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現在の価値観で、過去を批判できるのか?


東京大学出身の大学教授様(小野寺拓哉氏/東京外国語大学教授)のTweetで少し違和感を感じて、ちょっと反論ごかしを書いてみる。
どう思うのかは皆さんにお任せする。

Takuya ONODERA@takuya1975
10年くらい大学教員やってて思うことですが、「当時の人は当時の人なりに一生懸命生きていた」「みんな自分なりの正義があった」「批判は良くない」といったような学生の間での雰囲気が、年を追うごとにどんどん強まっているのを感じます。
午前2:24 2020年6月19日·Twitter Web App

Takuya ONODERA@takuya1975
俗流「今の価値観で当時の価値観を批判するのはおかしい」も浸透しつつありますね。「今の価値観」が単数形で語れないように、「当時の価値観」だって単数形で語れないというところに気づいてもらえるまで持って行ければいいのですが、そういう俗流の価値観で固まってしまっている人はなかなか・・・。
引用ツイート
午前2:29 2020年6月19日·Twitter Web App


まず、【学生の間での雰囲気が、年を追うごとにどんどん強まっているのを感じます。】というのは、統計として自分の教える学生にアンケートを採ったデータを載せているわけでもない。この人物の主観という思い込みに過ぎないし、【批判は良くない】というのが全ての学生の共通し体験でもないだろう。
単なる、上辺ッ面の【感想】に過ぎない。
正直、学者・研究者であるほうがむしろ問題で、この人物が、東京大学出身の【ジェンダー学派】の方だから、想起するのは【不都合な史料は見せないと言い放ったという】上野千鶴子女史であり完全な【慰安婦問題】など【史料】を完全無視した【責任押しつけ論者】の系譜を引いて居られると考えられる。

そもそも【価値観】を【差別】とか【人権】又は【善悪】という【倫理観】という【尺度】に限定している所に問題がある。
100年もの前の事例を、現代でも【解消されていない】という【差別】に対して、それを【善悪】で問うというような【尺度】のみで理解することが出来るのかと言う事である。当時の【酷い有様】を【克服】する為に、現在に生かすことは必要であることは【人道】としても重要なことには間違いがない。
ただ、何もかも【平等】というのは【矛盾】になるので、あり得ない。
例えば、【経済面】や【能力面】などで、中・高・大学で野球をクラブ活動でやっていた方が、アメリカのプロリーグのダルビッシュ選手、大谷昇平選手、田中将大選手と同様の給料でもって雇ってくれ等といってもどの球団も相手にしてくれないし、【差別だ】と叫んでみても誰もこの人物を可哀相とは想わないだろう。サッカーの女性プロリーグの選手が、男性と同じ給料を呉れないのは【差別だ】と叫んだことがありましたが、実際にはリーグの収入という経済的な面で不可能であろう。
【能力】【経済】という【尺度】で測れば、【違い】があるのは、【平等】且つ【公平】な事にもなる。【尺度】が変われば【平等】も変化してしまう。

実際に、100%水平・平面な差別のない【人間社会】というのは、スローガンとしては素晴らしいが、現実にはあり得ない。

【差別】がそこら辺に【存在】し、【尺度】が変われば【公平】になるという現実に向き合わないというのは、自分自身が【無意識】に【差別していることに気が付かない】と言うことに尽きる。
【アカデミー】という【権威】【社会的立場】【職業】を利用して、【市井】の一般人を【無意識】又は【意識】して【差別】している疑いがある。
例えば、Tweetには、【そういう俗流の価値観で固まってしまっている人はなかなか…。】とかかれていて、【俗流(低俗な考え方をする連中/goo辞書)】という風に【見下げている】という【差別意識】を表する用語を使っている。
【性差別】や【民族・人種差別】は、【断罪】しているが、【権威】又は【職業】、【能力】による【差別】は【許容】されているわけである。
又、【俗流】とレッテルを貼った【考え方】の方が、極めて常識的な【思考】によるものだとしても、【俗流】として【許容】する訳でもなく【不寛容】な態度を提示されている。

【社会的公平】を求めている方が実は非常に【不寛容】ともいえる。これを【差別】と言えることも可能である。

社会的に、一般的にいって、東京大学出身で且つ大学教授という肩書きを持つ人物の【言及】と当方のような【何処の馬の骨】とも判らないような実名も明かしていない人物の【言及】を比較して、【内容】よりも、その【権威・肩書き】に【信用】を於く方も多いのではないかと思うが、これも立派な【差別】なのである。
【差別】と【区別】は紙一重であり、使いようによって変わるというのは言語道断であると考えるが実際にはそう言った【差別】は罷り通る。こういったアカデミーの方達は無頓着で、【俗流】などとレッテルを貼りつけて実質的に【差別意識】を吐露するのである。
そういう【おまいう】という状況で言っているのかと云うことを考えれば、相当矛盾した発言だとわかるのではなかろうか。

この人物は、ジェンダーが御専門のようで、【史観】の【尺度】にしてるが、それだけで当時の【世相・情勢・状況】を判断できるかといえるかといえば出来る訳がない。一つの見方からの【仮説】又は【学説】であって、【当時を理解できる訳】ではない。
ジェンダーそのものが、1950年代以降に芽吹いた【思想】からの学問領域であるから、その【単一尺度】のみで昔を見ても何の意味もないし、【歴史学】として、【当時を理解するという目的】とは違うのではないかと考える。
歴史学【当時を理解する】と言うことと、ある種の【思想】から見た【歴史】への【断罪行為】が目的の【研究】とは全く違う目的の学問だと考える。
戦後レジームの【戦争責任論】と同じく、【断罪思想】という【マルクス史観】の亜流と言っても過言ではないかと考える。
ナチスが復活することを恐れて居られるようだが、そもそも日本国の話でもない。
ナチスの体制の本質を見る時、当時に存在した体制の中で、ソビエト連邦(現在ロシア)や中国共産党、新しくは北朝鮮人民共和国、ベトナム社会主義共和国という共産主義・社会主義体制を見ても、完全に【軍事体制国家】であり、【自衛】を建前にした【軍事拡張主義】である。
ドイツのナチスの政治体制は【社会主義体制】であり、本来【同類】で【自衛】を元にした【軍事拡張主義国家体制】に変わりはない。
ソ連が、1939年にポーランドをナチス・ドイツと協同で、侵略したことは間違いなく、【軍事侵略国家体制】であるという理解を忘れてはならないし、その後、敵対することになった、ナチス・ドイツに対する対ファシスト宣言を打ち上げたのは、自分の【行為を隠蔽】ということに外ならないし、本質として【敵】と【味方】という【区分】に過ぎない。【目糞】対【鼻糞】の争いと同じなのである。
ファシスト=共産主義体制という本質は変わらないし、日本も軍国主義とかファシズムと呼ばれたが、1937年の支那事変が始まった当時の内閣総理大臣であった近衛文麿のブレーン達は共産主義者達(尾崎秀実・風見章など)であったし、軍部の中心派閥となりその後日本の統治を担う事になる【統制派の軍人達】も【共産主義・社会主義】という【体制】を真似た【社会・経済体制】を目指して当時の国際情勢を乗りきろうとした。米国も2000年以降NSA(国家安全保障局)の極秘文書の公開により、ルーズヴェルト大統領及びホワイトハウスが、ソビエトの共産主義スパイに塗れていたことが判りだしていて、民主主義・資本主義国家に【共産主義・社会主義者】の【影響】が蔓延していたという、一体何が【原因】なのかが明らかにされつつある。
【善悪】という【倫理観】からみれば、【ソ連】や【共産主義・社会主義者】たちが【大戦争】をおこすように仕向けたことは間違いなく、多くの人々の命と財産を奪った【悪の根源】は【ソ連】やそれに協力した【共産主義・社会主義者】という単純思考に陥るが、それでは戦後のレジームの中で【戦争責任】や【日本軍国主義=悪】と決めつけてきた東京大学を含めるアカデミーの名だたる教授・研究者陣と変わりがない。
本質的に【共産主義体制】が、ファシストであることが判かれば、現在の中国共産党や北朝鮮人民共和国、ベトナム社会主義共和国、キューバ社会主義共和国などの国と付き合うのはどうか、彼らの体制維持を容認することは【善悪】という【倫理観】として良いことなのかと言う事が、こういった【倫理観】をふりかざすアカデミーの教授や研究者から一度も聞かれたことがない。彼らの中では、共産主義体制とファシズム体制は別になっている。そこが【本質】として見誤っているから現在の近代史への歴史理解に矛盾が生じてしまうのである。日本の【歴史学】に於ける【大学(アカデミー)】の非常に問題点である

当時を知ると言うことは、【本質】という面が重要となる。それはファシズムとかナチス、そして日本の軍事体制が一体どういうものだったか。共産主義・社会主義とはどういうものだったのかが理解出来ないようでは、当時の【状況】を教えることはとてもじゃないが出来ないと考える。
そこで、ファシズムがナチスの復活が等と言った所で、本質的な原因解明と現代に於ける防禦が出来る訳ではなく、頓珍漢な分析は、現在の社会の分断、秩序への破壊を煽っているだけに過ぎない。
ファシストや軍国主義と言うのは、共産主義・社会主義者が自分の対立者へレッテルを貼りつけて【敵】にする行為に過ぎないし、実際には同類であるというのが本質だと考える。
これは、現在でも似たようなことが行われていて、【歴史修正主義】だとか【ネトウヨ】だとかといったレッテルを貼りつけて【敵】に見せかける行為と同じである。
そして、【本質的な理解】が成されないまま、価値観を【倫理】という【善悪】で語ってしまうと、2020年に米国のミネアポリスで【偽札詐欺】の被疑者である【アフリカ系アメリカ人】を警察官が死ぬ可能性がある拘束方法で拘束し、最中に【殺害】したことに端を発する暴動で、何故かコロンブスや植民地の支持した過去に米国で偉人とされた人物などの像への破壊などを行われたりするようなことになるわけである。
歴史的な経緯は替えられないし、撤去は大学や施設の管理者の権限であり、勝手に破壊などする行為は犯罪であることを忘れている。何をしても良い訳ではない。

それにこの人物は、【「当時の価値観」だって単数形で語れない】と自分で言っているのだから、【ジェンダー】による【尺度】からだけで、【過去】を【断罪】出来ないのは当然の事であり、自分の言及していることで自身の論理が破綻している。そもそも、当時を【ジェンダー】や【善悪】という【価値観】だけで測っているのは、この人物達の方である。
学生達による「当時の人は当時の人なりに一生懸命生きていた」「みんな自分なりの正義があった」「批判は良くない」の方が、より単純な【尺度】だけで測っているわけではない。幅広く知見と【尺度】を持って現在と過去を見ることが必要なのは、【学生達】ではなくむしろこの人物の方ではないかと考える。

【歴史学】を【過去を知る・理解するという目的を持つ学問】とするならば、過去を現在の【一つの価値観(思想)】で【断罪(批判)できるか】というとそれは【お門違い】。こういう学問は聞いたことがないが、名付けるならば【過去糾弾学】という別の【研究】になるだろう。ただ、【共産主義・社会主義】への【糾弾】【反省】と言うことが成されないので、全くの【本質から外れた頓珍漢な糾弾・反省】となるだろう。
【差別】を生み出す行為で、【現在】に於ける状況を【断罪】しても何の意味もなく、【差別】されているという【局面】に立たない【教育】がより【効果】があると考える。【差別】は異なるものに対する反射反応でもあるからである。
【差別】はあるものという【現実】と向き合うことと、【要らざる対立】を生み出さないことも【必要】であろうし、その上での【防止教育】を研究すべきではないだろうか。
過去の日本国のように西欧列強から【馬鹿にされ】【差別されてきた】中で、【馬鹿にされないような】【手法】を見つけてきたことも一つの参考になるとは考える。
【忍耐】も相手への【理解】する為にも一定期間必要なのである。

これが日本の最高学府の出身者で、現在東京外国語大学で現在教鞭を執って居られるというので、【実力】と言うよりも【東京大学出身という権威】【学閥(誰それの研究室出身、誰それの師弟関係)】で現在の地位に居られるのではないかと疑ってしまう。
このような【本質】を見極められない人物に教えられる学生がとても可哀相である。


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