予測不能にもほどがある 24 旧ユーゴ|イタリア編 (1 昭和的実録 海外ひとり旅日記
日記_026 シアワセの国
26-2/ jun 1978
途中Jimmyの友人のIsmaniと合流し、英語の先生と共に、彼の部屋に入ると楽しい晩餐はパイとアイラン(ヨーグルトに塩を混ぜた飲み物でトルコ発祥)で乾杯となった。
(実はここはJimmyの家ではなく、Ismaniの家であった。これからあちこち引き回されながら有りったけの友人を紹介されたので、誰が誰だか何処が何処だか、混乱してしまったのだ)
しかしお互い旅の疲れか談笑も早々と切上げ、その夜は深く心地良い眠りを取ることができたのだ。
(厚かましや)
コラム_46 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
「ユーゴスラビアなんて国名聴いたことない」なんて言われないために、一言お伝え。
1992年最後のボスニア・ヘルツェゴビナの独立宣言によって、ユーゴスラビアは解体し、その名は消滅することになる。
(この時オシム監督の故郷サラエボも攻撃を受け、抗議してユーゴ代表監督を辞任している。時にJリーグ発足1年前のことである)
訪れる前のユーゴスラビヤに対する知識は、当時ニュースでもよく登場していたチトー大統領の元、社会主義を標榜しながらも自由主義経済化の道を行く穏やかな国という印象を持っていた。
「社会主義国」というのは気になってはいたが、今回の旅でもギリシャ〜イタリアへの通過点としか捉えていなかった。
しかし実際は大違いで、旅の最中は風光明媚で アドリア海の光の恩恵を最も集めている国は(この国ではないか)と思えるほどで、若者たちの溌剌さに心豊かな社会をも感じたものだ。
(宮崎駿の作品群以前のことではあるが、彼が「描こう」と思い立った気持ちと共通していたように思う)
その後のユーゴスラビアの複雑な国情を理解する上で、よく引き合いに出されること
7つの国境
(イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシア、アルバニア)
6つの共和国
(スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニア)
5つの民族
(スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人)
4つの言語
(スロベニア語、セルビア語、クロアチア語、マケドニア語)
3つの宗教
(正教、カトリック、イスラム教)
2つの文字
(ラテン文字、キリル文字)
そして
1つの連邦国家
ということの意味は、当時の俺の頭の中では欠落(聴いたことはあった)していたように思う。
27/jun 全世界で変わらぬモノ
翌朝は朝食をいただき、Ismaniと先生とはここで別れ、Jimmyに付いてPristinaにバスで行く。
何故かフクロウを肩に担いでいる人に巡り合った。フクロウは日光が不快らしく目を閉じているようではあったが、凹面鏡の顔は、奇異なものに出くわしてしまったように、俺に向けられたまま張り付いていた。
いつまでも続くオレンジ瓦と深い緑の補色の繰り返しが、ギリシャからの謂われのない緩んだ気分に、メリハリを取り返してくれるようで小気味好い。
Pristinaは教育の中心地で、明らかに学生が多い。
街の映画館前でJimmyの他の友人のIsuf、Imer、Hedijeに逢い、そのまま掛かっていた「Deep」を観る。
監督はPeter Yates(Dustin HoffmanとMia Farrowの「John and Mary」(1969年)も小粋な映画だった)で、この選択肢が俺をキュンとさせたようだ。
一気に彼らとの距離が縮まった感じがしたのだ。
(そう云えば、俺もみんなもベルボトム(腰はピチピチで裾の広がったボトムファッション)のジーンズじゃん。
若者(俺?)って云うのは、全世界変わらぬ感性を持ってるんだ!)
終わった映画の内容は良く覚えていない。
コラム_47 オレンジ瓦と緑と海と
ユーゴに入った途端、鮮烈に眼に焼き付いたオレンジ瓦。
ああ美し過ぎるこの新緑との補色対比!
(実は、このあとアドリア海に出た時には、今度は海のエメラルドブルーとオレンジ瓦のコントラストの美しさに二度巡る逢えるという、この幸せ)
ユーゴでは法律で”屋根はオレンジ瓦”と決められているのだろうか。
日本人のようには同調性向を好まないヨーロッパで全ての屋根がこの瓦と云うのは驚きの何者でもないだろう。
恐らくは素焼きの瓦であろう、素に近いとは云えこれ程大量の人工物を、自然の中に散りばめようとした先人の空間環境認識力には敬意を評さなければならないだろう。
あるいはこの光ありき、だからこそのハツラツの対比なのだろうか。
緑と海に対抗しながら、決して怯まぬ光の色を探し当て、輝ける
オレンジ瓦に、乾杯!
28/jun 埋めあわせするモノ
朝9:00、ホテルでImerに叩き起こされた。
(眠いっ)
昨日もDomitoryに行けば、みんな総出でサッカーに興じたのだ。
当然俺のサッカーの力量も試され、もちろん結果”見込みなし”の烙印。
それまでヘトヘトになるまで走らされたのだ。
彼らの故郷Deçanに行くと言う。
(付いて行くしかないか)
途中Pečまでの道のりは全くの田園風景、緑の樹々に見え隠れする家々の屋根は何処も彼処も鮮やかなオレンジ色、それをバスの窓ガラスに額を釘付けにし眼に焼き付けようとすれば、既に眠気は吹っ飛んでいた。
バスを乗り換え南に向かえば、彼らの故郷Deçanに降り着く。
渓流に沿って1km程歩く彼ら三人の足取りも、心なしか子どもの頃に戻ったかのように方向の安定しない、落ち着きのない足運びになってはいないか。
渓流の音が険しくなリ始めるところが目的地のようであった。教会のようである。
(教会?うぅん?)
St. Stefan church?(彼らはそう言っていたが、調べて見ると(2024年時)その名は無い。ユーゴ解体後、地名・住居表示から何から、たくさんのコトが変わったのかもしれない)、
彼らが同種の仲間(?)と踏んだ外国人を案内することにした場所としては、かなり予想外であった。
(こんな古めかしそうなところ?もっと違う所、あるだろう!)
外観はピンクの大理石と花崗岩の積層で、ロマネスク様式風の良く有り勝ちな普通の教会であったが、中に入って見上げたドームに、唖然とした。
床との接地面から柱・壁面・天蓋に至るまであらゆる立ち上がりに、ビッシリとしかも厳かにフレスコが描かれていた。
瞬間、人を一気に祈りの世界へ引きずり込もうとする強引な仕掛けのように思え、歴史の堆積も圧倒的過ぎるのか、空気も重い。
しかし何故かJesusや使徒の風貌が本当に優しいのだ。
本来フレスコやイコンは叙事的で教訓的な匂いが濃密なのだが、この数限り無いイコンたちは唯々、我々をその優しさで見つめているだけである。
振り返ると(見せたかったのは、これっ)とでも言うかのように三人の顔が、使徒の見下ろす風貌と一致したように思えたのだ。
四人の男をぎゅう詰めに乗せ、タクシーは途中経由したpečに向かっていた。
俺が(どうしても海岸線でイタリアを目指す)(それならUrçinに出るのが良い)ということで、バスターミナルのあるpečに戻っているのだ。
しかしUrçin行きのバスが出る時刻に比し、タクシーは早く着き過ぎやしなかったか。
タクシー代は勿論俺が払ったが、四人の持て余す時間と埋め合わせし切れない何かの葛藤の内に・・・
・・・そうして別れの時は、やってくる・・・
コラム_48 Yugo|Itary Map_1
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