【エッセイ】 自分を大切にできれば、できていれば
「あたし、もっと自分を大切にしようと思ったんだよねー」
そう言ったのは、半年ぶりに会社に出てきた私ではなく、離婚したての先輩だった。
去年まで張り詰めた表情で残業しまくっていた先輩の笑顔は、本物だった。
◾️休職と離婚
「円満離婚だし、元旦那さんにバッタリ会っても、全然平気」
私は学生時代の恋愛を思い出した。自分は別れたいのに相手が拒否してきたとき、なぜなんだとか、悪いところがあったら直すとか、説得をされそうになったのが死ぬほどキツかった。最終的には、こちらが嫌われるための言動を取る必要があるからだ。
自分の人生はその一回をのぞいて、ほとんどがフラれるだけの人生だったからよかったものの、別れというのはパワーを使う。先輩夫婦が、こじれずに、尊重しあって別れることができたのは、文字以上に良かったと思う。
他方、今の自分は職場の人間関係でこじれて、憎しみが生まれた。「悪気はないから」と今まで散々許容してきたけど、限界だった。
話し合いをしたいとも思わない。でも、話し合ったおかげで負の感情を綺麗に持ち合わせていない先輩のことは、羨ましいと思う。
休職と離婚。全然違う体験なのに、同じ境地に辿り着くものなのか。
私も休職をして環境を変えたからこそ、自分をもっともっと大切にする道を選べた。
無理をして指定された環境下で働き続けるのではなく、一度離れてリセットして、脳みそリフレッシュさせるということだ。そうすることで、大きすぎた悩みも、少し小さくなった。
でも先輩は、その問題とずっと接しながらも大きな決断を下せた。私からすれば、「すげぇ」の一言だった。
私が察するに、一年ぐらいは夫婦の関係で悩んでいたと思う。隣り合わせで苦しみながらも、腹落ちする答えを見つけた先輩を尊敬する。自分は線上から離脱するしかなかったから。
◾️測れないのに、測られる
別にそれで自分がダメな人間だなんて思っていない。お互いに違う性質の問題に悩んでいた。そして自分には療養が必要だった。
悩み事の深さや幅なんて測れないし、どう頑張っても本人以外に痛みも辛さもわからない。そんな事実があるにも関わらず、一つのモノサシで測られるがあるのは、なぜなんだろう。
「あれだなー、仕事への責任感が強すぎたんだよ」
新しい上司のコメントに「またそれか」と、目を逸らしたくなった。どうしてみんな、仕事の話をすると「責任感」というモノサシを当ててくるのだろう。
私の中では「責任感が強い」という言葉が、全く当てはまらない。別に、職場の役割分担をしっかり担うためにやりたかったのではない。仕事の領域内にたまたま情熱を持てることがあり、一生懸命取り組んでいただけだ。
野球選手が一年間シーズンを通して怪我なく出場したかったと言うのと同じだ。頑張っていたことが、人間関係の亀裂によって休職をせざるを得なくなり、一層の喪失感を感じて辛かった。
それだけなのに、なぜかいつも伝わらない。ここに生じている複雑な問題の紐解く道が見つかったように、ちょうどいい具合の事実にだけ飛びつくのだ。
それは、休職する前から感じていたことが重なった。無力な人ほど、問題が起きた時に、絶対にダメだと判別できることだけを取り上げてそれを盾にする。
わかりやすい例だと、悪口を言われた子供が、相手を殴った場合。学校の先生は殴った生徒に「殴ったらダメでしょ」とだけ厳しく注意する。
「でも、あの子が最初に嫌なことをしたんだよ」という声には、反応しない。何も言わない。判断基準を持ち合わせていないから、逃げるのだ。私は子供のとき、そんな経験がある。
大人の世界も同じだ。就業規則違反以外について、中立的な立場の人間ですら、何もできないのだ。
「仕事は一人で抱え込むものじゃないからさ、気楽にいこう」
上司がちょうどいい言葉を見つけて、自信ありげに言った。ハイと返事をしながら、心の中では白けていた。そうじゃない、というのが本音だった。
新しい上司のことは好きだし、バカにしたり、けなしているわけではない。でも、自分はそう解釈されてしまう。
仕事を頑張りすぎてバランスを崩したんじゃない。本当は防げたはずの問題に邪魔をされて、楽しくやっていた仕事から引きはがされたことが悲しいと、どうして会社はわかってくれないんだろうか。
嘆いても仕方がない。私がこれからできることは、もう会社の中では、会社の利益につながることは一切しないことぐらいだろう。
◾️言うは易し
会社や職場は、一人で抱え込むなと言うけど、膨大な業務量を社員に与え、追い込む二枚舌を持っている。
前述した先輩が与えられていた仕事量は半端なかった。残業漬けの日々ではなくて、ゆったりした日々を過ごしていたら先輩夫婦の関係や結論は、何か変わっていたかもしれないと思うことがある。余計なお世話だたけど。
私も本気で仕事をやっていなかったら、人間関係で泣いたり怒ったりせずに、受け流すぐらいの余裕はあったかもしれない。
タラレバを話しているだけ無駄なことだが、私も先輩も、去年に「自分を大切にする」という価値観をもっと真剣に持っていたら、失ったり、別れたりしなかっただろうか。
でも、自分を大切にするって言いながら、実際にそれが難しいことを身に染みて知っている。その方法をちゃんと知っていて、ちゃんと実践して、大切にできている人がどれほどいるだろうか。
——ご自愛しよう!
好きなものを買う時に罪悪感がわく。
——ダラダラしよう!
ダメなやつなと自分を責める。
——仕事なんてどうでもいい!
口にはするけど、実際はまた真剣にやってしまう。
——あいつムカつく!
自分はなんて性格の悪い女だと思って、また悲しくなる。
心をいつも自由にして、誰に奴隷にもなりたくないのに。自分自身は自ら、自分の中に負の妖精の奴隷になっている。雨のせいだろうか。
◾️雨の中で、消しゴムを持つことから
朝起きると、雨だった。スマホには、お世話になっている別の部署の上司から「初出社、お疲れ様。これ見て癒されてね」と、愛犬のお写真と動画が送られていた。
昨夜友達たちからも、労いの言葉のLINEが送られていたし、職場で隣の席になった人と飲みに行く約束もした。
こんなに恵まれているのに、悲しい気持ちにばかり押しつぶされているのが、また情けなかった。しかし、鬱とは基本的にそういうものだ。仕方がない。仕方がないんだ。
気持ちを落ち着けるためにKindleを開く。金原ひとみさんのエッセイは、私の心の中とほぼ同じだった。同じことを思ったのに、こんなに綺麗な日本語で書いてすごいなといつも打ちのめされる。
でも、私と金原さんは違う人間で、違う体験をして、違う人生を生きている。私が金原さんの真似事をしても、私らしさが出るわけではないよな、と冷静に言い聞かせた。そんな分析が即時できるだけ、成長してるよと自分を労った。
潔く離婚を選択した先輩のようにかっこよくも生きれないし、美しい文章もかけない。誰かのせいにしたいけど、そうすると罪悪感でまた水の中で溺れそうになりながらも、今日も雨の音を聞いて生きている。
家庭菜園を見て、バジルを収穫したり、初めて植えたゴーヤにようやく雌花がついて実がつきそうだったり、ケーキが食べたくなってキャロットパウンドケーキを焼いたりもした。
何かの喜びを日常生活で見つけて、できるだけ感謝する。そうすることで、少しだけ憎しみに消しゴムをかける気が沸く。消せるかはさておき、「ちょっとだけ、消しゴムを持ってみようかな」ぐらいは思えるようになる。
傷ついた時間の五倍の時間をかけて、この痛みや傷を癒していくことだろう。
もがきながらも自分を大切にする。いきなりは全てを消せないし、上手に自分を大切にできない。
それでも、少しずつ、その毎日を繰り返す。穏やかに、少しだけ気分がよくなることをして、消しゴムを持っていきたい。
微力だけど、365日をそうやって1日半歩でいいから、進みたい。頭の中から、このモヤが消えて、晴天になるまで。
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