【短編小説】銀座線、浅草行き
「上野で飲んでるんだけど来れない?」
彼女からの連絡はいつも突然だ。決まった約束なんてしたことはない。誘いのメッセージとともに、彼女がいる場所を示した地図だけがLINEに貼られるのは、知り合ってから一度も変わらず、行くも行かないもぼくに委ねられる彼女の先出しジャンケンにいつも負けてしまう。
ほんのちょっとの抵抗としてあえて既読はつけずに、5分ほどで身支度を整えて家を出る。上野は山手線で4駅ほどだ。10分もあれば彼女のもとへたどり着けるだろう。
彼女との出会いはちょうど一年前、ジャケットを着るのは少し暑く、かといって持っていないと不安になる、そんな季節の頃だった。
大学の講義を一緒に受けている友人に飲みに誘われ、特に予定もなかったぼくは二つ返事で行くことを了承した。
よくわからない講義を耳で受け流し、気づくと眠りに落ちていたぼくは友人に揺すり起こされ、目をこすりながらなんとか目を覚ます。と、同時にやけに声高におはようと声をかけられた。知らない女性が友人のとなりでぼくを見つめていた。それが彼女だった。
彼女は友人が所属しているサークルの先輩で、学年が一つ上、ちょうど就職活動が終わり、暇を持て余していたらしい。
そのまま大学近くの大衆居酒屋に入り、彼女の話す友人のサークルでの間抜けぶりをつまみに酒を酌み交わした。
綺麗な人だ。
それが彼女の第一印象だった。
お互いにちょっと前に売れだしたインディーズのバンドが好きなこともあり、距離を縮めるのはたやすかった。
それとなく連絡先を交換し、また飲みに行きましょうと社交辞令を交わした後、2日後に今日と同じように突然の誘いと地図だけの連絡を受け取った。
はじめは行くか迷いもしたが、会ったり会わなかったりを繰り返すうちに彼女と会う頻度が増えていた。ただ、その頃にはもう遅かった。
「なんか君といると安心するんだもん」
彼女のつややかな唇から放たれたその言葉で恋に落ちるのは簡単だった。
***
上野から徒歩5分、指定されたダイニングバーの扉を開けると、鉄と木材で作られたアンティークな空間が広がる。
おしゃれな内装に気遅れしながらも店内を見渡すと、黒髪のセミロングにターコイズグリーンのピアスをつけた女性が、頬杖をつきながらグラスに入った液体をちびちびと飲んでいる姿が目に入る。
彼女だ。
店員に目礼で挨拶を交わし、彼女のもとへ歩み寄る。どうやら既にできあがっているようだ。
「あ!来てくれたんだ!」
ぼくが来るだろうことを分かっていながら、顔からこぼれそうな笑みでいつもぼくを迎えることが少し憎い。
けれど、たとえ出先でもいつもかけつけてしまうのはこの笑顔のせいだった。
「また一人で飲んでたんですか、誰か誘って飲みに行けばいいじゃないですか。
あ、すみません、ジントニック一つ」
「だからこうやって君を誘ってるんじゃないか青年」
「会社の人と飲みにいけばいいじゃないですか」
「まったくーこれだから学生は!あのね、会社の人となんて嫌でも飲みに行く機会があるだっての!」
「そんなもんなんですか」
「そんなもんなんだよー」
よほど疲れているんだろうか、気づくと彼女のグラスは空になり、ぼくが来る前に頼んでいたであろうキティとジントニックがテーブルに並ぶ。
「はいじゃあ乾杯」
キンとグラスが重なる音が響く。
まだまだ飲みたりなさそうな彼女の横顔を眺めながら、ぼくは目の前に置かれたグラスを口元に傾ける。
口に入れ、舌を這わせるように喉の方へ流し込むと、爽やかな酸味の後にほろ苦さが残った。
彼女と会うたびに舌だけではなく、心もそんな味わいをするのも、出会ってからなにも変わってはいない。
***
「そろそろ行こっか」
社会人の彼女に甘えて、会計は任せて店をあとにする。
はじめは払おうとはしたが、そこは年上の義理があるのだろうか、決してぼくに財布をださせようとはしない。
騒がしい繁華街を抜け、上野公園に背を向けながら歩く。すると、だんだんと人気がなくなってきた。
飲み終えた後に酔い覚ましがてら、近くを散歩するのは彼女と会う時の習慣だ。
無言のまま歩く気まずさにも慣れ、たまに足元がおぼつかなくなる彼女に注意を払いながら
ふと上を見上げると、静かな町を覆いかぶさる漆黒の中に、大小点々と無数の星が広がっていた。
「あれだけ星があれば、私のことを1人くらい見つけてくれるよね」
「ぼくが見つけてますよ」
そうつぶやくと寂しそうに目を細め、少し笑った。
「ありがとう、やっぱり君は優しいね」
あんなに沢山の星があったとしても、その中にぼくはいない。
きっと彼女はぼくが好きだということを分かっている。
好意に答えられないことを知らしめるようにぼくにそう言うのは、彼女の優しさでもあり、一定の距離を保ちたいと伝える拒否だ。
好きだと言ってしまえばこの関係は終わる。しかしいつか彼女の隣に違った立ち位置に並べるかも知れないという淡い期待がぼくの胸に残る。
だから決定打である言葉を伝えられない自分の情けなさが悔しい。
ある程度歩くと今まで歩いてきた道を引き返して、上野駅まで向かう。
ここから彼女の家は近いはずなのに、そのまま家まで帰ろうとはしない。
後で入場料を払うことになることを知りながら、改札をくぐり駅のホームへ降りていく。
1人では長いと感じ、2人だと短く感じるホームまでの道のりを進むと、ぼくたちを待っていたかのように強い風を運び込みながら電車がやってきた。
「じゃあ、またね」
そう言うと彼女はぼくに背を向け車内の中まで消えていく。
0時24分。
浅草行きの銀座線の終電がゆっくりと動きだす。
上野で飲むなら歩いて家まで送らせてくれればいいのに。
上野から浅草までの距離はまるで、ぼくと彼女の関係のようだった。
人が消え、運行を終えたアナウンスが響くホームに、不満じみた言葉を言えなかった哀れなぼくと、彼女の体を纏っていたDiorの香水の香りだけが残った。
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