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[アルゼンチンの歴史より] 移民の時代

アルゼンチンでスペイン語の勉強をしていると「アルゼンチンの歴史や様子」などがテキストになることがある。これがサクッとした情報でまた面白い!。。。のでかる〜く訳してみました。スペイン語勉強中です。間違いはお許しください😊

1880年、アルゼンチンにとって大きな問題の一つは、人口が非常に少ないことだった。土地はほとんど空っぽで、畑や鉄道、道路、港の建設に従事する人は少なかった。そこで、アルゼンチンは移民に門戸を開いたのだ。1880年から1890年にかけて、人口200万人に満たないこの国に100万人の移民が到着し、65万人が移住した。

1895年には、住民の3人に2人が外国人であり、イタリア人、スペイン人のほか、フランス人、ロシア人、シリア人、スイス人、ドイツ人などがいた。移民はあらゆるところからやってきた。通りでは、あらゆる言語が聞こえてきて、ブエノスアイレスはまるで新しいバベルのようだと言う人もいた。

多くの人が田舎に住んだ。彼らは農業を営み、一年中、日の出から日没まで働いていた。父、母、そして子供たち、家族全員が労働に参加した。彼らは、多くの犠牲を払って一攫千金を狙う、「アメリカのようになること」を目指したのである。豊作で、ヨーロッパでの価格が良ければ、利益は非常に高くなる。そうでなければ、すべてが失われる。


移民の多くは、労働力が必要な都市、特にブエノスアイレスとロサリオに集まった。 彼らは、食肉工場、港湾建設、議会、郵便局、裕福な家庭の家などの大きな建物の建設、鉄道の建設、あるいはセールスマンや工場労働者として仕事を見つけた。

一般的には、彼らは港の近くに一緒に住んでいた。ラ・ボカ地区では、ほとんど全員がジェノヴァ人であった。多くは、中庭に面した部屋がたくさんある古い家に部屋を借りた。これは長屋のような感じの住居で、今も残っている。また、洪水があるため、亜鉛や木で高床式の家を建て、船の塗料の残りを家に塗った者もいた。ジェノバと同じように、窓から窓へ向かっておしゃべりをするなど、多くの習慣が残っていた。

しかし、生活は決して楽ではなかった。高い家賃を払い、安定した仕事もなく、お金もあまり稼げなかった。生活環境も悪く、健康上の問題も多い。しかし、少しずつ順応し、助け合うグループを作り、孤独を感じなくなり、強くなっていったのである。

「アルゼンチンの歴史」 Quirquinchoの書籍より



<スペイン語原版>



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