本当に『悪は存在しない』のか?

映画『悪は存在しない』を見てきたので、考察を書き残します。
結論を先に書くと、この映画は「悪は存在しない」と銘打ちつつ、そのような安直で陳腐な相対化に警鐘を鳴らす作品だと考えられます。
以下、ネタバレ全開なのでご注意を。


シナリオまとめ

  1. 自然豊かな長野県のとある集落に、グランピング場の建設計画が立ち上がる。企画した会社の社員(高橋と黛)が地元住民向けの説明会を開くが、自然を省みない杜撰な計画ゆえに、住民からは猛反対を受けてしまう。計画を練り直した上で、後日責任者を連れてもう一度説明会を開くということで、その日はおひらきに。

  2. 東京へと帰った社員2人は、事情を説明し社長の同行を求めるものの、「もう一度説得してこい」と送り出されてしまう。

  3. 高橋と黛は地元の便利屋(タクミ)と行動を共にしながら対話を重ねるが、その最中、地元の8歳の女の子(花)が行方不明となってしまう。タクミと共に女の子を捜索する高橋。翌日明け方になって見つかった花は、草原の中心で倒れていた(死亡していた?)。

花ちゃんの死因について

本題へ入る前に、私の主張の前提となる、ラストシーンに関する仮説を述べさせてください。
花は鹿に襲われたのではなく、猟師の誤射により既に死亡しており、ラストシーンの鹿は幻視(または演出)である」とする説です。

まず、画面に写っていたものをそのまま受け取ると、ラストシーンは以下の流れになります。

  1. 前日の鹿猟で撃たれた鹿が、花と共に佇んでいる

  2. 花が鹿に近づこうとするのを、高橋が止めに入ろうと駆け寄る

  3. タクミが高橋を引き止め、首を絞めて意識を落とす

  4. 画面が切り替わると花は倒れており、その鼻孔には血が付着していた。

  5. タクミは花を抱え、その場を去る。高橋が意識を取り戻し、何度か倒れながらタクミを追う。

この解釈には、以下の疑問点があります。

  • 前日に撃たれた鹿、生存しすぎでは

  • タクミが首を絞めた意味が分からない

  • 襲われた直後なのに、花の流血が既に止まっていた

  • 首を絞めている間に、鹿はどこへ行ったのか?(手負いの鹿は逃げられない、という説明が事前にあったにも関わらず)

  • 花があの瞬間まで生きていたのであれば、地元住民による全力の捜索で見つからなかったのはやや不自然(自分を呼ぶ声は恐らく聞こえていたはず)

私の仮説に基づけば、これらの問題は全て解決します。
まず、花はタクミ・高橋・黛が銃声を聞いた際に死亡しました。これが捜索の声に気づけなかった理由です。前日に死亡しているのですから、発見時に流血が止まっていたことも説明がつきます。死亡直後にしては、花の顔は蒼白すぎます。
タクミが高橋の首を絞めたのは、高橋に死体を見せないためのタクミの優しさではないでしょうか。花の死体を抱いて、そそくさとその場を離れたのもこの解釈で説明がつきます。
鹿は深い霧の中での幻視、あるいは花と鹿を誤認した猟師の視点を表現する演出であり、実際には、あの2人が見たのはは、草原の中心でひとり倒れている花だけなのではないのでしょうか(ここの解釈は無理やりすぎるかもしれませんが、逃げられない鹿が消えたことを説明するにはこれしかないと思います)。

また、タクミが銃声を聞いた後に花のことを思い出す、という流れが作中で繰り返されることは、花と銃を結びつける演出と捉えられますし、区長が「草原にひとりで行くのは危ないよ」と花を諭すシーンは、花がひとりの時に草原で危害に遭う伏線とも考えられます。

以上の点から、「花は誤射により死亡した仮説」を提唱します。

悪は存在する

さて、上記の仮説に基づき、この映画の本質は、善悪の過度な相対化への警鐘である、とする本題に入っていきます。
この映画は、前半に「自然を侵略する敵」として高橋が登場し、その後、板挟みに苦しむ中間管理職としての高橋、および自然を愛する高橋が描かれることで、彼への感情移入が促され、高橋は絶対悪ではない、と示されます(悪の相対化)。
他の登場人物についても、悪意があるように描かれる人は一人も居ません。一番悪そうなコンサルですら、「善は急げ!」と叫んでいますから、自分のやっていることは善行だと思っているのでしょう。
しかし、「本当に悪い人なんて居ないんだ。みんな事情があるんだ」と思わされたところで、誤射事件が起こります。
当然ですが、誤射に悪意はありません。事故です。では「猟師にも何か事情があったんだな、花ちゃんが死んだのは仕方ないんだな」で終わらせてもいいのでしょうか? 子供がひとり死んでるのに? きみたちの相対化はちょっと過度なんじゃない? 
この問いかけが、この映画のメッセージなのではないでしょうか。

また、猟師が故意で花を殺した可能性だって否定できません。誤射だと主張した私が言うのもなんですが、殺意の有無についての根拠は一切ありません。なぜって、この映画には猟師が一切登場しませんから。銃声や鹿など、猟師に関わるアイテムは繰り返し登場するにも関わらず。悪意のある登場人物は一人も居ない、と描きました。では、登場しない人物については?
説明会では、あんなに沢山の人が居たわけですから、チョロっと登場させることはできたはずです。山火事おばさんのポジションに猟師を入れればいいでしょう。不自然なまでに、猟師は出てきません。意図的に隠されている(描くのを避けている)のではないか、とさえ思えます。

この不自然な描写は、不自然であるにも関わらず、見逃されてしまいます。
序中盤の「悪の相対化」によって、悪に対する観客の目が曇らされていたからでしょう。
一度犯人探しを始めれば、猟師の可能性には簡単にたどりつけます。にも関わらず、それができた人はほとんど居ないのではないでしょうか。死-銃という、本来なら安直な連想すら封じられてしまったのです。悪意をもって人を殺す人など、この映画に出てくるはずがない、と。

明確なデータは無い、私の感覚ですが、欧米と日本のポップカルチャーでは、悪役の扱いに大きな差があると思います。
アメコミの悪役は絶対悪として描かれやすい一方、マンガの敵役は「別の正義」として描かれやすいように感じます。ただ、映画『ジョーカー』のヒットや、マンガの世界進出から考えると、欧米でもその流れが拡大しているのかもしれません。
相対化、という点でもう一つ述べると、SNSの発達により様々な意見が交わされ、激しい衝突が生まれ、人々が傷つく中で、絶対的な正しい意見を決めようとせず、「みんなちがってみんないい」に逃げようとする流れが強まっているように感じます。
私自身も、絶対の正解を決める必要は無いと思います。しかし、たとえ衝突を生むことになっても、絶対に許してはならない絶対悪は存在するのではないかと考えており、昨今の「相対化ブーム」には多少の危機感を覚えています。
「正義の逆は別の正義」とは耳心地のいい標語ですが、絶対悪の存在から目を背けているとも捉えられます。

『悪は存在しない』は、過度に悪を相対化するセンセーショナルなタイトルを付けながら、作中で絶対悪を巧妙に隠してみせることで、私たちの目の前の雲を吹き飛ばそうとしている、そうでなくとも、その雲の存在に気づかせようとしているのではないでしょうか。

気づけ、悪は存在する、気づけ、と。


(おまけ)演出についてのあれこれ

以下蛇足です。
本稿の主張には関係ありませんが、作中の気になった演出についてつらつらと書き連ねていきます。

・長野の長回し、東京の短回し
今作は、林冠を見上げながらゆっくりと動く3分程度の長回しのシーンから始まりますが、その後も水汲みや薪割りなど、似たような景色を写し続ける長めのカットが目立ちます。
これは、田舎の景色の不変性と、それに由来するゆっくりとした時間の流れを表現しているのでしょう。これから始まる変動を予感させます。
一方で、東京のオフィスにおけるオンライン会議のシーンは、一部屋での出来事にも関わらず、頻繁なカットを挟む短回し(そんな言葉があるのか知りませんが)が目立ちます。
「次の会議が始まるから」と退出してしまう社長のことも併せて考えると、こちらは東京の忙しない時間の流れを表現しているのでしょう。
高橋と黛が車で移動するシーンでは、最初は頻回なカットを挟むものの、少しづつ一カットの長さが伸びていき、最終的には車が走る様を遠景で撮る長回しのカットへと続きます。
その後はまた、タクミの薪割りの長回しが始まり、長野の時間へと移り変わります。

・意思決定から疎外される子供たち
説明会のシーンにて、黛の説明会が始まったあと、子供たちを近景に、公民館を遠景に写すカットが挟まれます。このカットでは、黛の声はくぐもっていて、何を言っているのか分かりません。これは、子供たちが町の意思決定の場である公民館から疎外されている様を表現しているのだと思います。

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