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兄とカレーを作った。

兄が実家に帰ってきた。
もちろん、二人の姪を連れて。

7月6日。土曜日だった。
僕の住む平塚は七夕祭りが有名らしく、この時期になると駅前の銀座通りには絢爛な七夕飾りが風に揺れ、ほとんど身動きがとれないくらいの人が飾りを見に、あるいは露店の品々を求めて集う。
そんな七夕祭りを、東京に暮らす兄は娘にも見てもらいたいと思ったらしく、急遽帰郷することが決まった。

正直僕は七夕祭りにさしたる情熱や思い出があるわけでもないし、むしろ暑くて人だかりの多い祭の期間中は平塚市街に近づかないようにしているまであるわけだし、それはたぶん兄も似た考えを抱いているだろうと思う。
まあでも、幼い時期に一度は体験させたいと思うのも分かる。うまく文字にすることはできないけれど、あの退屈さ窮屈さ、大人たちの藪を掻き分ける感覚と頭上できらめく吹き流しのレトロチックな輝きに手を伸ばしたくなる衝動は、10歳までに味わっておいたほうがまあおそらく今後長い人生を送るうえで相応の毒になる気がする。ノスタルギアな心地を抱いたときに浮かぶ心象風景として、そこそこ格好がつくのではないかなと。

兄と姪に会えるのはとても嬉しいけれど、その日は予定があった。最近再開した弓道の道具を揃えるために藤沢へ行かなくてはならなかったのだ。
(県内に弓具店は数えるほどしかなく、そのひとつが藤沢にある)
東海道線に乗ればあっという間に着くけれど、件の祭りで平塚駅へ行きたくなかったので、伊勢原駅から小田急線で向かうことにした。
(遠回りかもしれないけれど、実のところ取材で伊勢原市街を散策したいとも考えていたので、ちょうどいい機会だと思えたのだった)

10時前に家を経ち、藤沢駅に着いたのは昼前だったように思う。弓具店に着いたはいいものの、高校生と思しき集団で店内はごった返していた。おそらく県内の弓道部員だろう。春に弓道部に入って、試用期間を終えこの時期に弓道具一式を揃えるというのは珍しい話ではない。店員とあれこれ相談しながら弓道具を揃えたかったけれど、これではゆっくり買い物もできないだろうと思い、出直すことにした。
矢の選定をする彼彼女らの嬉々とした表情がとても印象的だった。いや、じろじろ見たわけではないから僕の妄想かもしれないけれど、でもかつて高校時代に弓具店へ初めて訪れたときのことを思い出して、あの頃の僕がそこにいたような気がしたのだ。
そのあと伊勢原へ戻り、35度近い炎天下の市街地を歩いた。科学館へ足を運んだが、結局なかへは入らず、大した収穫がない、という収穫を得ることができた。
一方兄とふたりの姪は七夕を満喫したらしく、LINEには銀座通りの真ん中でポーズをとる3人の写真があった。いいなあ、同じ歩くでもこうも眩しいのか。徒労感を胸に実家へ帰ったのは、16時を過ぎたあたりだった。

玄関を開けると長女が迎えてくれた。
七夕帰りだからか、あるいはAKRACINGを梱包していたダンボールを使った姪専用の小屋との再会を果たしたからか、ずいぶん上機嫌な様子であった。
(実家に帰る際、長女は七夕まつりのことはさておき、AKRACINGの家で遊ぶことをなにより楽しみにしていたそうだ)
母が、姪からすれば祖母が続いて顔を出し、どことなく疲れを滲ませる声色で「おかえりなさい」と言う。兄は昼寝をしていたらしく、母一人で姪二人の面倒を見ていたらしい。
酷暑のなか、兄は幼い子を二人引き連れてここまで来たのだ。兄の苦労も分かるし、母の苦労も分かる。
とはいえ兄の顔が見たかった僕としては、ほんの少し寂しい心地になったのは秘密だ。けれども姪の前でそんな姿をさらすわけにはいかない。

冷たいシャワーを浴びてリビングに入るとダイニングに兄が座っていた。眠そうな顔をしていたが、僕を見止めるとニッ、と口元をゆがませた。たぶん僕も同じような顔をしたんだと思う。充分だった。

僕は兄のことが大好きらしい。
大好きらしいことに気付いたのは大学に入ったころだと思う。それ以前は鬱陶しい存在というか、超えるべき相手だと認識していたと思う。
兄が社会人になって、単身石川県へ行くことになってようやく、僕の日常には兄があったのだと知った。この家の兄と僕の部屋は簡易的な仕切りこそあれ音は筒抜けなわけで、もっと昔は2段ベッドで寝ていた。なにを話したかは覚えてないけれど、寝るときよく語り合ったことも、1日や2日だけではない。
兄が石川県での仕事を辞めて実家に戻ってきたとき、僕はとても嬉しかった。このままずっと兄といられるのだと思ったらそれはとても幸せなことだと思ったけれど、やがて僕も社会人になりひとり暮らしを始めたし、兄も結婚して東京で暮らすようになった。
兄が恋人を作るということすら非現実的なものだと思っていたし、結婚の話を聞くまでそんな素振りは少しもなかった。当たり前のことだけど、兄は僕のものではなかったのだ。
そんなわけで兄の部屋はモ抜けの空であり、今では僕の私物が積み上がっている。

「夕ご飯はどうしようか」
しばし団欒したところで、そんな話が上がった。
17時を過ぎていたけれど、夕飯の仕度はなにひとつしていなかったのだ。
兄は僕とガールズバンドクライやMyGO!!!!!の話をしたり、長女がプレイするカービィで難儀するところをアドバイスしたりしていた。
(長女は難しい場面に遭遇するとすぐ「パパやって」と兄を頼るのだが、今回ばかりは手を貸さないぞといった気概で助言に徹するのだった。なるほどゲームも兄にかかれば教育の機会になるのだと感心するし、しっかり父親をしているところを見ると、家族を持つというのはこういうことなのだと思う。僕だったら放任するか全力を賭すかの二択で、適度に接するというのが大変苦手なので、兄の適度さというか適切妥当な振る舞いに憧れを抱く)

僕らは相談して、といっても僕自身は大して案を述べていた記憶はなかったけれど、それほど長引くことなくカレーを作ることに決まった。それも、調理は兄が担当することになった。

「今夜はカレーを作ります」
ぱちむ、と手を合わせ、兄が二人の姪に向けてそう言うのだった。
姪はとりわけ反応を示さなかった。二人にとって兄の手料理は珍しいものではない。兄の奥さんも料理をするが、兄だって飯をつくる。それも結構凝ったものも作れるらしい。いつだったか、チャーシューを手作りしたことを話してくれたのを思い出す。
「わたしのより美味しいんだよなあ」
とは以前耳にした奥さんの言である。
母が買い出しに出かけ、そのあいだは僕と兄、そして帰ってきた父が姪二人の面倒を見た。
カレーの調理が始まったのは、ちょうど18時になった頃合いであった。

「タマネギは染みるから誰かに頼みたいんだけど。じゃがいもの皮むきとか」
兄がそうつぶやいたとき、僕はすでに椅子に根を張っていた。
「切ってくれない?」
僕に対して言ったのかは知らない。ただその言葉の数秒後にはキッチンに立っていた。タマネギが目に染みるあの苦痛は僕も経験がある。でも比較的耐性のあるほうだと思う。もちろん兄が裸眼で、僕は眼鏡をかけているからであるわけだけど。
「ではまず皮を剥いて」
とはいえ僕は何年もまな板の前に立つことはなかった。実家暮らしでかつ親不孝者であるがゆえなのだが、とにかくまな板にはタマネギが2玉転がっていた。
ひとまず僕はタマネギを流水で洗った。
「そこまで丁寧に洗わなくていいよ」
「え、そうなの」
「皮は捨てるだろ」
「そうだけど、洗った厨が憤慨しない?」
「洗った厨て」
兄は慣れた手つきで水のしたたるタマネギの両端を切り落とし、あっという間に皮を剥ぎ取った。
その工程に親近感を抱いた。ひとり暮らしをしていたとき、僕も自炊を心掛けていた時期があった。毎晩カレーの日々で、タマネギは皮を一枚一枚剥ぐのが面倒で兄のように剥いていたのだ。可食部は減るかわり、圧倒的時短になる。
実家にいたころの兄が料理をしたところなんて滅多に見なかったけど、たぶん石川県で単身暮らしていたときに基礎を身に着けたんだと思う。兄はその習慣を今まで続けて、一方僕はやめてしまった。

「じゃあこれを切って」
「……切る?」

僕は戸惑った。
もちろん、タマネギを切ることくらいわけない。それこそひとりで暮らしていたときに大小さまざまなタマネギを切ったし、シンク下の新タマネギを数日放置してドロドロに溶かしたことだってある。
ただ、人に提供する料理となれば話は別だ。しかも今回は姪の口にも入るものだ。大きすぎたり小さすぎたりしてはいけないのではないか。

「初心者だから、丁寧に教えてあげなさいよ」
僕らの代わりに姪の面倒を見る母が、右往左往する僕を見てぼやいた。
「そういうことで先生、お手柔らかにお願いします」
道化っぽく会釈する僕に、兄はやれやれと包丁を手にした。
それからタマネギを半分に切り、さらに半分、それを3等分に切る。
「こんな感じかな」
驚くほどごく普通の切り方だった。まあ炒めてしなしなになるのだから厳密なカッティングは求められてないのだろう。
包丁を手に兄の真似をする。タマネギを半分に切り、さらに半分、それを3等分に切る……などという芸当とてもできるはずもなく、1発目の包丁で1対2の比率で切り、2発目は2対3、少々修正ができたかと思いきや最後の3等分のところを4等分にする。
書いててよく分からなくなる。だがこれだけ分かればいい。僕は不器用なのだ。
「いいんじゃない? そんな感じで」
「ホントに? これが原因で生焼けになるとかない?」
「飴色になるまで炒めるし大丈夫」
オリーブオイルを浸したフライパンに兄は切りたてのタマネギを放った。同時に僕が手持ち無沙汰にならないように次の指示をする。ニンジンの皮をむき、手頃なサイズに切ることになった。

「ピーラー持つの10年ぶりくらいかもしれない」
「そんなまさか」
「ひとり暮らしのときは皮ごと投げ入れてた」
「お、おう」
「まな板も使わないようにしてた。可能な限りステーキナイフだけで調理したよ。洗い物を減らしたかったから」
ナイフだけで調理をすることを、僕は勝手にゲルマンスタイルと呼んでいる。カレーだったらゲルマンスタイルで調理可能だし、なんならニンジンは素手で折ってフライパンに投入することも可能だ。ニンジンなら生で食べられるし、多少芯が残っても構わないと考える質だ。
ただもちろん、今は姪の口に入るものを切っている。ニンジンは次女の口でももぐもぐできるサイズにする。

ジャガイモも同様に皮を剥いて(兄はジャガイモの皮むきが苦手と話していた。僕もそうだ)一口サイズにした。アク抜きのためにボウルに入れて水に浸したら、しばし手持ち無沙汰になってしまった。
暇を誤魔化すために手を洗った。手を洗ったあとに主だった理由もなく包丁の柄やまな板に触れ、そして手を洗う。

兄はなおもタマネギを炒めていた。
「飴色になるまで炒めなきゃだから」
「♪飴色の、髪の乙女」
「それは亜麻色」
「どっちも似たような色でしょ」
「たしかに」
兄は納得した。
納得したあとで、

「でも亜麻色っていまいちイメージ付きづらい色だよね」

そこで僕はここぞとばかりに早口になる。
「亜麻っていうのは麻の仲間だよ。ほら、麻紐の色を浮かべるとわかりやすいと思う」
兄は僕の顔を見て、分かったような分からないような表情をした。
その微妙な表情を見て、僕は急に不安になった。分かった気になって思い違いを堂々と話してしまったのではないかと疑う。勘違いを真実だとして自慢げに語る、むしろ騙ることは一度や二度ではない。

妙な空気が漂い、とはいえ気まずさはない。よくある風景だし、間違ったことを伝えてしまったとしても兄ならばまあいいだろう、という一種の信頼はあるのだった。

「ごはん〜」
遊び飽きた長女が顔を覗かせる。僕の腰丈ほどの身長で、黒くつややかな髪が目に入る。
長女は僕と目が合うとにひひとはみかみ、それから玉ねぎを炒める父親の様子を見て不思議そうに言った。
「なんでフライパンなの?」

そりゃ炒めるのならフライパンだろう、と思うわけだけど、
「圧力鍋がないんだよ。でもこれでも作れるんだ」
「ふーん」
長女は分かったような分からないような、微妙な反応を残して去っていった。
我が家にも圧力鍋は存在するのだが、おそらく今も存在するとは思うのだが、用意するのが億劫だったのかもしれない。あるいは僕が知らないだけで、今は壊れて使えなくなっているのかもしれない。

そんなことより圧力鍋を使う兄の姿が想像できなかった。僕にとって圧力鍋は高スキル保持者でなければ扱えない代物であったし、それこそ僕が姪くらいの歳のころに「危ないから触らないで」と母から言いつけられたことを今なお忠実に従っているに過ぎない。
加えて、味噌汁と肩を並べるくらいには低スキル保持者の人間でも作れるカレーという料理に、まさか圧力鍋という単語が出てくるとは思わなかったし、長女の言葉を鵜呑みにするならば、兄の家庭ではカレーを作るのに圧力鍋を使うのがデフォルトだということになる。一般的な意味とは異なる方向でタマネギを炒める過程を珍しがる子が世に存在することに、軽く鳥肌が立つのだった。

確か、一緒に暮らしていた頃の兄はあまり料理をしてこなかったと思う。手伝い程度でやることはあったけど、それは僕だって同じだ。つまり初期スキルとしては大した差はなかった。
けれども兄は家を離れてから料理にハマりだした。本当にハマったのかは直接聞いたわけではないけれど、時間をかけて味の染みたチャーシューを作った話は聞いた。おそらくそのとき圧力鍋を使えるようになったんだと思う。
娘が生まれてからは手が空いたほうが料理をする、みたいな決めごとを奥さんとしているようで、つまり頻繁に継続的に食事を作っているのだ。

「よし、そろそろ水を入れようか」
あれこれ考え事をしているあいだにタマネギは乙女色になり、ニンジンとジャガイモが投入され、ついでに挽き肉とバラ肉、ともに豚の肉が入れられていた。
わざわざ2種類の肉が入っているのは、別に残りものだったからではない。カレーの材料を考案したとき、兄はわざわざこの2品目を書き記していたのを覚えている。
僕は言われるがまま挽き肉を取り出し、バラ肉を適当なサイズに切り、包丁もまな板も念入りに洗った。まあ、なにか僕には考えもつかない理屈が宿っているのかもしれないし、単にそぼろが好きだからなのかもしれない。

ふちのギリギリまで水を入れて、しばし煮込む。
テーブルに座る姪ふたりはいい加減我慢の限界なのか、ご飯まだご飯まだと連呼していた。
正直僕は空腹を感じていなかったけれども、換気扇が吸い込みそびれた水蒸気に混じって肉と野菜の薫りが鼻をくすぐると、俄然食べる気が湧いてくる。
まして幼い敏感な感覚器官を持つ者ならなおさらだろう。そう言えばご飯まだコールが始まったのは飴色のタマネギに肉を投入したタイミングだったように思える。罪深き芳香である。

長女たっての希望でルーは甘口である。バーモンドだったかこくまろだったか失念してしまったが、ごく一般的な銘柄だったと思う。
とにかく最後の煮込み過程を終え、そして終えるまでに食卓を片付け食器を用意し炊きあがった白米を切るように混ぜ、夕飯の準備が完了した。

カレーを一口食べる。
辛さがない分、食材の味がはっきり滲んで広がる。肉の脂味としなしなタマネギのほそくやわい繊維感、そしてそういった食材を優しく包み込むルーのとろみ。
我が家のカレーとどことなく似ていながら、しかし絶対的に異なる味がした。姪がいなかったら大声で「ウメェ〜!」と叫んでいたことだろう。
そして心の隅で兄の子になればこれをいつでも食べることができるのだと思い、ふたりの姪が羨ましくなる。

しかし僕はなにも言わなかった。
というのも、長女は兄の作った、彼女からすれば父の作ったカレーを、黙々と食べていたのだ。
ちなみに次女に至ってはお気に召さなかったのか、一口食べたところで「いい」と言って以降口にしなかった。カレーを作る前にアンパンを食べていたのでお腹いっぱいだったのかもしれない。
つまるところ姪ふたりにとって、このカレーは特別でもなんでもなかったのだ。

つまり僕にとっても、そして姪にとっても、このカレーはカレーの味ではなかったのかもしれない。
言うなれば兄の味だった。

「タマネギってこんなにおいしくなるんだ」
「飴色にしたからね。圧力鍋だとまた違う感じになったかも」
「それからジャガイモも。ルーと絡まっていい味してる」
「ジャガイモねえ、手間がかかるけど、やっぱ必要だよなあ」
しみじみ呟く兄であったが、そういえば以前はアンチ・ジャガイモ派だった記憶がある。
投入のタイミングが遅いと芯まで火が通らないし、早いと崩れて溶けてしまう。その手間に比べて素材自体に大した味はない。少なくともカレーにおいてコスパの悪い食材であり、ひとり暮らし時代の僕は最初期を除きジャガイモをレギュラーから外している。

「俺もそうだったんだけどさ」
と兄は笑んだ。
「ジャガイモがないと、どうもとろみの少ないカレーになりがちというかさ」
とろみ。
普段はさほど気にしないワードが飛び出てくる。
「ルーだけだと、なかなかバシッと決まらないんだよな」
「はあ……」
「挽き肉もそうなんだ。多分父さんが鶏皮肉を隠し味にしてるのと同じなんだけど、ラードがあると、でんぷんとはまた違うとろみが出ていいんだ」

唐突に父親のカレーが出てきて、僕はまた驚くのだ。

僕にとって、そしてきっと兄にとっても、カレーといえば父の味だ。幼い頃、確か小学2年かその頃合いだったと思うけど、母がヘルニアで手術を受けたことがあった。母のいない食卓で出てきたのが、父のカレーだった。
ごろごろしたニンジンとジャガイモが食べごたえのあるもので、それにいつものカレーと違って深みがあるように思えた。
小学2年の小僧が深みのある味なんて知った口かもしれないが、しかし僕にとってのカレーは間違いなく父親のカレーであったし、母の作るカレーを食べると、もちろんこれはこれでおいしいわけだが、しかしどこかコレジャナイなのだ。
父のカレーの隠し味はリンゴとバナナなのは知っていた。しかし鶏皮肉も隠し味であることは知らなかった。確かに父の作るカレーの具材になぜか鶏皮肉があって不思議に感じたような気もする。ただあまり意識せず食べていたと思う。
母も、自らが作ったカレーを食べてよく首を傾げる。どう頑張ってもスープカレー風のさらさらな口当たりになってしまうのだ。

当然僕がかつて作ったカレーもさらさらで、その原因は水の入れ過ぎだと考えた。何日も置けばとろみが増すだろうと思って常温で置いた結果、火をつけることなく自然とぼこぼこ泡が湧き、酸っぱい香りを放つゲキブツへと変貌させてしまった。
新タマネギを溶かし、カレーを泡立たせた僕は、料理などする資格はないし能もないのだ。なにより自らの過ちで食材を棄てる己自身を許せなかった。
以降今日に至るまで料理から距離を取っていたのだ。
そんなふうに思って台所を忌避する自分が惨めで仕方がなかったわけだけど。

とにかく、父のカレーにはとろみがあったし、兄のカレーにもとろみがあった。
父は(祖父ほどではないにせよ)頑固なところがある。一度こうと決めたらなかなか修正が効かない。サラダは和風ドレッシングで食べるものだと決めたら、塩やマヨネーズで食べたいと思っていても問答無用で和風ドレッシングになる。同様に父が作る料理と言えばカレーだし、それ以外のレシピはあっただろうか。
そして父のカレーの起源は、ヘルニアで家を不在にした母の代わりに、言ってしまえば当座しのぎのカレーだった。たぶん、作り方は以降ほとんど変わらない。いや、もしかしたら子からの好評を得て多少のアレンジは加わったかもしれないけど、主だった食材は20年以上は変わってないと思う。
そんな父のカレーにもとろみがあり、兄のカレーにもとろみがある。

一方は鳥皮肉で他方は挽き肉、そして共通点にジャガイモが挙げられる。
2人のカレーは別の味だけど、魂は継いでいるのだと感じた。
兄は妻子持ちで僕は独身であることも相まって、その感覚はなおのこと強まった。最大の隠し味は愛情であるなどという陳腐な感想はさておき、兄が父のカレーを継承するのは自然なことであるように思えるのだった。

カレーを食べ終えたころには、姪のふたりはすっかり遊びに夢中だった。
AKRACINGの空き箱を用いたダンボールハウスに取りつけられたチャイムを使って、配達ごっこをしている。僕も幼い頃、ダンボールハウスにじっと引き籠っているのが好きだったのを思い出しつつ、さっきまでご飯ご飯と連呼していたのが嘘みたいに遊びに興じているのが少し不思議だった。

その後も多少は兄と話したような気がするけれど、そのほとんどが姪ふたりを寝かしつけるのに費やされた。
9時を過ぎ、10時を過ぎても寝床に就こうとはしなかった。1秒でも長く「今日」が終わらないよう抗っているようにも感じた。
僕を見ているようだった。
明日が来れば仕事をしなければならない。だから枕をギッと抱きしめて、必死になってYouTubeを視続ける深夜2時の僕だった。

やがてどっと疲労がのしかかってきた。思えば今日は朝から出かけていたのだ。外は暑くて体力も消耗する。本当は兄ともっともっと話をしたかったけれど、眠気が勝った。
眠気が訪れようと子の世話を優先しなければならない兄と違って、独り身の僕は自由だ。しれっと2階へ続く階段をのぼり、自室に籠もることにした。
そして、兄と作ったカレーのことを思い出す。
そのことを記録したいと思った。

だから僕は今noteを書いている。
しばし時間が経って、白湯を飲もうと一階に降りると、リビングの照明は落とされ、しんと静まっていた。隣の和室で眠る兄と姪のためか、部屋は冷えていたけれど、最新型の空調機であるため、駆動音の描写を試みることはできない。
数時間前に兄が飴色のタマネギを炒めていた場所にヤカンを置く。
湯を沸かす。僕にとってほとんど唯一、毎日している調理行為だ。

兄は僕のことを「物語を考えられるなんてすごいと思うよ」と言ってくれるけど、僕からすれば兄のほうがすごかった。
実の娘とはいえ、他人の人生に日々少なからず干渉しながら暮らしている。無理やり押し付けられたことではなく、自ら選んでその道を歩んでいる。自分だったらと思うと緊張で動悸が激しくなるのはきっと独り身ゆえの感覚だろうし、こんな自分はひとりでいたほうが不幸を撒き散らさずに済むのではないか。
でも、だからこそ、可能な限り兄夫婦の助けになりたいと思うのだ。
今夜は先に部屋へ行ってしまったけれど、例えば兄がシャワーを浴びてるあいだだけでも、姪の面倒を見るとか、できることなんて些細なことしかないと思うけど。

そんなことを考えているとあっという間に湯が沸いた。
真空ジョッキに湯を注ぎ、白い湯気が立ち込める。ちらと、水切りラックにカレーのお皿が立てかけられていることに気付く。
それを見て、僕は鼻唄を歌った。隣の部屋の姪を起こさないように、でもできることなら兄には聞こえるよう、そんな願いを込めて。
歌うのはもちろん「飴」色の髪の乙女。
そうして忍び足で階段をのぼり、noteの続きを書きはじめる。・・・

#創作大賞2024 #エッセイ部門

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