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「日記」予測不能にもほどがある 昭和的実録海外ひとり旅

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既に半世紀前、プライベートでの初めての海外ひとり旅時の一年半程の日記です。 旅行日記であるにも関わらず、その地の紹介や感動などは余り書かれておらず、ただ自身の上に絶え間なく押し… もっと読む
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記事一覧

予測不能にもほどがある 26 旧ユーゴ|イタリア編 (3 昭和的実録 海外ひとり旅日記

        日記_028 生きているということ   01-(2 / 02 / 03 / july 1978 「ドコデモ ドア」 Dubrovnik この街は生きている。 (観光地(旅の通過点のつもりで立ち寄ろうとした街であり、聞き知っていた訳ではない)という名声に胡座をかくでもなく、その遺産に寄り掛かるでもなく、そんなことに意を介しない人々の暮らしが普通に見える街というだけ。 比喩に例えられるような“中世が生きている”などと云う意味ではない) Athen

予測不能にもほどがある 25 旧ユーゴ|イタリア編 (2 昭和的実録 海外ひとり旅日記

        日記_027 非の打ちどころの無い街   29 / 30 / jun 1978 海に傾いた街 バスは既に夕闇の中、おそらくこの辺り素晴らしい渓谷が展開されているだろうことは、時折ヘッドライトに照らし出される覆い被さるような岩陰で想像はできるのだが、そんな中を悪戦苦闘しながら走るバスを思い描くばかりで、景色を堪能する術もない。 峠の頂上らしき(暗黒で分からない、唯 寒風が吹き上げてくるコトで察せられるだけだ)に小屋があり、一回だけの休憩をとる。 ガ

予測不能にもほどがある 24 旧ユーゴ|イタリア編 (1 昭和的実録 海外ひとり旅日記

        日記_026 シアワセの国  26-2/ jun 1978 途中Jimmyの友人のIsmaniと合流し、英語の先生と共に、彼の部屋に入ると楽しい晩餐はパイとアイラン(ヨーグルトに塩を混ぜた飲み物でトルコ発祥)で乾杯となった。 (実はここはJimmyの家ではなく、Ismaniの家であった。これからあちこち引き回されながら有りったけの友人を紹介されたので、誰が誰だか何処が何処だか、混乱してしまったのだ) しかしお互い旅の疲れか談笑も早々と切上げ、

予測不能にもほどがある 23 ギリシャ編 (9 昭和的実録 海外ひとり旅日記

        日記_025   25/ jun 1978 ギリシャ エピローグ 翌朝、惜しむ気分もままならず追い立てられるように、人気のない道をバスで行く。 ところが(なんてコトだ) 船の中には長髪の外国人が二人、三人と居るではないか。 船は来た時とは反対側の半島の海岸線を、俺のいきり立った思いを沈めるかように、静かに舐めるように朝靄の中を進んで行く。 呆気ないAthosの幕切れに腹の虫が治らないのか、下船したらヒッチと意味もなく決め込んでいる。 すぐ

予測不能にもほどがある 22 ギリシャ編 (8 昭和的実録 海外ひとり旅日記

        日記_024 Athosは遠かった  23/ jun 1978 頑張れっ Tessaloniki 早朝に着いたTessalonikiの駅前の公園は、テントを張った避難民で、溢れていた。 不謹慎な言い方なのだが、瞬間ジプシーのテントかと誤解してしまった。 (実際自分は現在まで大きな災害にあったことは無いので、事の重大さが理解できていないのだ) 皆、端正な身なりをしていることが、余計地震のリアルさを自分に教えている様であった。 諭す様な歩調(

予測不能にもほどがある 21 ギリシャ編 (7 昭和的実録 海外ひとり旅日記

        日記_023 夢は叶っている 15 / 16/ jun 1978  同室のEngland人 Athensに戻れば戻ったで、途端に憂鬱になる。 2日続きで夜、思い切って洗濯をすれば、些かの気は落ち着くか。 John’s Placeの同室に、MarkというEngland人が入って来た。 なかなか気さくで、俺の英語を褒めてくれた。 (恐らく俺の英語はQeen’s English仕立て(American Englishは習ってはいないし、知らない)で、Eng

昭和的実録 海外ひとり旅日記        予測不能にも程がある 20 ギリシャ編 (6

日記_022 エーゲ海クルーズの楽しみ方 11/ jun 1978 クルーズ快調 島から島へのフェリー便はルートが限られているので、いつもPiraeusからの仕切り直しとなる。 行き先やら時間やらを合わせるのは至難の技、今回もMikonosのつもりでNaxosThira行きのフェリーに乗ってしまったようだ。 しかしお蔭で、そのフェリーの途中下船の選択肢のSyrosを選ぶことができて大正解、穏やかで美しい島だ。 (Athenにも引き返さず、そのままの足でPiraeu

昭和的実録 海外ひとり旅日記        予測不能にも程がある 19 ギリシャ編 (5

日記_021 俺は旅人 5/6/7(1)/ jun 1978 一旦Piraeusに戻り、Katerigiと約束していた通りMelina & Jules夫妻宅に電話すると、今度は日本語を喋る女性がでた。 (んん?)「ワカッテイル」要件は理解しているようで、タドタドしい日本語ではあるが、「マダカエッテナイ」「モウスコシマテ」,詳細を引き出そうとするが理解しているのか、いないのか、埒あかず電話を切る。 (ウゥ〜ン、どう考えればイイのか) (もう一度面会できる

昭和的実録 海外ひとり旅日記        予測不能にも程がある 18 ギリシャ編 (4

日記_020 再びの「なんか変」 1(-2)/jun 1978 やっぱりなぁ Ancient KorintosのAporon神殿の床のモザイクタイルは、外部でありながら鮮やかな色を今に残し、秀逸であった。 一旦Korintosに戻り、(Ancient Korintosからは直通がない)いよいよあのライオン門のMykinesに向かう。 運河寄り道でチョット時間をくってしまったか。 一段と磨きの懸かったオンボロ具合のバスは、鬱蒼とした森の中の未舗装の道をガタ

昭和的実録 海外ひとり旅日記        予測不能にも程がある 17 ギリシャ編 (3

日記_019 実現したい 26/27/28/may 1978 実は昨日博物館の帰り道、”Broadway Theater”の場所を探し当て、しかもシアターのマネージャーと称する人からJules & Melina夫妻の住所まで聞き出すことができたのだ。 (日本を出る前、ギリシャ大使館で「現在、夫妻で舞台を上演している」ことを教えてもらってきていたのだ。舞台は既に楽日となっていた) 帰路、マネージャーから戴いたMelinaのパンフレット・スチールを抱え、アテネ

昭和的実録 海外ひとり旅日記        予測不能にも程がある 16 ギリシャ編 (2

日記_018 アテネ、変? 21/may 1978 バルコニーのあるホテル 翌日朝、誰かの時計がなくなったと一悶着。どうも空気が違う。 早々と宿は替えよう。 すぐに背の高いバルコニーの扉が、思いっきり放たれたビルを見つけた。 ベットマットを干している気配でホテルだなと中りがついた。 ”John’s place”と言った。 相部屋使用なのだが今は空いているから、とその2階のバルコニーのある部屋を案内してくれた。 天井高は優に5mはあって、先程見たバルコニー全面

昭和的実録 海外ひとり旅日記        予測不能にも程がある 15 ギリシャ編 (1

日記_017 堂々、アテネ回航 16/may 1978 オロオロ、クタクタ 国境の駅Pithionまで11時間(トルコ側)、最後のçaiを惜しんだその駅から8時間半(ギリシャ側)、列車は平野部をひた走りΔοραμα(Dorama)に着く。 途中線路工夫たちの作業姿が妙に印象的(そういえばとても奇妙なことなのだが、トルコではマニュファクチャー・酪農業・商売する人以外で、産業に従事する労働者たちを街中で見ていない様な気がする)で、ギリシャってこんな「勤勉な国」だっけ、

昭和的実録 海外ひとり旅日記        予測不能にも程がある トルコ編 14

日記_016 そろそろ、見納めか 8/may 1978 昨晩はIlfanの叔父の家に泊めてもらった。 これが一般のトルコの家かと思わせる、床から腰壁まで全てカラフルな絨毯やラグで巻き込んだ部屋は、小さいがとても居心地の良い部屋であった。 Ilfanと市内散策をして、バスの別れも遅くなってしまった。 Ereğli経由のZonguldakまでの道のりは、僅か60kmなのに2.5hも掛かる程、険しい。 山並みが複雑に絡み合い、海側は断崖絶壁で殆ど海を見ることもできな

昭和的実録 海外ひとり旅日記        予測不能にも程がある トルコ編 13

日記_015 お手上げの7日間  1/ 2/ 3/may 1978 (月が丁度改っての久し振りのIstanbulではあったのだが、どういうわけか日記は3日間記載がない。 勇んで戻っては来てみたが、再び待たされることになったことへの諦観(と言ったら全てを理解して悟ることだろうからチョット違えて)、観念、お手上げ感ナンだろうなあ。) (日記に忠実に 「記載なし」とします。)  コラム_20 日々是好日なり   「記載なし」に思うこと Istanb