「歴史のある檀家集団である」というのが彼らの主張である。
 もうひとつ。『ヨーロッパ退屈日記』中にはこのピアノ弾きの名前は書かれていなかった。他の文章でもこのピアノ弾きの「正体」に関する記述を見たことはないが、『一房の葡萄』を書いた有島武郎の甥っ子にあたる有島重武ではないかと、私は思っている。「ある新興宗教」と読んだときからそう思っているので、今回「創価学会」に改定されていて、ますますその意を強くした。
 有島重武は、1967年衆議院議員に初当選し、以降、連続8期を務める。1989年矢野絢也の公明党委員長退任にともない公明党中央統制委員を退任、1990年元公明党委員長の竹入義勝とともに政界を引退。
 このあたりのインサイドストーリーは、たぶんおもしろいのだろうが、私はまったく興味がない。
 伊丹と有島の出会いは、計算すると、伊丹15歳、有島29歳のときのことだ。この年齢差も、なかなかいい感じである。
 ここから、ふたつの道筋に分岐する。ひとつは、伊丹15歳、有島29歳という年齢差に関して、もうひとつはバッハに関してである。
 とりあえず、ツミのない、年齢差のほうを次回に。

人生二度結婚説1012

 前回の、伊丹15歳、有島29歳という年齢差で思い出したことをお話しする。
 だいぶ昔(おおよそ60年前である。なんだか私、だんだん歴史の生き証人みたいになってきたな)の話であるが、パブロフの弟子であり、大脳生理学者であり、推理小説作家(筆名は木々高太郎)でもあり、医者でもあった林髞(はやしたかし)が人生二度結婚説を唱えたことがあった。唱えるだけでなく、自分でも実行し、話題を集めたものだった。
 私が読んだ林説は、30歳で15歳の人間と結婚するというものである。30歳なら男女問わずそれなりの経済力がついているので、15歳のパートナーと結婚し、経済的にも面倒をみられる。その15歳が30歳になったら離婚し、今度は別の15歳と結婚すればいいというものだった。まあ、合理的と言えば合理的だが、生まれた子どもをどうするという問題と、45歳を過ぎたらどうするという問題は残る。林さんとしては、それなりの解決をつけていたのだろうか。
 ネットには、
 
 この説はなかなか説得力あるが、寿命が延びた現在では、年とった男性や女性は離婚されることになろうが、その後、どうなるのかは触れられていない。

とあったので、解決はついていなかったんだろうか。まあ、私なんかが心配してもどうなるものでもない。
 いまの私の解決策は、「45歳を過ぎたらシェアハウスをやればよろしい」というものだ。
 おじさん、おばさん、私は、15歳で結婚こそしなかったものの、それぞれ未婚、未亡人、バツイチという境遇でのシェアハウスである。まあ、吹き溜まりであるが、人生二度結婚説の人も、45歳を過ぎたら私らのように吹き溜まればよろしい。
 通常、若い人は頭のどっかに「結婚」という文字が刻まれていると思うのだが、それをもうちょっと延長した先に、「シェアハウス」という文字を刻めばいいだけである。もちろんこういうことはトレードオフなんで、いいことづくめではもちろんないけれども、少なくともいま問題になっている孤独死は、シェアハウスで暮らす私らの場合、ふたりまでは自動的に解決したことになっている。
 普通はさあ、50年働いて、税金納めてくれば、老後は国家が面倒みるもんだよ。「そんなことはやれない」と言うんなら、それは税金の取り方が間違っているか、使い方が間違っているかだな。年金生活者の分際(私のことね)で生意気な言い草だが、手はいろいろとあるはずである。
 だいたい、行政の長たる菅義偉(当時)が「自助、互助、公助、そして絆」なんて、田舎の校長先生みたいなことを平気で言う国なんだからな。これだけで、もうダメだわ。政治家の資格はない。説教をするのが政治家の仕事ではないはずだ。
 私らは、確かにシェアハウスで「自助、互助」をやっているが、これは、菅義偉がこういう世迷いごとを言う前からである。菅義偉とは、なんの関係もない。これは、私らの名誉のために言っておく。

史的イエスについて1013

 私は『ロ短調ミサ』(J.S.バッハ)の音盤は、バッハ・コレギウム・ジャパン(鈴木雅明指揮)のものしか持っていない。一方、『マタイ受難曲』は、アムステルダム・コンセルトヘボウのものを筆頭に、多数持っている。たぶん、10種類を超える。
 これはどういうことなんだろうか。けっこう真剣に考えたのだが、あまりよくわからない。自分のことなのに、よくわからない。
 ひとつだけもっともらしい説明は、私は史的イエスは好きなのだけれども、信仰に見放された人間であるというところに原因があるのではないか、というものだ。
『マタイ受難曲』は『マタイによる福音書』の音楽版であり、史的イエスのお話と言えないこともない。一方『ロ短調ミサ』は、ミサだから祈りである。
 ところが、「『善良さ』が一番1007」のなかで、「拝むという崇高な行為があるから、神や仏は存在できる」などと、言葉の調子というか、論理の調子で言ってしまったので、そこから「『ロ短調ミサ』問題」を考えるようになってしまったというのが、本日のお話である。
 そんなこと言う以前は、史的イエスに拘泥するあまり、『ユダヤ古代誌』(ヨセフス)を読んでみるかなとすら、私は思っていた。そこには聖書(正典、外典)以外にイエスが出て来ると、なにかで聞きかじっていたのである。
『ユダヤ古代誌』は、ちくま学芸文庫で6冊という大著である。イエスが出て来るとは言っても、せいぜい数ページだろうし、もしかしたら数行かもしれない。これはいくらなんでも、コスト/タイムの両パフォーマンスが悪すぎる。それで、何年間も、一年に二回くらい「読んでみるかな」「いやいや、ちょっと待て」と葛藤していたのである。
 そんななかで、比較的最近に読んだ『禁忌の聖書学』(山本七平)のなかに、おそらく私が読みたいと思っていた箇所の抜き書きが掲載されていたのである。早まらないでよかった。
『禁忌の聖書学』によれば、当該の部分は「フラウィウス証言」と呼ばれていたようで、以下のようなものである。孫引きになるので、これ以上の来歴はわからない。

 さてそのころ、イェースースという賢人―実際に、彼を人と呼ぶことが許されるならば、―があらわれた。彼は奇跡を行う者であり、また喜んで真理をうけ入れる人たちの教師であった。多くのユダヤ人と少なからざるギリシア人を帰依させた。彼こそクリーストスだったのである。ピラトスは、彼がわれわれの指導者たちによって告発されると、十字架刑の判決を下したが、最初に彼を愛するようになった者たちは、彼を見すてようとはしなかった。

 この後、三日目に復活したとか、もう少し記述は続く。しかし、福音書と同じであることがわかる。
 そんなこんな考えているうちに、『ロ短調ミサ』を、冒頭に申しあげた以外の盤でも聴いてみるかなと思い、図書館で借りて来たのであるが、これはとんでもない盤だった。

『ロ短調ミサ』1014

 図書館から借りて来た『ロ短調ミサ』は、小澤征爾指揮、サイトウ・キネン・オーケストラ、東京オペラシンガーズによるもので、2000年8月29日-9月4日、長野の松本文化会館での録音である。なんのことないじゃないのと思われるかもしれないが、とてもそんなものではない。
 まず、ソリストが凄い。
 バーバラ・ボニー(ソプラノ)、アンゲリカ・キルヒシュラーガー(メゾソプラノ)、ジョン・マーク・エインズリー(テノール)、アラステア・マイルズ(バス)である。楽器のソリストには、塩田益子(v)、宮本文昭(オーボエ)がいる。もっといるが、省略。最初の2人だけでも驚愕ものである。
 私が一番びっくりしたのは、オーケストラのなかに、今井信子さんがひっそりといたことである。ヴィオラなので、もちろんソロはとらず、オーケストラのなかにいるのは当たり前だが、これはもの凄いことだ。だから、私が知らないだけで、まだまだ凄い人たちが、オーケストラ、合唱団のなかにはいるのだろう。無知というのは悲しいことだ。
 サイトウは、桐朋学園創立者の一人である齋藤秀雄のことであり、齋藤の弟子である小澤征爾と秋山和慶を中心に、国内外で活躍する齋藤の教え子たちが結集したのがこのオーケストラである。
 さて、『ロ短調ミサ』である。
 まず、バッハ本人はこの作品に題名を与えていない。これは、まあ言わずもがなである。
 4部に分かれた楽譜には、それぞれにラテン語のタイトルのみが記されていたという。「キリエ」「グロリア」「ニカイア信条」(「クレド」と呼ばれることのほうが多い)、そして「サンクトゥス」「ホザンナ」「ベネディクトゥス」「アニュス・デイ」である。
 キリエ(Kyrie)はギリシア語で「主」のラテン文字表記であり、「キリエ・エレイソン」は「主、憐れめよ」(日本正教会では)と訳される。それ以外は、生半可なラテン語知識(私のことね)でも、おおよそ見当はつく。
「ニカイア信条」は「キリスト教由来の『霊』『霊性』1002」でお話しした「ニカイア・コンスタンチノポリス信条」(381年)のことである。これは、「父・子・聖霊を同質(ホモウーシオス)であることを告白すること」(『トマスによる福音書』荒井献、p.89)であり、三位一体論として知られるものである。
 で、肝腎の演奏はと言えば…
 私は、そもそもオーケストラが苦手である。なんとなく、全体主義を連想してしまう。だから私は、クラシック鑑賞家としては偏頗なんだよなあ。偏頗どころか、欠陥かもしれない。
 でも、借りて来て一週間、毎朝のコーヒータイムには聴いた。だから、気に入ったことは気に入ったんだろう。
 皆さんは、そういうことってないだろうか。イヤだけどいいとか、苦手だけどいいとか。
 それと苦手と言えば、「祈り」というのも私は苦手だ。「絶対者」「至高者」というのも、どうも苦手。それでも「至高者」が創ったと言われる「宇宙」とか「自然」とかには、その完全性、精緻さに対して「祈り」に近いものを感じることがある。ヤキが回ったのかもね。
 たぶん私は、「絶対者」「至高者」なんかよりも、「凡俗」「凡愚」に価値を置きたい人間なのだろう。私が一番好きな言葉は「愚直」である。これを私訳すると、この文脈では「祈る対象を持たないまま敬虔になること」になる。

【Live】この連休の仕事は1015

 土曜日の段階で、既に我がシェアハウスのおばさんは翌日曜日のスーパーの安売り広告「合い挽き100g99円」に着目していた。
 日曜日になるや、それを1㎏買いに行った。ハンバーグをつくるためである。同時に、ホウレンソウを3束買って来た。
 昼飯が終了するや、おばさんはフードプロセッサーを駆使して玉ネギを刻み、ハンバーグをつくる。出来あがったのは、直径25cmのフライパンに3枚がやっと載る程度の大きさのものだ。
 焼くのは当然私の役割である。
 フライパン(私の嫌いなフッ素加工のもの)に3枚載せ、片面を最強火で1分間焼く。ひっくり返し、最弱火にし、フタをし、タイマーをかけ5分間焼く。この5分間が、作業中煙草を吸ったり、本を読んだりできる唯一の時間である。いま読んでいるのは『おおエルサレム!』だ。下巻の真ん中くらいまで来た。この本にご興味がおありであれば、「【Live】ポケベル爆発0921」に詳しいことを書いたので、ご参照を。
 一時間強で、十数枚を焼いた。
 翌月曜日(すなわち昨日)は、わが友青ちゃんとイノウエさんとおばさんは最寄り駅の隣の隣で麻雀であり、私は、ハンバーグ・セットと冷やしきつね蕎麦一式を届けるのである。
 で、朝から忙しかった。まず「一式」のホウレンソウを茹で、同時に油揚げを煮る。冷凍蕎麦は5食分なので、ホウレンソウは小分けにする。たぬきにしてもいいように、普段は揚げ玉も添えるのだが、今回は入手できず、30%引きで売っていた海老天とイカ天を各一つける。
 セットの野菜は、ニンジンのグラッセ、シシトウとセロリの炒め物、シイタケを焼いたもの。全部味を違えた。
 これらを用意した段階で昼になった。
 これだけ人のためには料理をやっていながら、私の昼はマルちゃんのインスタントラーメン(味噌味)である。具は煮ているところへ卵を落とし、中華なべでキャベツを炒めたものを入れるだけだ。
 インスタントラーメンは、ラーメンとは別の食い物だと私は考えている。ラーメンは固めが好きだが、インスタントラーメンはズルズルになったほうがうまいと私は信じている。ところが、このごろは加工でんぷんのせいで、なかなかズルズル感が出ない。規定時間の2、3割増程度煮ないとダメである。
 夕方、ウーバーするまではちょっと時間があるので、多少はのんびりできる。その間に、これを書いている。
 ウーバー後、雀荘のあるビルの一階にある居酒屋で、青ちゃん、おばさん、私で飲んで帰るのだが(イノウエさんは酒を飲まない)、このときに注文するポテトフライについてくるケチャップに入れるための秘密の粉(チリパウダーにカイエンを混ぜたもの)をつくり、551の冷凍保存袋に保冷剤を入れ、ハンバーグ・セットと冷やしきつね蕎麦一式を収納すれば、本日の業務は終了である。
 結構忙しい連休だった。
 
 
『ザイム真理教』(森永卓郎)読了1016

 ザイム真理教の総本山は、財務省である。そして、ザイム真理教の中心教義は、財政均衡主義である。
『これからの日本のために財政を考える』(2022年10月)というザイム真理教への勧誘パンフレットには、「普通国債の残高は、急速に拡大してきていて、すでに1029兆円と、赤ちゃんまで含めた国民一人あたり823万円もの借金を抱えている」などと書かれてあり、「(この)財政赤字を放置すれば、将来世代に負担を先送りすることになり」「通貨の信認や金融機関の財務状況にも悪影響を及ぼす」と言い、「国民が広く受益する社会保障費は今後も増大していくと見込まれ、その費用をあらゆる世代が広く公平に分かち合う観点から」「消費税の引き上げは必要」と結論づけている。
 つまり、「消費税を上げないと、とんでもないことになるぞ」と、霊感商法まがいの脅しをかけているわけである。ネタが、壺か消費税かの違いだけだ。
『ザイム真理教』で扱っている2020年度末の「連結貸借対照表」を見てみると、負債の部の小計は1661兆円。これだけ見るとちょっとあわてたくもなるが、一方資産の部を見ると、流動資産841兆円、固定資産280兆円で、合計1121兆円。よって、資産負債差額は540兆円である。2020年度の名目GDPは527兆円だから、負債のGDP比は102%。つまり、ほぼ同額であり、これは先進国ではごく普通の水準に過ぎず、目くじらを立てる必要などないし、あわてる必要もない。
 負債の内訳を見ると、国債は987兆円である。これを悪性の借金と見るかどうかというのが議論の分かれ目となる。
 これに関しては、オーストラリアで図らずも社会実験がなされた。これにより、たいして悪性でないことがわかる。

 中央銀行であるオーストラリア準備銀行の純資産がマイナスになったことが2022年9月21日に明らかになったのだ。
 大量に買い入れた国債の評価損が膨らんだためで、(中略)この日、(中略)(同行)のブロック副総裁は「中央銀行の負債は政府が法的に保証しており、中央銀行にはお金をつくる能力があるため、破綻することはなく、支払い能力にも問題はない」と主張した。
 その後、何が起こったかというと、じつは何も起こらなかったのだ。(『ザイム真理教』森永卓郎、p.82)

 つまり、ザイム真理教は通貨発行権、国債発行権には触れず、国家経済の正体を秘匿したまま、一般国民にわかりやすいように家計に無理くりアナロガイズし、不安をあおり、ひたすら消費税を上げ、一般信者や一般人から搾り取ろうというカルト宗教であるというのが同書の主張である。
『ザイム真理教』のp.99には、消費税率と実質賃金との関係を示したグラフが掲載されている。これを見ると、消費税が5%に上げられた1997年以降実質賃金が下がり続け、8%(2014年)、10%(2019年)と、見事に影響があることがわかる。
 これも、考えてみればあたりまえのことだ。消費税が上がればその分の消費が減るのはあたりまえで、消費が減れば景気が悪くなるのは考えるまでもない。そうして、実質賃金が下がれば、デフレスパイラルに陥る。これが現在の状況にほかならない。
 前述の財務省のパンフレット等をご覧になり、あわてている人には、是非『ザイム真理教』(森永卓郎)をご一読することをお勧めしたい。
 カルト宗教の本領たる、幹部だけがいい思いをし、一般信者は絞られるのみという言及も同書にはあるが、そこまではとうてい紹介できない。これも、一読すれば、明瞭にわかることである。

あのクボヤマさんがこの久保山さん1017

 私はネットニュースをほとんど読まない。だいたいが羊頭狗肉だからだ。タイトルにひかれて読んでみても、私の知りたいことがすべて書かれていることは皆無と言っていい。と言って、私はそんなに難しいことを期待しているわけでもない。5W1Hが満たされていればいいのに、それも不十分だったりする。知りたいことがなにかひとつ、常に欠けている。そんな印象だ。
 だが、一昨日発見したネットニュースのタイトルに、「細野晴臣」、「カセットブック」とあったので、もしやと思って読んでみたわけである。
 本当に「もしや」だった。同記事は、「カセットブック」なるものの紹介記事である。以下のパラグラフ(一行空けのもの)はネットニュースそのままだが、()内は、私の追加。全体は、「サエキけんぞう、カセットブック『花に水』を語る」という構成になっている(SmartFLASH によるストーリー)。
 
 今回、コレクションから随一として(サエキけんぞうが)選んでくれたのが細野晴臣の『花に水』(冬樹社、1984年9月10日発売)。「カセットの特性を生かした音楽」だという。

 冊子には、鍼灸治療師の久保山昌彦氏と細野晴臣の対談や、宗教学者の中沢新一氏のコラムなどが掲載されている。

「閃輝暗点0926」に初登場し、「世の中には仕事ってのがあってね1006」で退場したあのクボヤマさんが、この久保山さんなのである。懐かしいなあ。
 知り合いとしゃべっているうちに、なんだか懐かしい人の話題がポッと出て来たという気分になった。サエキけんぞうは、知り合いでもなんでもないんだけどね。
 細野晴臣とは会ったことがある。細野晴臣の奥さんがクボヤマさんの患者であり、彼が付き添いで来ていたときに、クボヤマさんの治療所でお会いしたのである。私が、次の患者だった。まあ、それだけの話なんだが。
 このカセットブック『花に水』のアイデアは、クボヤマさんのものであることは、ご本人から聞いている。また、『花に水』の現物も、クボヤマさん本人からいただいて、せっかくだからと、一回だけ聞いた。
「カセットブック」なるものを、私はもうひとつ持っていた。高橋悠治(水牛楽団)によるもので、高橋悠治は大正琴を弾いていた。なにが悲しくて大正琴なんか弾くのかとは思ったものの、こちらは何回も聞いた。

ネットニュース1018

 私はネットニュースをほとんど読まない。だいたいが羊頭狗肉だからだ。タイトルにひかれて読んでみても、私の知りたいことがすべて書かれていることは皆無と言っていい。と言って、私はそんなに難しいことを期待しているわけでもない。5W1Hが満たされていればいいのに、それも不十分だったりする。知りたいことがなにかひとつ、常に欠けている。そんな印象だ。
 でも、それも無理からぬことであると思う。
 以前、ネットニュースのライターは、1時間に6本書くというオブリゲーションが課せられていると、なにかで読んだ記憶がある。ある特定のネットニュースの制作現場での話なのだろうとは思う。それでも、他のところでも大同小異なのではないか。そんな気がする。
 これを、私にあてはめて考えてみる。
 まず、私が管理職になることを考える。
 私は、まず、ネタになりそうな元ネタを、ネットで探すだろう。紙媒体だと手間がかかるので、ネット配信のなにやらをいくつか契約し、そこからブッコ抜く。一本を2000文字くらいに切り取る。これを、下っ端に送る。一人あたり一日50本くらい。
 下っ端が、どういうネタなら得意かとか、どういう領域のネタは不得手かなど、考えている余裕などない。管理職である私は、ネタを配給するだけで一杯いっぱいである。
 次に、私が下っ端になることを考えてみる。
 下っ端である私は、上記のブッコ抜きが来たら、順番に、せっせとネットニュースに掲載できる体裁にする。1時間に6本だから、こっちが先だ後だなど言ってられない。しかも、適当なところから適当なところまでぶった切ったテキストだから、頭から読んでわかるような体裁にするのがせいぜいである。1時間に6本だから、用語の選び直し、推敲などしている余裕はない。読み返しもろくにできないだろう。体裁が整い次第、納品に回すことになる。
 今度は、納品された部署も、校正、推敲、校閲などしている余裕はない。一日に100本とか、もしかしたらそれ以上チェックしなければならないからだ。
 たぶん、こんな感じなのだろう。
 で、昨日紹介したように、「随一として選んでくれた」などという珍妙な表現が出現してしまうのだろう。
 ただし、これは、どこかで読んだ記憶があるという「1時間に6本説」からの推測である。実際は、もうちょっと真面目につくっているのかもしれない。
 なお、今回と前回は、出だしのパラグラフがまったく同一である。気が付きました? 一日に一本でも、こういうことをやる。
 私は書いているんで当然気が付いて(ワハハ)いるのだが、意外と気が付かないと思うよ。

『八犬伝』1019

 10月25日、映画『八犬伝』が公開される。私は、いまからワクワクしている。
 まず、八犬伝をご存じない方のために映画のパンフレットから、概要を紹介する。そんな人いないと思っていたが、意外といるんだよ。
 
 里見家の呪いを解くため、八つの珠に引き寄せられた八人の剣士の運命をダイナミックなVFXで描く「八犬伝パート」と、その物語を生み出す作家・滝沢馬琴と、浮世絵師・葛飾北斎の奇妙な友情を通じて描かれる「創作パート」が交錯する新たな『八犬伝』。
 失明してもなお、口述筆記で書き続け、28年の歳月を費やし106冊という超大作を書き上げた馬琴の偉業は、日本文学史上最大の奇跡として今なお語り継がれる。

「八犬伝パート」「創作パート」などと書かれているが、これだけで、私ほどの八犬伝の専門家になると、この映画の原作は滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』ではなく、山田風太郎の『八犬伝』だとわかってしまう。ただし、山田風太郎の同書では、「虚の世界」「実の世界」である。「虚」のほうは言うまでもなく『南総里見八犬伝』であり、「実」のほうは馬琴の日常である。こっちのほうが、「八犬伝パート」「創作パート」よりずっといいんだがなあ。
『南総里見八犬伝』は、文化11年(1814年)に刊行が開始され、28年をかけて天保13年(1842年)に完結した。この間、馬琴は、自身の失明、息子宗伯の死という悲運にみまわれるが、宗伯の妻であるお路の口述筆記により最終話まで完成させることができた。
 私ら山田風太郎読みの間で、「明治もの」と呼ばれる作品群がある。史実を尊重するものの、同時に、「あったかもしれないこと」への想像の翼を伸ばすという作風である。たとえば、警視庁に奉職した斎藤一が同僚を助け犯人を追いかける(これはあったかもしれない、である)が、その犯人が、実は沖田総司であることは絶対にない(とっくに死んでいるので)みたいなことである。
 この作風で、「実の世界」は書かれている。初めて山田風太郎の『八犬伝』の目次を読んだ段階で、八犬伝の専門家としては、「ええぃ、不要な夾雑物を!」と思ったが、さすが風太郎先生であり、「実の世界」も十分に読ませる。本当に、こうであったのかもしれない葛飾北斎がとてもいい。
 ああ、脱線した。
 以下は、上記「意外といるんだよ」の続きである。
 15日(火)は、陶芸クラブの日であったが、おばさんは体調不良で欠席。ただし、タカダ(夫妻)に、「クラブ後の飲み会は出るので、最寄り駅で飲み会はしたい」と伝言せよとの指令が私に下った。「どんな体調不良だよ、まったく」と思ったのだが、タカダ(妻)は「わかる、わかる」。どんな(妻)だよ、まったく。
 で、最寄り駅の最寄り居酒屋で『八犬伝』の話になったのだが(すぐ前のシネコンでやるのである)、タカダ(夫妻)は八犬伝をまったく知らない。おばさんに至っては、タカダ(夫妻)に説明するにこと欠いて、「ほら、岡本喜八が監督して、ジェリー藤尾が出た映画があったでしょう」。
 あの、それは、『真田風雲録』なんですけど。それに、監督は加藤泰なんですけど。しかも、そっちは真田十勇士で、こっちは八犬士で、二人余っちゃうんですけど。
 私の長女が中学生のとき、なんかの話のときに、「忠臣蔵と新選組はどう違うんだ」と聞いてきて、死にたくなったことがあった。どう違うもなにも、漢字で三文字という共通点しかない。それを思い出した。

八犬伝の歴史1020

 歴史と言っても、私の歴史である。だから、いずれたいしたものではない。
 私が、『里見八犬伝』に初めて出会ったのは、1959年の東映映画だった。小学校3年のときのことだ。前編、後編の二部に分かれていたと記憶する。
 前編の最後は、芳流閣の屋根に追い詰められた犬塚信乃を捕らえるべく、投獄されていた捕物の名人犬飼現八が起用されるが、二人は組み合いながら転落し、小舟の上に落ちる。
 そこから利根川(と馬琴は言うが、これは江戸川だろう)を流され(ここまでが前編)、後編で下総行徳へとたどり着く。私は彼らと一緒に一週間漂流し、翌週の小岩東映でやっと行徳へとたどり着いたのである。
 当時、私が住んでいた小岩駅近辺から東へ約4㎞行ったところを北から南に江戸川は流れていた。それを市川橋で渡った千葉県側の上流約1㎞のところに里見公園があった。この里見公園は里見氏の出城跡である。
 行徳もよく知っている地名だ。つまり私は、『里見八犬伝』には生まれついての土地鑑があったのである。
 さて、切れ切れに「八犬伝」のお話をしてきたが、ここで、『南総里見八犬伝』の基本的なストーリーを紹介する。

『南総里見八犬伝』は、室町時代後期を舞台に、安房里見家の姫・伏姫と神犬八房の因縁によって結ばれた八人の若者(八犬士)を主人公とする長編伝奇小説である。共通して「犬」の字を含む名字を持つ八犬士は、それぞれに仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字のある数珠の玉(仁義八行の玉)を持ち、牡丹の形の痣が身体のどこかにある。関八州の各地で生まれた彼らは、それぞれに辛酸を嘗めながら、因縁に導かれて互いを知り、里見家の下に結集する。

 これは、Wikipediaそのまま。ただ、これはストーリーの「核」であって、まだ「幹」にも至ってない。それほど、『南総里見八犬伝』は大樹なのである。
 ちなみに、その映画の配役を書く。

 犬塚信乃(孝) 伏見扇太郎  犬飼現八(信) 尾上鯉之助
 犬山道節(忠) 里見浩太朗  犬川荘助(義) 高島新太郎
 犬田小文吾(悌)山手宏太郎  犬坂毛野(智) 沢村精四郎
 犬江親兵衛(仁)大里健太郎  犬村大角(礼) 南郷京之助

 知らないでしょ? 私ですら、伏見扇太郎、里見浩太朗くらいしか知らないし、おぼえていない。でも、犬飼現八(信)(=尾上鯉之助)、犬坂毛野(智)(=沢村精四郎)の顔は、おぼろげにおぼえている。
 その他の俳優として、原健策、杉狂児、花園ひろみ、阿部九洲男、吉田義夫、赤木春恵がいるが、この人たちは東映映画の常連なので、私にはわかる。里見義通(これは、里見義実の息子だろう)役の目黒ユウキは、目黒祐樹だろうと思う。であれば、松方弘樹の弟さんで、近衛十四郎の子どもである。
 ところが、同じ東映で、さらに5年も前に作品化されている『里見八犬伝』がある。こちらは、私は見ていないが、東千代之介(犬塚信乃)、中村錦之助(犬飼現八)が出ており、びっくりすることに里見義通役として目黒裕樹(こっちのデータは漢字だった)が出ている。でも、植木千恵という名前とダブルキャスト風になっているので、赤ん坊で、寝ているときだけ目黒祐樹とかいうことなのだろうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?