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【三島由紀夫の見た都知事選『宴のあと』】

【三島由紀夫の描いた都知事選『宴のあと』】

※ネタバレあります。

すべては敵の謀略と金の勝利だった。こちらの金が尽きかけた投票数日前の或日から、保守党の側におそろしいほどの金が堰(せき)を切って流れ出した。金は狂喜乱舞するように巷々(ちまたちまた)に流れていき、心の卑しい人たちやひどく貧しい人たちを擒(とりこ)にした。あのとき金はまさしく、雲間に洩れた太陽のように輝いた。凶悪な、不吉な太陽。それがまたたく間に、毒々しい葉をひろげた植物を繁茂(はんも)させ、蔓草(つるくさ)は至るところに伝わって、気味のわるい触手を都会のそこかしこから、夏の青空へ伸び上がらせたのだ。

三島由紀夫著『宴のあと』より

現在の保守陣営や右翼陣営の多くが、三島由紀夫の存在を思想的な拠り所にしている(いた?)ように感じられるものの、三島がここで描いた保守陣営の姿は、彼ら保守陣営の人々の期待を裏切るかのごとく、圧倒的な資金力と動員力、手段を選ばない卑劣さによって選挙を牛耳る巨悪の党として描かれている。一方で三島は、イデオロギーの世界には一切立ち入ることがない。選挙を通した或る夫婦の人間模様を描くことが主眼なのだから政治イデオロギーは無縁であるということなのだろうし、そもそも三島の明敏な眼には、55年体制以降の保守党に論理に貫かれた政治イデオロギーなるものなど端(はな)から存在しないことなど分かり切ったことでもあり、物語を語るうえではノイズになりかねないと切り捨てたのであろう。

この小説は1959年の都知事選の出来事を下敷きに描かれおり、舞台は55年体制となってから僅かに4年程後のことである。敗戦後のGHQの統制から解かれた3年後の1955年に社会党再統一への危機感からそれまで全く考え方を異にしていた吉田茂率いる親米派「自由党」と、鳩山一郎、岸信介の率いる反米志向「日本民主党」とが保守連合することになる。これを俗に55年体制と呼び、その後40年近くその基盤は崩れることがなかったわけだが、その連合は親米と反米という、まさに水と油の一体化であり、保守を名乗りながらも広島と長崎に原爆を落とし東京を火の海で焼き切った米国に親愛の情を示すという理解不能な政治イデオロギーの誕生であったわけだ。そして保守陣営は、この一抹の理路も見出すことのできない、捻じれきったデタラメな政治イデオロギーを現在に至っても大事に抱懐しているというわけである。

社会党の躍進を阻止するために、55年に自由党と日本民主党を結びつけたのは、結局のところ「権力と金」ということになるのだろう(もちろん米国の干渉も間違いなくあったであろう)。この小説に書かれた選挙の光景がどこまで現実を下敷きにしているのかはわからないが、少なくても実話を背景にして書かれ、出版後、モデルとした人物から日本初のプライバシー侵害で訴えられたという事実に照らし合わせるかぎり、当時の実情から大きく乖離して描かれているとは考えにくい。

この光景は、65年も時間を経たいまにおいても何ら変わっていないように映る。1959年にして、保守と革新の間にはこれだけの自力差があり、容易に崩すことのできない堅牢な基盤とそれを後押しする組織票、さらに長いものや空気にすぐになびく根無し草のような都民たちの姿があったというわけである。

今回の都知事選(2024年7月)においても現職の都知事は圧倒的な強さを示した。8年間の都政では様々な批判が巻き起こり、公約の非実行や答弁拒否の常態化、学歴詐称疑惑や公職選挙法疑惑、大手不動産会社との癒着と大量の職員たちの天下りに至るまで、多くの非難や疑惑を抱えていたにも関わらず、保守第一党の自民党の支援を受け現職の圧勝となったわけだ。他の候補が弱すぎたのだという見方もできるだろうが、その点を抜きにしても、改めてその基盤の強さに驚かされると同時に、欧米では当たり前に機能する「揺り戻し」という力学がこの国の民主主義では全く機能することがないという事実をまざまざと見せつけられたように感じる。

物語のなかで保守党の妨害工作が描かれている点も興味深い。実際の都知事選をモデルにしている小説ではあるものの、ここで描かれている妨害工作が実際のものをモデルにしているのか三島の創作によるものなのか、ネット上を検索してみても該当する情報が見つからず判然としないままだが、そのいくつかをここに紹介してみたい。

選挙中の主人公かづの前にある男が現れる。しづが東京に出てきたときに数年同棲していた男であるが、彼がかづの前に出したのは暴露本であった。その本には、かづという女は、隠逸な女で最終的には色よりも野心を選ぶと書かれているのだる。その暴露本をちらつかせる男に、かずは大金をつんでその三千部を買い取ることで話をつけたのだが、実はその裏ですでに都内の肝要なところに多くの暴露本が無料で配布されていたのであった。

男をたらしこんで成り上がった女というこの醜聞のような話は、すぐに都民の人々の心に悪い反響を呼び起こすことになるのである。

公園の入口と私鉄の踏切との間の空き地に、たちまち人が集まってかづの演説を待っていた。しかし下町や農村とちがって、自転車を止めて片道を地面に支えている御用聞き風の若者たちも、どこかその顔立ちに素朴でない嘲笑的な影を帯びていた。のみならず、聴衆はしょっちゅう私語し合い、かづのほうを見ては何か噂をしていた。
(中略)
かづは進んで、いつものようにマイクの前で頭を下げた。
「わたしは革新党都知事候補野口雄賢の妻であります」。
そのときたしかに二、三の失笑がかづの耳に伝わった。

三島由紀夫著『宴のあと』より

暴露本といえば最近でも同じような光景が目に浮かぶ。たとえば2020年の都知事選では、選挙直前に出た小池百合子の半生と学歴詐称を描いた『女帝』である。ネットを中心にベストセラーとなっているのも関わらず大手メディアは一斉にその存在を無視し報じようとしなかった。大手書店も現政権に協力し、選挙中、その本をお勧めの棚から外していたのであった。結局その本が選挙に影響することはなく、小池百合子は無事再選を果たした。暴露本により革新党側が勢いを失っていく小説とは真逆な展開であるが、結局暴露本は、現政権の保守側にしか機能しづらいことを物語っているように思えてくる。

小説に話を戻す。この暴露本により当初の勢いを失い劣勢に転じてしまった革新党は、選挙日の前日、職業別電話帳から5万人のリストをピックアップし応援の電報を打つことを決め全逓(郵政公社の労働組合、現JP労組)に持ち込み快諾を得るのだが。

早くもこれを嗅ぎつけた保守党が、対抗して電報を打とうとして、中央郵便局に断わられた。飛田派はすぐさま郵便大臣を動かした。事実上の行政命令がこうして下され、その晩のうちに保守党側からも、二倍に当る十万通の電報が打たれてしまった。

三島由紀夫著『宴のあと』より

権力側にしか行うことのできない行政命令を選挙に使うなど飛んでない話で明らかに卑劣な選挙違反であるが、こうした卑劣な行為も何度も裏側では行われてきた歴史がある。たとえば戦後の自民党政権のある時期までは、警察が対立候補を選挙違反で摘発したり、その可能性をちらつかせて脅したりする手法は取られていたのだ。

最後に紹介する工作は、よりプリミティブで低劣なものである。選挙前日の夕方になって野口の家の選挙スタッフに電話がかかる。その電話口の興奮した声は、渋谷や新宿、池袋などの主要な場所で、『野口雄賢、重篤』、『野口雄賢、危篤』というビラが、鈴を鳴らす号外売りによって配られていたことを伝えたのである。野口は高齢であったのだ。かづ自らが営み半生を過ごしてきた、まさに自身のアイデンティとともにある高級料亭をかづは担保に入れてこの選挙に挑んでいた。かづはこの選挙に財産のすべてを注ぎ込んでいたのであった。弱さを一抹も見せることのなかったかづだが、このビラ配布の報に触れ、初めて絶望を示す。

「犯人をつかまえて頂戴。犯人をいますぐつかまえて頂戴。そんな汚ない!どたん場になってそんな汚ない手を使うなんて・・・これで選挙に負けたら、私は死ぬほかないんです。持っていたものはすべて失くしてしまった。これで負けたら、・・・・その犯人は私を殺したんです。さあ、早く、すぐ行ってつかまえて来て頂戴。・・・・さあ」

三島由紀夫著『宴のあと』より

2016年都知事選を思い出す。小池百合子と鳥越俊太郎の一騎打ちの様相であったが、選挙中に『「女性大生淫行」疑惑』という文春砲の一発で鳥越俊太郎の勢いは一挙に失速することになった。この疑惑がいかなるものなのかは不明である。14年前の出来事であり密室のことなのでその事実は判然としない。鳥越側は「事実無根」と文春を相手に告訴に踏み切ったものの、嫌疑不十分で不起訴扱いとなっている。

ちなみにその4年後、小池百合子の再選を拒もうと選挙間近に『女帝』を発刊したのも同じ出版社の文藝春秋であった。

三島由紀夫は、革新が正義で保守が悪という単純な二元論世界を決めつけて描いているわけではない。ただ敗戦後、日本に民主主義がもたされたものの、何も変わらない、何も変わろうとしない、論理の欠落した不思議な政治状況を描いているのである。

結局かづの夫の野口は惨敗を喫する。以下の抜粋は小説の最後のほうに記されたかづの内省を示す箇所である。

過去数ヶ月の選挙のことをつらつら思い返してみても、保守党は選挙で勝ったのではない。論理で勝ったのではない。心情で勝ったのではない。人物で勝ったのではない。野口(夫)はたしかに立派な人物で、論理は強力であり、心情は高潔だった。保守党はただ金で勝ったのである。
 これはいかにもお粗末な教訓というべきで、こんなことを教わるためにかづは選挙に精を出したのではなかった。金が何よりも強力だという信仰は、かづにとって別段目新しい信仰ではなかった。しかしかづは少なくとも心情をこめ祈りをこめて金を使ったが、敵(保守党)の金は機械のように押し寄せてきたのである。そこでかづが追いやられる結論は、金が不足だったという嘆きよりも、自分の心情も野口の論理も無効に終わったという嘆きである。その精魂こめた運動のあいだには、かづが一旦信じた涙や、微笑や、好意的な笑いや、汗や、肌の暖かみや、……そういうものもすべて無効に終わったという嘆きである。(中略)
 むかしかづの育った社会の常識では、媚態は強力な武器であって、それが権力や金を打ち負かすことができる筈(はず)であったが、選挙を通ってきたかづには、こんな考えは遠い神話同様に思われた。選挙の、身も蓋もない講評はこうだった。つまり「女」が「金」に負けたのである。それは貧しい恋人を捨てて、惚れてもいない富豪に身を委(まか)す女の、明白な肉体的勝利とは反対のものであった。

三島由紀夫著『宴のあと』より

論理性も倫理性も問われることなく真摯な態度も高潔さも熱情も響くことのなかった選挙の結果に裏切られた主人公かづの幻滅は、今回の都知事選の現職の圧勝ぐあいに唖然としたわたしの幻滅具合とシンクロするようであった。今回ばかりでない、小学校高学年から分からないながらに政治を見続けてきた半世紀、わたしは常に選挙後に幻滅の結果ばかりを見せつけれてきたのだ。

先にこの小説の主眼は、あくまでもふたりの男女の人間模様、そのすれ違いを描くことにあり選挙の姿はあくまでも背景として描かれているに過ぎないと述べた。しかし三島由紀夫はこの選挙の姿を物語の背景として描きながらも、論理も情も優先されることなく常に数の論理に押し切られるばかりで変化することのない、変化することを嫌う空疎な政治状況のなかに日本人がいるということ、わたしたちが暮らす世界は決して機能することのないハリボテの民主主義の中にあるということを暗に伝えようとしていたのかもしれない。

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