昭和的実録 海外ひとり旅日記 予測不能にも程がある トルコ編 11
日記_013 永劫の地のさがし方
23/apr 1978 パムッカレ 1
Pamukkaleはファンタスティックな光景をわれわれに示している。
本来なら洞にあるべき石筍や鍾乳石が、段々畑状になって崖肌を空に突き上
げている。
しかも最上部から炭酸カルシュウム温泉が掛け流し状態だから、段々畑がプール状となっている所にはお誂え向きの温泉(だいぶヌルい)が溜まっているという訳だ。
今日の宿をこの乳白色の華段丘の麓に見つけた。
(崖上に高級ホテルらしきはあった)
この段丘はペンションのトイレの正面に位置しているのでうっとりゆったり見ることもでき、目を転じ乳白色の小便器をつたうアンモニアと重ならないわけでもないなどと在らぬ妄想に耽っていると、足元が生ぬるい。
覗き込むと小便器のパイプは連結されておらず、俺の靴を濡らしていた。
同宿は優しそうなスイス人、東南アジアに興味を持った会計士とのこと。
アジアの話(彼の方が詳しいし、親身なのだ)を色々してくれた。国で金を稼いでは旅をして周っているようだ。
スイスという国は素晴らしいが、人は嫌いと言っていた。これから地中海沿岸の国々を旅すると言ったら、”トルコのワインはGood , イタリアはSplendid , フランスに入ればFantastic!”(ここでも俺は下戸)の言葉が印象的だった。サッカーのコーチ資格も持っていると。
(後でスイスも寄り道して、立ち寄らしてもらおう)
24/apr パムッカレ 2
翌朝ペンションを出て坂を登ると丘の上に出る。どうやらここがパムッカレの中心施設らしく、多少のリゾート設えになっているようだ。
自然の池を改良したような50M四方はありそうなプール状に、水泳パンツを履いて勝手に浸かる。ヌルくて、だから肌寒い。しかし外部だし広々としてプールに入っている人は数人しかいないから、気分は最高。
水は澄んでいるが黒いゴミ状のものが彷徨っている。
身体中コソばゆい感じもする。
(ゲッ!ヒルっ!)ではなく、日本でも一時流行ったドクターフィッシュのようであった。
(そう言えばドイツなどは温泉治療が盛んなど聞いたことがある、トルコも医療利用などで有名なのかも知れない)
シャワーだけの日々だし垢も溜まっているだろう、
頑張ってくれ!ドクターフィッシュ。
おお、寒。(本当にドクターフィッシュか定かではない)
(当てずっぽうの旅なので、正確で詳細な情報など何もない)
Denizriへのヒッチの車に、突然スズメの大群。一匹がフロントウィンドにぶつかり落ちる。車を止め、戻ろうとするといち早くツバメ様の鳥がかっさらっていった。
ドライバーと顔を見合わせ、お互い思わず笑う。
ここからは本格的恐怖のバス5時間ツアー。
只々無毛の岩山が続く、一度だけの休憩を挟み、突っ走ること4時間半。300km。意外と早く着いた。
イスタンブールからは1700km、延べにして2000km(15日間)は来たか。それでもトルコ全土の1/5か、デカい。
この何十倍も移動(特にバスで)すること思うと、この旅途轍もないか。
(パスポート裁判日を思い起こしてしまった。)
パムッカレから風邪をひいた様だ。(カルシュウム温泉逆効果!)
しかも今日のホテルは薪を節約しやがって、冷たいシャワー。
Antalyaは今ビル建設が盛ん。(理由不明。これからこのエリアもどんどん観光開発されるのだろうか)
何れにせよ南下(ビーチはここからは少し離れているよう)したことは確か。
コラム_18 ルートは当てずっぽう
不思議に思われるかも知れないが、旅のルートはどう決めているのか。
原則行き当たりバッタリ。
だから「行こう」「付いて来な」「あそこはイイぞ」と言われれば「そうだな」と思えば、向かうのは自由。
強いて言えば日本での大使館などで多少集めた広報パンフレットの小さな、小さな写真を弄っては”面白そう””好奇心煽る””この空気感味わいたい”を感じた場所をエイやっでチョイスする当てずっぽうの旅なので、詳細の情報など何もないのだ。
地点が決まれば、Kümmerly+Freyなどのmapと首っききで場所探しから始まり、そのルート検討・交通機関・所要時間想定など、となる訳である。
自分の場合、場所の選択であまり後悔したことはないかな。
他を知らないのだから後悔しようも無いか。
むしろ予想を超えた絶景や感動、時には手に負えないほどのモノ・コトをもたらしてくれたりするものだ。
「予測不能にも程がある」の副題をもつ所以でもあり、旅先でのあらゆる事象には、今までの自分の世界観を転覆させるカルチャーショックに繋がっていっている、と言えそうだ。
25・26・27/apr ガンガン、行くぜ
快晴。朝ハーバーを見下ろす高台のçai eviで手紙を書く。
この空気と海が見える地に浸れる幸せ感と(俺チョット頑張ってるぜ)のご褒美感が心地よい。
遠くにリシア山脈の雪の険しい尾根、断崖の上の白いビル群、その裾を這うようにビーチの白い砂の帯、ちんまりとした港そして再びビーチの帯がこの高台の足元に消えていく、時折このシークエンスの視界を遮るのはeviの前で戯れている子供たち。
(先ほどまで「カンフー、ジャポンジャ」と囃したてながらゾロゾロと数を増して来た子どもたちだ)
実に”絵に描いたよう”とはこんな風景を言うのだろう。
(水彩でものんびりとモノすことができたら、至上の幸福を味わえることだろう)
海に落ち込むというdüdenの滝を目指して歩き出したのだが、ミニビュスの運転手に「上流にもあるから」と教えられ(確かに地図を見ると河口にも上流にも「düden şelalesi」と記名がある)、Uターンして上流を目指す。
大分歩いてクタクタ、風邪も嵩じて熱っぽい。
街の中だというのに大きな公園全体が渓谷といった感じで、その冷気が多少熱っぽさも抑えてくれよう。
滝の高さは無いけれど「裏見の滝」も体験でき、その水量豊富で壮観なこと、しばし時を忘れさせる。
日本なら差し詰め「雷鳴・・の滝」やら命名のあるところだろうが、ここではそんな風流など、あるやなしや。
Kaiseri直行なら・・(19時間っ!うぅ〜ん)。
ならば遠回りだが、海沿いを気ままにCappadociaを目指すことに。
地図を見ればジグザグの海岸線を颯爽としたロードかと思えるのだが、実際は穏やかなおむすび山の稜線に申し訳程度に削り取った一筋の道の右側はかなりの傾斜で、おむすびころりんどころではない一気の海への逆落としとなっているので、流石の暴走バスも時間がかからない訳にはいかないのだ。
しかし大きな岬を抜けると次の街に、という期待感がバスをその先その先へと駆動して行く。
Side、Manavgat、Alanya、Anamurいずれもリゾート地の名に違わぬ美しいkale(城砦)の岬に静かに沈む夕日は筆舌に尽くし難い。
そんな深くなって行く夕闇に、バイクの後ろに俺を乗せてkaleを案内してくれる男がいた。
岬で夕暮れを見とれていた時、(まだ今日の宿も決めていない)彼が煙草を勧めてくれたのだ。
(煙草とçaiはトルコではほんのご挨拶だ)
今このkaleには2つのシルエットしか無い。
「バッグを置いてこっちへ来て。」(えっ、置き引きかっ)
2M程のポッカリと空いたkaleの穴の対角にお互い向き合うと、彼は脇にあった砲丸位の岩を持ち上げた。(わっ、やばい。強盗っ。)
しかし岩は彼の手から離れ、その亀裂の闇の中に消えて言った。
”one , two ,・・・・eleven , twel・・.”
覗き込んだ暗い亀裂の先で白く波頭がたったような気がした。かすかなトッポーンという音も後から追いかけて確かに聞こえた。
「海面まで250Mある。セルジュクトルコが処刑に使ったところさ。」
強張った肩が脱力し大きな溜息がでた。
(ここでナイフでも出されたら、どう対処するかばかり考えていたのだが、結局ホモセクシュアルを好む男だったようだ)
しかし俺にその気がないと察すると、直ぐにバイクの後ろに乗せて彼のオススメのホテル前まで送ってくれたのだ。
バイクの後ろで抱きつくわけにもいかないが、安心したのか夜風がふわっと心地よい。
突然エンジンが止まる、(ウグッ!)息を呑んだが下り坂に差しかかった(エコ運転?)だけであった。
(ふう、おそらく紳士的なヤツなのに、とてもスマない気がする)
Anamurの到着も遅くなってしまった。
ミニビュスを降り、遠ざかるテールランプが向こうの角に見送るように消えて行くと、闇が訪れた。
瞬間合点がいかなかった。いつもの闇とは違うのだ。暗いのだ。暗い、そう暗黒なのだ。
3時間ミニビュスの中だったので、眼が明順応しないのか。
瞬間待ったが、遥か遠くの街(降りる時街までは2kmあると聞いていた)の小さな灯以外、周囲に光をもたらすモノが存在しないのだ。
これこそが漆黒と言うのか。
(日本にいる時に自分の翳した手が見えないなんて暗さを経験することなんてあり得ない)
その場にへたり込み、確か降りる時、右手に石垣状の壁があった記憶を頼りにいざるように弄ってみると、確かに壁がある。
「ワラをも掴む」とはこの事か、何か伝うモノがあればまだしも頼るものがなくなれば、怖くて立っては一歩も動くことなどできないので、匍匐前進するしか術が無いのだ。
2km先の街の明かり目指して・・・。
(半時間は格闘していたように思える)
通りかかった車に拾われたのだ。テールランプに振り返ると、先程の石垣はほんの数十M後ろにあるだけだった。
何か急いている。反省。
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