予測不能にもほどがある 28 (欧州各国)|イタリア編 (5 昭和的実録 海外ひとり旅日記
日記_030 ・・・をたずねて - 1
6/july 1978 怪しいもの
実はイタリアの旅では別の目標があり、Veneziaは特段の思い入れがある訳では無かった。
しかしあたかも海面の水切り遊びを思わせる一直線の列車専用道、またドキドキの街裏迷路は思いもかけぬ大収穫で、大いに俺のココロを高めてくれたそのご機嫌に拍車をかけるかのように、列車はVeneziaを後に、さらにMilanoもスルーすると、一気に北上し始める。
辺りは既に緑深く、くねくねと湖の畔に沿いながら、生憎の雨もまるで演出効果(何の?)の様。
そうここがMaggiore(語呂が怪しいでしょ)湖。
車掌の言った五つ目の駅はVerbania(Santa Lucia駅の切符売り場でMaggioreに行くには?で買わされた切符の行き先駅)ではなかった。
停車中車輌を降りて、大声で駅名を叫ぶとやはり違っていて、慌てて乗り直した。
Verbaniaはそれまでの怪しい雰囲気を払い落としてしまうような色気も何も無い駅で、一瞬落胆。
しかしバスで8km程行くと再び湖が姿を現わすことになる。
既に夜、音楽に同調させた噴水が目に留まり、あながち無名な観光地ではないようだ。
中心地を避けるように、やっとホテルが見つかったのは午後11時になっていた。
コラム_58 澁澤龍彦のこと
1960年代からの若者たちの政治関与による自己変革が70年代に入り破綻していく時期に重なるように学生時代を過ごすことになった俺の前に、澁澤龍彦は時代の”目利き”として現れている。
三島由紀夫が「珍書奇書に埋もれた書斎で、殺人を論じ、頽廃美術を論じ、その博識には手がつけられないが、(中略)この人がゐなかつたら、日本はどんなに淋しい国になるだらう」と澁澤を評しているが、そんな”淋しくない国”に自分が生きることを目指そうとするための水先案内人としては、お誂え向けだったように思う。
当時俺の書棚は澁澤龍彦に限らず、稲垣足穂、夢野久作、埴谷雄高、塚本邦雄、寺山修司らの豪華装丁本(一般の単行本なら大半700円前後だったのに、これらの本は1500円以上であった。学生の分際で)で埋まっていった。
そんな中に澁澤の『ヨーロッパの乳房』(立風書房1973年)とか(既に”断捨離”して、これら数百冊の本は処分され(古書店で僅か三万円であった)、手元にないので記憶に頼るしかない)に紹介されていた場所にMaggioreともう一つParco di Bomarzoがあった。
いずれの場所も伊に来てさえ、駅の切符売り場やらTourist Informationでその場所を尋ねても、誰も知らないほど知名度の無い奇妙奇天烈な名所(迷所?)ではあった。
加えてイタリアの旅は『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』(塩野七生 新潮社1970年)でのチェーザレの没落の逃避行をなぞるのも、もう一つの目的であった。
https://www.youtube.com/watch?v=-kWeuu0gdjA
Borromeo Palace on Isola Bella,Lake Maggiore
YouTubeより(後半5:20以降をどうぞ)
7/july 五月蝿いほどの空
深い木立に覆われた中世風の建物、朝食をとるテラスの木洩れ陽の直射は矢張り、汗ばむ程だ。
蜥蜴が食卓にパンくずを漁りにくる。カプチーノが4杯も取れるほどのポットが深い翳を落としている。
満腹になったら、新ためてのMaggioreとのご対面だ。
遊覧船は、既に湖の中程に階段状に植栽が美しい小さな艀を捉えていた。
艀を降りると、グリーンの芝生の整ったイングリッシュ風の庭園に出た。
(あれっ?)とも思ったのだが、直ぐに純白の孔雀に目を奪われながら中に入れば、普通のロココ趣味の回廊。調度も当時楽しまれたのか操り人形が妙にインディアやタイランド的に映ってしまって、気持ちが行かない。
実は、此処(Isola Bella)こそ幻想・奇怪好みの仏文学者 澁澤龍彦が本で紹介していた場所だったのだ。
勇んだ気持ちも萎えて(帰りの?)遊覧船に乗り込めば、遠目だが青い空にピョンピョンと跳ねて踊っているかのような尖頭の群を持つPalazzoらしき島が見える。
船は恰もサプライズを仕掛けるかのように、その島の艀に横付けしたのだ。
(ワォ、これだよ!澁澤龍彦、ゼッタイ汚名挽回!)
室内は(一部珊瑚など使ってマニエリスム感出してはいるけど)ソコソコに、地下に続く厩こそ、”グロテスク”語源のgrottaのはず。
ん〜んぁ、床・壁・天井全て、黒白の珊瑚が貼り尽くされ、螺旋階段も不気味に美しい。余程当時の人々に、このgrotta(元々、洞窟の意)気味悪がられていたのか。
(馬もどんな気分だったか?こんな孤島に何故、馬?)
薄暗いスロープから解放され明るい庭園に出るや、先ほど遊覧船から見たオベリスクやらユニコーンやらエンジェルやらのスタチュー群の五月蝿いほどの空が待っているのだ。
楽園を夢見て・・・(とかく金力や権威の誇示とか言われるけど、どんな気持ちでヒトはこういうモノを創ろうとするんだろう)
8/july アルプス越え
Lago Maggioreに限らず、この辺りは既にアルプスの中腹で、河が膨らんだような蛇のように細長くうねった湖が多い。
Pallanzaのフェリー乗船場からも、Locarno行きのフェリーはすぐに見つかる。
そこはもうスイスだ。
そして真っ直ぐ北に上がれば、Pamukkaleで同宿したEugenの住む街のあるBodensee(湖)なのだ。
夏とは云えフェリーの甲板上の風は冷たい。トルコで買ったベスト型の毛皮が役に立っている。
再び時計を時差に合わせて遅らせる。
船の上で簡単なパスポート確認、多少の両替(スイスフランCHF)をする。
大きく蛇行した湖の先にあるスイスは、まだ見えていない。
フェリーから列車に乗り換え、いよいよの(ヨーロッパはここで北と南が劇的に切り替わるようなイメージはないか)アルプス越えは、列車と車の道が互いに心細さを紛らすように付かず離れず、河と道連れであるかのように登って行く。
時に車も列車もそれぞれのトンネルへ消えては現れ、隠れては別れ、互いにどんなに息切れしようとも、結局また渓谷で落ち合うのだ。
なぜなら渓谷が、余りに美し過ぎるから・・・。
最後の峰に、覚悟を決めた列車は10分程のなが〜いトンネルへ、と見れば逆方向の線路上には、貨車の上にそのまま何台もの車が積まれた列車が走っている。
(そう、車でのアルプス越えはシンドイのだろう、あるいは時間短縮のためなんだろうか、貨車上の車の中にそのまま乗り込んでいる人たちも居て、この南・北欧州の早変わり場面転換も目撃してしまおうという魂胆か)
コラム_59 Youth Hostelについて
ヨーロッパに入り俄然Youth Hostelへの俺の評価値がウナギのぼりだ。
Venezia然り、ここKonstanzも最高のロケーションだ。
VeneziaはCanal Grandeの水しぶきを目前にできる場であったし、ここはキャンプ場にもなっている大きな公園の一画でもあり、Bodenseeを見晴らす大きなクリアガラスが見事で、とても清潔でもある。
Youth発祥はドイツらしく、訪れる人も、男女・カップル・家族連れ問わず、何か溌剌と若々しくも感ぜられる。
それぞれの旅の仕方の心積もりがシッカリ感じられ、諛うそぶりなど微塵もないのだ。
internationalのY.H.会員証も日本から用意しては来たが、要求もされない。
何と言っても(過去の話だとは思うが)不味い食事提供やペアレントとの交流強要など(日本だけだったのか?)、皆無である。
国民性やら旅人それぞれの価値観にも寄るのだろうが、Youthがある街なら大いに利用しよう。
街の中でHotel探しに、高いの、安いので右往左往するバックパッカーの毎日の苦心が、虚しく思える程である。
(ところでYouth Hostelってまだあるの?)
コラム_60 (Yugo)| Itary Map_5
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