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第二次世界大戦への流れ「日中戦争」 ー中学生向けの日中戦争の流れー


中学生の皆さん、
南出塾 minamideさん、
こんにちは。

ふと目にしたもので、当方も歴史の授業に参加してみようと思いました。
第二次世界大戦への流れは、非常にややこしいと思う中学生は多いと思います。ややこしいのは当然です。本当に複雑怪奇で様座な事が起こった状況ですから。

ですが、中学生が【学ぶ】際、参考にできるように、そのあたりをまとめてみたいと思います。
是非、南出塾さんも【教養】として読んでみてください。

《日中戦争(支那事変)と第二次世界大戦は別の戦争》

まず、1939年に始まった第二次世界大戦は、その前の日中戦争とは別の戦争だ、と覚えて下さい。

1937年:日中戦争(支那事変)始まる
1939年:第二次世界大戦始まる

覚え方「いくさ(193)苦しい(9)第2次大戦」、つまり1939年。

※「いくさ」とは戦争のことです。
※1939年に生まれた人は、2020年に81歳になる人です。
※支那事変の始まった1937年8月で、参戦した将校・兵士は20代から30代ですので、存命で100歳を超えて居られる人達です。

教科書にもよるんですが、「第二次世界大戦」という章でいっぺんに日中戦争も書いてあると、日中戦争(支那事変)と第二次世界大戦の違いがわかりにくいことがあるので、まずこれを覚えて下さい。
そんな事ぐらい知ってるよという人は、無視して下さいね。


《日中戦争(支那事変)までの流れ》

1925:治安維持法、普通選挙法
1928:張作霖爆殺事件
1931:満州事変勃発。僅かな兵で満洲エリアを占拠・制圧。
1932:満州国建国、五.一五事件
1933:日本が国際連盟を脱退
1936:二・二六事件(皇道派がとばっちりを食って共産主義傾倒の統制派に主導権を奪われる)
1937:北京近くの盧溝橋事件以降、日本側の様々な和平工作を無視するような軍事的事件を起こし、7月に上海の日本国の租借地(正式に借りた土地)を守備する陸戦隊の10倍もの3万近い軍勢で囲み、1937年8月14日に日中戦争(支那事変)が始まる。

これを見ただけでもうイヤだ、という人もいると思いますが、もうちょっとがんばりましょう。
要するに、大家が突然出て行けと難癖をつけて断ったら大勢の893をつれて暴行を加えてきたと言う事なのですな。それをそんな勝手なと店子がおこってやり返したら、何故か町内が店子の方を悪いと言いだしたのですな。
そんな感じです。
まぁ、ナントカ事件とかナントカ事変でごちゃごちゃになる、という人は特にがんばりましょう。


①張作霖爆殺事件

張作霖(ちょうさくりん)は、当時の満州の有力者です。しかし、満州鉄道等の借地の問題は、中華民国政府(蒋介石が代表)と交渉していました。
関東軍の極一部の将校が「張作霖は勝手に徴兵と徴発を行い軍隊を南下させて、中華民国政府(蒋介石側)と戦争をし、満洲エリアの治安と経済を破綻させた上、当時抗日を掲げだした中華民国側に掌を返したことは、満州国の治安と経済発展と満州国にいた日本人・朝鮮人を守るべきだと」と考えて日本国や日本軍の中央部とは関係なく独断で爆殺しました。
これにより、この時の内閣の田中義一首相などの「協調外交(中国と戦争せずに話し合いでなんとかしようとしていた)」が機能しなくなったことは確かです。この件で田中義一内閣は解散します。
※関東軍…当時、中国にいた日本軍の出先機関。

②日本は満州国を中国大陸に作った

柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)…南満洲鉄道の線路が爆破された事件。
この事件が起きたとき、日本は「中国がやったのだ」と言ましたが、実は自分(日本・関東軍の極一部の人達)がやっていました。これが判明したのは戦後に主導者の証言によるものでした。
当初、日本国は、満洲占拠後、国家として満州国を承認することも関東軍の一部のやった事を、全く認めていませんでした。当時の日本国の首相は若槻禮次郎総理で、立憲民政党の党首で軍人出身ではありませんでした。満洲事変の際、満洲エリアを実質的に支配・統治していたのは、張作霖の息子の張学良という人でしたが、10数万にも上る軍隊を持ちながら、日本軍と戦いませんでした。そして中華民国や国際社会に訴えたのですが、当時の国際社会は【自力救済(自分で何とかしなければならない)】でしたので、この原則を行わなかった張学良は【不戦将軍】と呼ばれて【馬鹿にされる】事になり、その後失意で【麻薬】に溺れてしまうと言う事を行っています。
満洲事変を引き起こした背景の一つに、若槻内閣の大蔵大臣の井上準之助が、アメリカから端を発した世界恐慌への対応を誤って、金本位体制への復帰とデフレーション政策を行い日本も【昭和恐慌】といわれる【大不況】を惹き起こしてしまいました。
その為、どうしても経済の復興を優先する為に、満州エリアの秩序の安定と・経済発展が必要だったので、そもそも国でもないエリアを国として貿易と資源の確保を行わずにはいられなかったのです。
*ちょっと中学生諸君には難しいかな。もう少しガンバって。


③日本が国際連盟を脱退した

満州事変…柳条湖事件から始まる、日本の満洲への国際社会の対応は、当時国際社会と言えば国際連盟と加盟していない米国で、ソ連は出来たばかりで、他のエリアの国々は国として存在もしていません。国際連盟はイギリス・フランスを含めて、日本などの大国の協調で秩序と経済の安定を図るシステムでしたので、その大国の一角である日本が惹き起こした問題を処理することは出来ませんでしたので、国際連盟の主導国側としては出て言って貰うことを考えたのです。そこでリットン調査団を派遣して、日本側の追放という形で問題を無かったことにしようとしたのです。日本側も三国干渉以来あまり友好とは言えなかったイギリスでしたので国際連盟を離脱することを決定しました。
この時の中国政府とは、中華民国政府(南京政府)でしたが、「満州事変は、日本の武力侵略である。満州国なんて認められない」と、国際連盟にうったえましたが、【自力救済】が当時の国際社会の共通認識なので、相手にされませんでした。
当時、【戦争の違法化】としてロカルノ条約(1925年)、不戦条約(1928年)がありましたが、【自衛することは禁止する訳ではない】【植民地などでの治安への破壊行動や経済封鎖などの経済妨害が行われた際、自衛することが出来る】という【共通認識】でした。
張作霖爆殺事件以降、張学良と蒋介石の中華民国側は手を組み、又共産主義者も手を組んで、満州鉄道エリアなどで、【抗日運動】と称して、日本企業との取引を行う支那人商人に対する【高額な税】を課したり、暗殺や暴行、店への破壊活動を行っていましたので、日本側が【ちゃんと国際社会】に【訴えておけば(宣伝しておけば)】、満洲事変が【武力侵略】などと呼ばれることもなかった訳です。当時の日本人の民族性でもある【宣伝ベタ(だまっていても正しい事は理解されるだろう)】、日本国政府の【世界宣伝】を余りにも【軽視】するという【無政策】で【国際社会】に理解が得られなかったのが実情です。
当時の実情としては、【自衛行動】というのが【日本国】としての【正当】な言い分です。ですので、満洲エリアは、事後、治安の回復と経済発展が進み僅かな期間ですが、大いに繁栄します。当時の東北や北海道の方が開発は遅れたようです。

④二.二六事件とは何か

これは、ものすごく簡単に言うと
「陸軍の頓珍漢な情報に煽られた青年将校たちが反乱を起こし、日本の経済・発展を回復させようとした要人たちを暗殺してしまった」
というものです。
※要人=重要な職務に就く人・政策に影響を持つ人
この反乱は、一応、天皇陛下のお怒りの一言で、軍部が渋々動き鎮圧されました。当時の犯行を行った者への同情世論が多数あったことは一応述べておきます。
※鎮圧=おさえること
実は、もう少し難しいのですが、当時日本軍には、【皇統派】と【統制派】の大まかには二つのグループに別れていて、皇統派はソ連という共産主義国家体制の国に敵対し、兵器は出来るだけ最新設備に替えていき、旧来のものを破棄するということで、英・米との協調し【軍事縮小】を掲げるグループです。【統制派】は全てではないにしても海軍と似た考えで、米国・イギリスなどの資本主義社会を【敵】とする考え方の人達で、【親ソ連派】の人々つまり、共産主義ではないが共産主義を受容できる社会主義的な考えを持つグループです。当時の日本の大学などは、共産主義の考え方が主流であり、前にも書きましたが【大不況】を作り出した資本主義に対する反対論が主流と成っていた時代です。
2.26事件は、青年将校の中に【皇統派】の人物がいた事で、日本の政治や【軍隊】の中から、【皇統派】がのけ者にされてしまうという事件だったのです。
その後、日本の軍部は反英・反米がより強化されていくことになります。


⑤日中戦争(支那事変)の始まり

盧溝橋事件というのが日中戦争のきっかけの一つに過ぎません。後述しますが、日中戦争の大きな原因は【西安事件】による【統一抗日戦線】が主とした原因です。
盧溝橋事件…中国の盧溝橋(ろこうきょう)で起きた、日本軍と中国軍の武力衝突。当時の蘆溝橋という場所の近くに日本軍が居て軍事訓練を行っていたかというと、北清事変という義和団という清国の地方の宗教及び村の団体が、清国の圧政に耐えかねて暴動を起こし、自分達に向かってくる武装した手段を恐れた清国が【目】を背けさせる為、【敵は本能寺にあり】という風に、【西欧列強と日本】に【宣戦布告】したという事件で、簡単に負けて【清国】が亡ぶきっかけになった事件です。この際、現在の北京近辺の治安維持を名目に日本軍が滞在する権利と軍事訓練を行うことが出来る権利を清国側と結んだのです。

【その頃の中国の状況】

その頃の中国について、教科書とは少し違うことも含めて説明しておきます。
その頃、中国では
中華民国国民党政府(蒋介石国民党) 対 中国共産党 対 地方軍閥という混乱状態で内戦をしていました。
※内戦とは同じ国民どうしで、国の中でする戦争と国が定まってない状態での戦いです。

●中華民国国民党政府…蒋介石が、袁世凱→孫文から引き継いだ南京に作った軍国主義政府(ファシスト政権)。別に蒋介石は民主主義の選挙で選ばれた人物ではありません。
●軍閥…清国が崩壊した後、各地の有力な漢人(中国人)が軍事力を背景にした地域を支配していた事実上の地方での政府
●中国共産党…それより以前、李漢俊、陳独秀、李大釗が、日本の帝国大学などから学んだり、ソ連のコミンテルン(外国向けのスパイ組織)主導で作られた党です。毛沢東はその頃下っ端です。
※軍閥についてもう少し、清国は満洲人です。清国政府は自分達で税金を集めたり、警察を行わずに、軍隊だけ持ち、政治は行うが、行政は漢人(中国大陸にいる人達)にやらせていたのです。年々変わっていく世界の進化に政治システムが対応できずに、軍隊まで弱ってしまったのです。その半面、漢人達は担当エリアの人々から税金を取り、集めた金で西欧諸国から兵器を購入し強くなっていったのです。中華民国の最初の大統領の袁世凱もそういう漢人の一人で、一応【清国】の軍隊として日本と戦いますが、実際は【私軍】です。

当時の中国共産党と国民党政府と地方軍閥の関係は最悪です。
そもそも中国共産党は労働者の天国の国を造る目的だったのですが、工業がなかった当時の中国に労働者は上海など一部で他のエリアでは認知されず、【地主】を襲うなどして、小作人(殆ど奴隷)を解放するという手法を用いていたカルト集団だったのです。しかし後ろ盾としてソ連という国家がついていました。
ですので、地主など一応資本主義を掲げている蒋介石側、軍閥自体が資本者であるので認める出来る訳でもありませんので、排除していました。
蒋介石が当時日本国のように【選挙】で民主的に選ばれた【議員】でそれから選ばれた【内閣】の総理大臣では全く無く、蒋介石自身が【軍閥】の一人であり、ファシスト(軍国主義者)の独裁者だったのです。ここはポイントですので必ず覚えて置いて下さい。
さて、蒋介石と協同で共産主義と戦っていたはずの満洲を元支配していた軍閥の張学良は、なんと秘書に共産党員がスパイとなって居て、重要情報を取られて、中国共産党の壊滅のチャンスを取り逃してしまします。軍隊の力関係からいって、張学良が共産党にへつらうことはなかったのですが、その後の張学良は中国共産党に賛同しています。後の末路をみると相当頭が悪かったとしか言いようがありません。
その張学良は蒋介石を監禁し、共産党との「連合して抗日すべき」と生命を条件に脅迫したのです。この時、逃げようとした蒋介石は入れ歯を落としてマトモに話せず、嫁の宋美齢を南京から呼び寄せて、交渉に当たらせたのです。その中で、条件として【共産主義】になったとしても【宋家】の財産は守ること。というのが条件だったようですが、対外の政治交渉はその後アメリカに渡ってルーズヴェルト夫人に犬のようについてまわって活躍する宋美齢とその兄の宋子分や姉の婿の孔祥熙達が行っていたので、蒋介石は【政治・外交交渉】としての【能力】は殆どなかったと考えられ居ます。
この事件は、【西安事件】と呼ばれ、蘆溝橋で端を発する複数の軍事衝突からの上海事変を含む【日中戦争(支那事変)】の重要な【原因】なる事件です。
【抗日民族統一戦線】とよばれ、【日本国・日本軍】が問題だったからではなく、中国共産党による【生き残り作戦】と言われています。その為に何の問題もない日本国と日本国民、中国大陸に住む人々を戦争に巻きこんでいったのです。現在(2020年現在)でも中国共産党の【党としての目的】には【抗日】が掲げられています。
※張学良は、日本軍に爆殺された張作霖の息子です。
※ちょっと難しいかな。眠たくなったかも知れないけれど頑張ろう。


⑤日中戦争(支那事変)

以上のようにして日中戦争は始まりました。
【日本】 対 【蒋介石and共産党and軍閥】
の戦争なので日中戦争(支那事変)と言いますが、戦場は中国大陸ですが、日本側にとって一体誰が本当の敵なのか判らない様な状況でした。
大きく分けて、3つ、北支・中支・南支です。
最初に蘆溝橋という北京の橋の付近で小さな戦闘がありました。当時北京は宋元哲という軍閥が自治政府という国をつくって国民党政府と満洲国の間の緩衝地帯として日本国も認めた形で統治されていました。
この宋元哲と日本側は交渉を行い一端、和解と軍の撤退を決めています。
それを邪魔したのが蒋介石側です。蘆溝橋事件は、7月7日ですが、それ以降も北支を中心に中国軍からの攻撃があり日本軍は被害を受けています。
前に書いた話を思い出して欲しいのですが、国際関係のもめごとは【自力救済】が当時の国際社会の共通認識です。ですから【攻撃】されれば、そして交渉後に中国側が【撤退】しなければ、【軍隊】を増やして【身を守る】事は当然の処置なのです。
ですから、馬村や大紅門などでの中国側からの攻撃を受けて日本側が【北支】へ【派兵】を決定することは止む得ないのです。
当時の内閣総理大臣は近衛文麿という国民人気のあった総理大臣です。そしてこの時期、彼の重要な事を決める場合に相談する人達が実はソ連のスパイに固められていたのが、後のゾルゲ事件(ソ連のスパイ、ゾルゲと朝日新聞記者の尾崎秀実などその他多数です。)という逮捕劇で発覚してます。
近衛文麿は、第二次世界大戦の終盤、近衛上奏文を天皇陛下に提出し、自分はソ連・共産主義者に操られていたと謝罪しています。
戦後の教育での日中戦争(支那事変)では、余り語られないのですが、ソ連の影響下にある中国共産党や日本に潜伏していたスパイなどが、日本国政府や軍部、蒋介石や軍閥などの軍事行動・政策決定に大きな役割を果たしていることはあまり教科書には書かれていません。
日本軍が【計画的】に【目的】を持って、中国大陸で戦闘を行って【侵略した】というのが【教科書】とか【テレビ】などで言われることですが、日本国も日本軍も突発する出来事に想定を越えているのでバタバタ・あたふたしたその場しのぎの対応をしています。
日本軍の行動は【一見「侵略」かのように見えますが】実際の所は、【平和維持活動(PKOみたいなものです)】の一環で、秩序の安定と平和が確実でないので中国大陸に留まっていたというのが事実です。
一方、蒋介石は共産党軍と戦いながら、ナチス・ドイツに軍事支援をうけて、兵器と軍隊の近代化と軍隊の拡張つとめて、軍国主義丸出しで、上海周辺と首都南京にかけての要所を【要塞化】していきます。
当初から、日本と戦うことを想定した軍事拡張を着々と行っていったのです。その頃の日本は、欧米との約束で【軍事縮小】を行っていました(一方の当事者であるソ連の軍事拡大もまた野放しでした。)。ただ、開戦当時はまだまだ攻撃面で軍事的に日本に劣っていたので時期尚早だったのですが、蘆溝橋事件は蒋介石側としても止む得ないバタバタ・あたふたとした事後対応であったという面では日本と同様だったと考えます。喜んだのはソ連と中国共産党ぐらいだったでしょう。
悲惨な通州事件があり、それでも日本国は鈍感で、スパイの影響はあったとは言え、現代でも日本国民を守らないという行為は日本人の民族性かと疑われるのですが、ナチス・ドイツの外交官のトラウトマンに和平交渉をお願いしたり、船津工作と言って別の方面でも和平を日本側は模索していました。
中国側からや西欧列強からは全く和平交渉に関して手をさしのべる国はありませんでした。
余談ですが、2年も前の1935年に出された日本人の共産主義者の本に、近衛首相が総理大臣になることや紛争が起こった後、ナチス・ドイツに和平の仲介を頼むだろうという予測を挙げた人物が居て、中国共産党の情報部門に入っている人物が居ます。そう言った意味では、その通りの動きを日本も中国側もおこなっているという事になります。
話を元に戻して、数々の日本側からの和平が模索される中、8月9日に海軍の大山勇夫海軍大尉、斉藤一等兵殺害されるという事件が起こり、船津工作は破綻してしまい、これで海軍の陸戦隊3000名が上海の日本租界に配備されることになります。
その頃には、陸戦隊の【10倍ぐらいと言われている】中国軍が、日本租界を攻撃する要所に配備されていました。西欧列強も【経済】の問題で、【紛争】について双方に引くように言っていましたが、中国軍側が撤退しない以上は日本軍側が撤退することも出来ず、米・英・仏の世論も【商売敵】の日本より【購買者の中国より】贔屓であったので、日本がどちらかと言うと悪いという印象が蔓延していました。それは、米国の主要な政治部門などに入りこんだソ連のスパイがそいう印象を広めたと言う事が判っています。
不思議と現代(2020年現在)の状況と少し似通った状況です。
北支でも、中国側と結んだ協定ラインを越えて、中国軍が侵入してきたりと、事態は切迫しています。
とうとう、1937年8月13日午後4時に睨み合った双方の陣地からどちらともいわず攻撃が始まりました。これを第二次上海事変とも言います。日本軍は3,000名で、相手は3万人近い兵力で猛攻を仕掛けてきました。
翌日14日、中国軍機が突如現れて、爆弾を各地に落としていきました。当時は中立地帯として隣接したフランスやイギリスの租界地があったのですが、その商業エリアにも爆弾が落ち、西欧の企業の施設や軍艦、欧米人を含め避難していた一般の支那人まで【殺害】されたのです。
海軍は直ぐさま反撃と中立地帯を含めた防衛の為に、上海の敵軍エリアと、中国大陸内にある各都市の軍事飛行場(民間も共同使用)への【空爆】を開始しました。首都【南京】も軍事施設および国民党政府の建物を狙って爆撃を行っています。
日本の増援は、4日後の17日にようやく上陸し、悲惨な戦闘を強いられた陸戦隊は解放されました。
中国軍の当初の目的である上海攻略はこの時点で【失敗】したのです。
実際の戦闘は、和平を望んで、兵力を小出しにする作戦で兵力と陸戦での武器(チェコ製の機関銃)と防衛施設で日本軍は大勢の犠牲を出し、大苦戦をします。それでも航空兵器と重砲(大砲)に勝る日本軍が徐々に戦況を回復し、所々で中国軍を敗退へ追い込んで要所を占拠していきました。
北支に於いても戦闘が各地で行われ一進一退を繰り返しています。
この間に二つの大きな米国の動きがあり、9月14日での米国ルーズヴェルト大統領の日支向けの武器輸送の禁止を声明と、10月5日の米ルーズヴェルト大統領のシカゴでの日本非難演説です。
当時の米国は、ソ連と国交があり、両国の人々が行き交っていたのと、米国政府ホワイトハウスの職員、つまりルーズヴェルト大統領の側近達が【ソ連のスパイ】で固められていたと言うことが判っています。
ここでもソ連は大きな役割を果たしています。
イギリスを初めとする国際連盟も米国も【条約違反】だと日本側だけを一方的に述べていますが、【条約】の内容を見れば、【一方的】な見解であることは一目瞭然です。
10月28日に戦況の転機が訪れます。上海での中国側の重要要塞であった【大場鎮】が陥落します。これで【上海】の【緊急】の【安全】は確保されたことになります。その原因となったのは新たに日本軍の援軍が中国軍の背後を突く動きになったからです。
当時、ナチス・ドイツの軍事顧問団も中国軍を指揮して戦っていたのですが、これを境に南京ヘ戻っています。
これ以降に、日本国としては当時この時点で【軍】を一端【停止】させる意図であったのですが、【現地司令官】の【松井石根大将】はもとより南から上陸した【第10軍】が【敗走する敵軍を壊滅させることと】と【首都南京攻略】を【主張】して、【停止命令】を無視した行動を始め、【南京】へ【敗走する中国軍】を追いかけ出します。
【司令官】の【松井石根大将】は、もともと親中国派の知識人で、中国側に知人・友人も多く、中国の安定と発展を願っている人物で、敵軍の総大将である蒋介石は日本で軍学校に通っている際の【身元引受人】でもあったのです。知らず知らずに、ファシスト蒋介石の育ての親になっていました。
松石根大将は、敵対する蒋介石にしびれをきらして、日中親善には別人を立てた方が良いと考えて、【首都南京】を陥落させて、蒋介石を大将の座から引きずり下ろすことを考えたようです。ただ後に、別人と選んだ中国人は蒋介石の暗殺者によって暗殺されてしまいます。

戦時宣伝(プロパガンダ)

1937年12月13日に、日本軍は中国の首都・南京を占拠し、多くの日本軍・中国軍の犠牲を出しながら、一応目的は果たされました。現代でもその時に日本軍が行ったとされる【南京事件】【南京大虐殺】という【名称・呼称】の話がありますが、実際の所、現在の研究書や研究文献などを見ても【あったことの説明】ができているものはなく、【どういうことがあったかという状況】としても【不明】なだけです。
【名称・呼称】としての【南京事件】【南京大虐殺】が、【何か】すら判っていません。
実は、第一次世界大戦から大きく発展した戦法に【戦時宣伝】という【新聞・ポスター・チラシ(広告散布)】やラジオ、映画、写真、演劇、歌曲をつかった【敵国】を【悪く言う】方法で、敵国にダメージ与える為に使う為の中立国の人々の気持ちを変える方法が活躍しました。
それが【南京攻略戦】でも【城内】にとどまっていた【米国の宣教師】達の一部を中心として行われたのが、【南京事件・南京大虐殺】というものです。
米国の宣教師達が【事実と虚偽】が入り交じった情報をばら撒いて【何が本当か】判らない状況にしてしまったのです。
当時中国軍も広報部隊をつくって、宣教師達の情報を使って、【虚偽】の【写真】などを使って【日本軍】が酷い事を行ったと宣伝しました。
米国でも日本軍が悪いことを行ったとする【映画】が有名な監督の下で制作されて米国各地で放映されて、日本への憎しみを煽ったのです。
※そろそろお判りかと思いますが、ソ連や共産主義の人々の意図通りになって居ます。

戦争で【悪い事】を判断するのは

当時の国際社会が国際関係での約束事をした【国際法】というものですが、結ばれる【約束事】は、一般に【条約】とか【協定】と言われるもので、【不戦条約】とか【梅津・何応欽協定】というものなどもそう言うものです。当時は【戦時国際法】といって一応戦争の決まり事を決めて行われていたのですが、武器などの進化は激しく対応出来ないことも多いもので、未熟なものでした。
その中で【陸戦に関する条約】という【条約】が、国際社会で結ばれて日本も【参加(一部捕虜の保護に関する条約は未批准)】しています。
一応約束事としての【条約】の中に、【陸戦法の規則】で守るべき規則があります。
それに照らしてと言うのですが、【戦場】では、【ジャッジ(判断)】する中立国の人は、居ません。従軍記者という人々も居ますが、当然ながら中立国の人物は居らず味方のみです。
中国側には、欧米のマスコミの人物が居ますが、日本国と言うよりも、敵対している、蒋介石に近い人々、共産主義に近い人々であったので、公平とは呼べるものではありません。事実虚偽も含めたあること無い事という【噂レベル】の悪口を書いています。

※教科書によっては載せてない教科書もあるのは、出版社と執筆者が、この辺の事情に関しての知識に欠けているので、それぞれの【主張】に沿って【書いたり】【書かなかったり】していると言うことです。

この「南京事件」については、【無知識】から来る【色々な想像】する人がいて、なぜか【論争】になっています。

しかし、今回は、中学生にわかりやすく日中戦争(支那事変)の周辺を知ってもらう、というのがテーマなのでとりあえずここでは意味不明なことはしません。
戦争は【悲惨】で【非道】です。現在の2020年でも【宣戦布告】を行っての【戦争】は禁止されていますが、【内戦】と称したり、【紛争】と称したりする【戦争】は行われています。【戦闘】で【殺害】されることも【戦闘】以外で【殺害】されることも【非道さ】には全く変わりがありません。そこに【区別】は存在しません。
※論争 = 意見の違う人が意見を言い合うこと

南京攻略戦では、

【籠城戦】での防衛軍の司令官が、早々に多くの兵士をほったらかしにして、揚子江を渡って逃げ出したことで、中国軍は混乱し、逃走を図る途中の城内で同士討ちを演じたりしました。その犠牲者も日本軍の仕業とされています。
日本軍が南京を占拠し、13日後に占領政策を始めます。日本軍と協力してくれる中国人の組織や個人に行政運営を担って貰うことになります。その間、日本軍は城内で2度にわたり安居証を発行し、人口の把握に努めました。2度の計測で大凡25万人としています。
その後、城外の敵兵の排除や、城内での水道電気などのライフラインの復旧と城外城内に散在した中国兵の遺体の埋葬、生活の為の経済活動、医療などを支援し、公衆トイレの設置など行うことで、首都南京の復興に努めました。
※教科書では、このようなことは掲載されません。何故なら教科書の出版社・執筆者は【日本が悪い】を書かないといけないと思っているからです。

日本軍は、南京陥落後、直ぐに揚子江の対岸に渡りますが、大きな戦闘もなく揚子江対岸近辺で小規模な戦闘や待機を繰り返します。次に来る徐州開戦までは、北支で方面での小競り合いなどを含めても大きな戦闘はありません。南京攻略戦後、一旦、【停止状態】が続くことになります。
その間、トラウトマンの和平交渉は続きますが、翌年1938年1月に近衛文麿総理大臣が突然【蒋介石を交渉の相手と見なさない】と断絶宣言をしてしまいます。
折角の【和平交渉】を破棄してしまいました。その背景には【軍部】が【交渉条件】をさらに優位にしたとかという話もありますが、おそらく近衛総理の周辺にいた【戦争状態を続けることを望んでいたソ連の意図を汲んだスパイ】たちによる助言があったのではないかと疑われます。

では、日中戦争(支那事変)はいつ終わったのでしょうか?

1937年7月から1945年8月まで日本を世界大戦へ巻きこんでいった紛争であり、8年と言うことになります。
つまり、日本は「中国と戦争をやりながら、第二次世界大戦で欧米・ソ連と戦った」ということになります。
しかも中国は、自国の税額を担保にして、米・ソから資金・軍事物資・兵器の支援を受けて、本来中立国が守らねばならないことを中国に支援しました。それは普通に考えればわかるように、日本側は【莫大なお金や労力・人員の消耗】がかかり疲弊してしまいました。
日中戦争が長引くと、1938年に国家総動員法という法律が作られました。確かに国民としては困難であったと思いますが、中国や西欧列強の状況を現代の人間より遙かに現実として知っている人々にとっては止む得ないことで望まないまでも協力は惜しまない状況だったのです。
勿論、共産主義者・アナーキストのように明治以降の日本を破壊し根底から変えたいと願っている人々が一部には居て邪魔や反対したのですが、ほとんどの方が協力したと考えます。
これは、戦争終結のために、国民の持っているもの(お金や労働力)をださねばならない、大変な国家存亡の難局を乗り切るには仕方がないという法律です。
※アナーキスト(無政府主義者)、お金持ちまたは生活の困らないボンボンがかかる病気で、【人は善意で出来ている】であると考えていて【無政府状態】が良いと考える頭のおかしな人達。実際にはほぼ共産主義・社会主義への協賛者が多い夢想家です。

余談ですが

1937年の南京攻略戦後に当時城内に在留していた欧米のマスコミの5人が、3日後日本軍に許可を得て、上海への向かう途中でそれぞの新聞社に電報を打ち報道をしています。これが【南京事件】の最初の【戦時宣伝(虚報)】です。
翌年、驚いたのか、内閣情報部は【第一次世界大戦】の【戦時宣伝】を解説した欧米の書籍を集めたり、軍部は【情報機関】の前進となる【防諜機関(通称:ヤマ機関)】を設立してます。
どちらにしても、バタバタのあたふたした事後対応には変わり有りません。
その年の6月には、ティンパーリーと言う人物が【日本軍の暴行】という内容の書籍をロンドン・中国・印度など様々処で、共産系の出版社を使って出版しました。また、スマイスという当時南京在留していた社会統計学者もまた【戦争被害の報告】として実際は日本軍が加害だけの報告書を発表しています。
日本国・日本軍は、【戦陣訓】などという日本兵をさらに厳しく縛る【訓示集】を出して【兵士教育】を始めたのですが、やることが現代の企業と似てるようです。問題はそこではなかったのです。【内部】の問題ではなく【外部】の問題だったからです。
当時も今も頓珍漢な日本人の思考、民族性です。

◆では、おさらいしましょう。

《日中戦争までの流れ》
1925:治安維持法、普通選挙法
1928:張作霖爆殺事件
1931:柳条湖事件をきっかけとして満州事変が起きる
1932:満州国建国、五.一五事件
1933:日本が国際連盟を脱退
1936:二.二六事件
1937:盧溝橋事件によって日中戦争(支那事変)始まる

◆日本は、さらに別の戦争(第二次世界大戦)にも参戦しますが、それは当方の専門外なので今回はありません。

◆なぜ、教科書や学校の先生が教える内容と違うのかというと、学校教育は政治の影響を受け、教育内容が反映されます。現在(2020年)の日本国は、近隣条項という【不平等条約】を中華人民共和国や大韓民国などと結んでいる為に、他国である隣国の【政治主張】が【反映】されるからです。学校の先生や教科書は本来【事実】と【国家主権】に基づき【国民】の【民意】が反映されるべきですが、隣国の【政治主張】が優先されることで、【事実】ではないことが【教えられる】と言う事になります。ここは入試のテストには出ないのですが、心に留めておいて欲しいのです。【学校】や【先生】が必ずしも【知識】を持っているわけでもないので、【正しい事実】を【正確に表現】して皆さんに伝えることは不可能だと言うことも頭の隅に入れて置いて欲しいです。


【参考文献】

ジョン・アール・ヘインズ、ハーヴェイ・クレア『ヴェノナ』
宮田昌明『満洲事変 「侵略」論を越えて世界的視野から考える』
宮脇淳子『真実の中国史』
別宮暖朗『失敗の中国近代史』
江崎道朗『コミンテルンの謀略と日本の戦い』
江崎道朗『日本は誰と戦ったのか』
江崎道朗『世界が裁く東京裁判』
朝雲新聞社『戦史叢書』
エドガー・スノー『アジアの戦争』
葛西純一編・訳『新資料盧溝橋事件』
服部卓四郎『大東亜戦争全史』
フレデリック・ヴィンセント ウイリアムズ『中国の戦争宣伝の内幕―日中戦争の真実』
上念司『経済で読み解く日本史 大正・昭和時代』
アンヌ・モレリ『戦争プロパガンダ10の法則』
榎本博明『記憶はウソをつく』

【南京事件関連】

ハロルド・J・ティンパーリ『外国人の見た日本軍の暴行』
本多勝一『中国への旅』
本多勝一『南京への道』
秦郁彦『南京事件』
笠原十九司『南京事件』
笠原十九司『南京事件論争史』
南京事件調査研究会 編『南京大虐殺否定論13のウソ』
洞富雄『決定版 南京大虐殺』
清水潔『「南京事件」を調査せよ』
藤原彰『岩波ブックレット 新版 南京大虐殺』
孫宅魏主編『南京大虐殺上・下巻』
吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』
石田勇治『資料ドイツ外交官の見た南京事件』
小野賢二『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
ジョシュア・A・フォーゲル編『歴史学のなかの南京大虐殺』
アイリス・チャン『レイプ・オブ・ザ・南京』
鈴木明『「南京大虐殺』のまぼろし』
鈴木明『新「南京大虐殺』のまぼろし』
阿部輝郎『南京の氷雨』
板倉由明『本当はこうだった南京事件』
偕行社『南京戦史』
偕行社『南京戦史・史料集Ⅰ』
偕行社『南京戦史・史料集Ⅱ』
偕行社『証言による「南京戦史」』
児島襄『東京裁判 下』
松本重治『上海時代(下)』
石川達三『生きている兵隊』
ジョン・ラーベ『南京の真実』
Zhang Kaiyuan『Eyewitnesses to Massacre: American Missionaries Bear Witness to Japanese Atrocities in Nanjing』
冨澤繁信『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』
冨士信夫『私の見た東京裁判 上』
冨士信夫『「南京大虐殺」はこうして作られた』展転社 (1995/05)
松村俊夫『「南京虐殺」への大疑問』
阿羅健一『「南京事件」日本人48人の証言』
田中正明『「南京事件」の総括』
田中正明「ラーベ日記の虚妄 『南京の真実』を駁す」(『機関誌「まほろば」』 第134号 平成10年1月1日)
松尾一郎『プロパガンダ戦「南京事件」―秘録写真で見る「南京大虐殺」の真実』
松尾一郎『中国「反日プロパガンダ」写真のウソを暴く:世界を欺く中国のデマ宣伝 Kindle版』
松尾一郎「「南京事件」を調査せよ」絶版のすすめ(『歴史通』2017年4月号 P.166)
松尾一郎「これが「南京大虐殺」のプロパガンダ写真集だ」(『正論』2018年3月号 P.180)
池田悠『米国人宣教師が創った南京事件 Kindle版』
北村稔『「南京事件」の探究』
日本の前途と歴史教育を考える議員の会『南京事件の実相』
スマイス報告書『War Damage in Nanking Area, Dec.1937 to March 1938,Urban and Rural Surveys』

【国際法関連】

島田征夫『国際法』
藤田久一『戦争犯罪とは何か』
信夫淳平『戦時国際法提要 上』
信夫淳平『上海戦と国際法』
立作太郎『戦時国際法論』
多谷千香子『戦争犯罪と法』

【国立国会図書館アーカイブで閲覧できる書籍】

『暴戻なる支那』
『多端なる支那 : 一九三一年の現状. 第1輯』
『支那事変経過の概要. 特輯 第4号』
『支那の秘密結社と慈善結社』
『怪傑張作霖』
『戦争と宣伝』
『東京裁判判決 : 極東国際軍事裁判所判決文』
『中支を征く』
『支那事変と無敵皇軍』
その他多数。

【史料】
戦闘詳報・戦闘日誌、新聞、報告書など多数。

【関係論文】
冨澤繁信『原典による南京事件の解明』
松村俊夫『アメリカ人の「南京虐殺の目撃証人」は一人もいなかった』
その他多数。

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