「考えて、決める」を育てるとは
最近、「利用者さん同士でどんな野菜を植えるかを考える」プログラムを行なっています。
・自分たちの意見や声を発信する
・考えたものを実行して達成感を得る
などを目標にしています。
実際やってみて、
それぞれの本人さんたちが和気藹々と話し合って、決まって、、というと、そうではありません。
野菜ごとにも相性や植え時期など特徴があります。
そういった実際の段取りに関してはみんな初心者です。
話し合い促すのも一苦労。
「〜とか、〜感じで考えるのはどう?」
に
「それでいいじゃないですかねえ」
むしろ、どう決めていけばよいか袋小路にはいって、疲れになって、投げやりになってしまいます。
あまりにも自由すぎるのは、むしろ不自由になってしまいます。
考える上での問いの土台をどんな風に組めるかが重要です。
こちらでも、調べる材料として参考書やパソコンも用意していましたが、案は出ても、絞るのに複数人だと合意をつくりにくい状況に。
(書きながら、そりゃそうだと思えてくる、、)
教育:相手が向かいたい方向/より望ましい方向に進むために階段をつくる
福祉:人格/存在として保障する眼差しを持つこと
と考えています。
↑のプログラムの一件に関しては、より「教育」的目線も必要と感じました。
最近、その場その瞬間で、目に見えない、発すると残らない、コミュニケーションの現場で、さまざまな視点が必要なのだと痛感します。
自分がどう振舞うか、と、どう意図して、関わるかを俯瞰・認識しておきたいと感じる一件でした。
気になったところで、「福祉 教育 違い」で調べたら、いつも参考になっている山田ズーニーさんのコラムが。
読者の方と返事も引用しながらの内容に、いつも、考えるストレッチを与えられてると思います。
よければ、ご一読を!
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