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進撃の巨人のエレン・イェーガーに学ぶ「実存主義」

こんにちは。アイボンと鼻うがいで花粉に立ち向かっております。ジョンです。
今回は調子に乗ってブログ第2回目のお題目として現在ハマっている「進撃の巨人」に絡め、哲学における「実存主義」という考え方について書こうと思います。
まずはタイトルのエレン・イェーガーって誰やねん?とか進撃の巨人とは?について簡単にあらすじをば

人類は突如出現した「巨人」により滅亡の淵に立たされた。生き残った人類は巨大な三重の城壁(甕城)の内側に生活圏を確保することで100年の間、辛うじてその命脈を保っていた。
壁内のシガンシナ区で生活するエレン・イェーガーは、医者の父グリシャと母カルラ、そしてイェーガー家に引き取られた幼馴染ミカサと一緒に暮らしていた。壁の外の世界に強く憧れるエレンは、壁外調査へ出られる調査兵団への入団を希望していた。壁外調査は毎回多数の死亡者を出すことから、カルラやミカサには入団を反対されるが、それでもエレンは強い知的好奇心を持つ幼馴染、アルミンと一緒に、壁外への夢を語り合うのだった。
エレンが10歳となった845年。突如現れた、壁を超える巨体を持つ「超大型巨人」によってシガンシナ区の扉が破られ、巨人の群れが壁内に侵入する。全身が堅い外皮に覆われた「鎧の巨人」によって遮断不能となったウォール・マリアは放棄され、人類の活動領域はウォール・ローゼまで後退することになった。目前で母カルラを巨人の一体に捕食され、故郷、夢、全てを奪われたエレンは巨人の駆逐を決意し、ミカサ、アルミンと共に第104期訓練兵団に入団する
Wikipedia該当記事より引用

つまりエレンは「壁外の自由へ強い憧れ」を持つ少年ということが分かります。作中でエレンが壁の中で不自由を強いられながらも我慢すれば生きられる現状を受け入れている壁内の人類を「家畜みたいじゃないか」と表現したりすることからも伺えますね。

では「実存主義」とはなんぞや?ということですが、

普遍的・必然的な本質存在に相対する、個別的・偶然的な現実存在の優越を本来性として主張、もしくは優越となっている現実の世界を肯定してそれとのかかわりについて考察する思想である
Wikipedia該当記事より引用

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意味がわかりませんね?
簡単に言いますと、
「人は理由があって生まれるのではなく、生まれてからの行動で意味がついてくる」
です。
例えばボールは投げる為に存在しますが、この「投げる為」の存在理由に当たる部分が哲学的に言うと「本質」になります。ボールという存在は「実存」と言います。
「人間って存在する明確な目的、理由を持ってないけど生きてるやん?」ってのが哲学者サルトルのいう「実存主義」の基本の考え方です。
これを「実存は本質に先立つ」と言ったりします。理由より先に存在があるよって事ですね。

我々は「嫌な上司に不愉快な思いをさせられる為」や「ブラック企業に搾取される為」「結婚をする為」などといった役割、理由を持たず生まれてきます。
ここだけ聞くと人間は存在理由のない生き物として悲観的に捉えらてしまいがちです。ですがサルトルの実存主義は続きがあって、
「目的なく生まれてくるけど、その人生に意味を持たせる事はできるよ」
と続いています。「人生をどう生きるか、何を目的として生きるかはお前が選ぶもので「自由」だ」という事ですね。この前向きな考えを「投企(とうき)」と言います。

エレンが作中で親友であるアルミンから「エレンはどうして外の世界に行きたいの?」と問われるシーンで彼は、

「俺がこの世に生まれたからだ!」

と答えます。その他にも、

「オレ達は皆 生まれた時から「自由だ」

や、ネタバレになるので詳細は伏せますが、ある人物に対して、

「誰にも従わなくていい お前が決めていい」
「決めるのはお前だ お前が選べ」

と語る様に彼の考え方に今回のタイトルである「実存主義」的な要素があるわけですね。みんな色んな環境の中に生まれて生きているがその生き方を選ぶ「自由」の権利を持っているんだと。

自由とは己で選択する自由であり、人から与えられるものでは無い

昨今のコロナ事情で著名な役者さんが自殺してしまうニュースを見かける事がそこそこあり、理由は諸説あれどコロナによる仕事の減少で仕事ができない自分に意味、価値を見出せなくなり自殺してしまったのでは無いかと報じられていました。
私はこれを仕事で得ていたお客さんからの役者としての評価に自己評価の重きを置きすぎて縛られてしまい、仕事の減少で意味を見出せなくなった結果自殺に繋がってしまったのかなと感じました。
また私自身もここ数年人間関係と社会の理不尽さを味わい自己肯定感を損なった生き方をしていました。

一見関係ない様な二つの話ですがどちらも人や社会などの周りから与えられる評価、意味に重きを置きすぎて縛られてしまっている。悪く言えば依存しているわけですね。
必ずしもそれが全て悪いわけではないのですが、これはある意味「自由」な生き方ではなく「不自由」だと思うんです。
私自身含めてみんな人生をどう生きるか、何を目的とするかをもっと縛られずに自分の意思で「自由」に選んでもいいんじゃないかなと。
人はそもそも無意味に生まれてくる生き物ですから、世間や周りのいう大層な「生きる意味」「評価」などに囚われなくてもいいのではないかと思うんですね。
人に理解されなくてもいい。どんなものであれ自分で選び納得できる「自由」な選択ができればそれでいいじゃないかと。自分の人生ですからね…
とはいえ私自身が実践できているかはまた別の問題な訳ですが…(笑)


などと偉そうな事を言ったところで終わりにしようと思います。
今回は私が個人的にかじってる哲学に今ハマっている進撃の巨人を絡めたテーマでした。文章書くのが難しい…
こういったアニメ、漫画にも哲学的テーマが含まれていたりと意外に哲学って難しそうに見えて身近だったりする学問なんですね。

私は進撃の巨人をアニメを中心にネットである程度ネタバレと考察を見ながら楽しんでいるのですが、先日FinalSeasonの前半が放送終了になり後半が今冬から放送予定とのことでしばらくはソワソワしながら過ごすことになりそうです…
もし興味があればこのタイミングでアニメor漫画に手を出してみるのをオススメします。非常に興味深く面白い作品なので。ではあるか分かりませんがまた次回!


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