【悲しみよ こんにちは】朝吹登水子訳
「悲しみ」と「こんにちは」、まるでN極とS極を強引にくっつけたようなこのタイトルが昔から気になって仕方がなかった。
子どもの頃、日曜洋画劇場で映画の予告編を家族で観たことがあった。僅かに1分ほどの映像を見ながら、父も母も、ともに悲しい物語だと歎息たんそくしていたのが強く印象に残っていた。それ以来、映画でも本でも構わない、いつかこの物語に接したいと願っていたのだが、そうした気持ちも大学生になった頃にはすっかり忘れたままになっていた。
やっといまさらながらにこの本を読み始めたのは、理由あってのことである。母の一周忌が近づいていた。母が急逝してしまって以来、あれほどまでにわたしを苦しめてきた悲嘆の感情と後悔の念も、一年の期間を経ることで色褪せていているかのように感じていたのだ。それが強い焦燥になっていた。痛みを忘れるということは、忘恩のように感じるのである。母の一周忌を前に、少しでもあの焼けるような深い悲しみを呼び覚ましたい。わたしを深い悲しみへと沈めてくれるような何かはないかと考えたとき、偶然のようにこの書を思いだしたという訳である。
本を買う段階でどの翻訳版にしようかと吟味することになった。光文社の新訳シリーズなどに代表されるような、読みやすさばかりが優先され薄口な文体へと変換されることの多い最近の翻訳の傾向が我慢ならず、わたしは、わざわざ絶版となっている旧訳の新潮社版を古本で購入することにした。
やややつれた本が手元に届いた。本の表紙に記された訳者名を見ると「朝吹登水子」とある。わたしが昨年暮れに読み、感動を覚えた『泥棒日記』の訳者「朝吹三吉」と関係があるのだろうか。調べてみるとやはり兄弟であり三吉の妹であった。サガンの文体とジャン・ジェネの文体の違いだろうか、『泥棒日記』のような晦渋な辞句や修辞が盛り込まえるわけもなく、すっきりと読みやすい文体であったが、主人公の心理状態を的確に捉えた筆致は満足のいくものであった。
サガンの名前はかろうじて知っているものの、この物語についてはまったく予備知識がなかった。悲しみが何を指すのだろうか。わたしの興味はその一点に絞られていた。
物語は、在る夏のバカンス。南仏の避暑地の白い別荘を舞台とする。その世界観は、TVに映った映画の予告編の記憶と全く同じものであった。主人公の女性(映画ではジーン・セバーグが演じている)はきっとサガンの分身だろうと考え、わたしは勝手に文学好きな少女を思い描いていたのだが、わたしの想像とはかなり異なる人物像であった。
父は若い寡夫であり、貞節や責任とは全く無縁の存在であった。父の恋人は、常に入れ替わり立ち替わりであり、父は放埒《ほうらつ》な生活を楽しんでいるのである。娘もそうした大人たちの社交の世界に身を委ね、父の気ままな恋愛観に魅了されている。父は、主人公の娘を「僕のかわいい共犯者」と呼ぶのである。享楽的なこの父娘は、当然、内省することを苦手としている。
父親は、現在の恋人、半玄人のエルザと主人公の娘とで別荘に滞在しているのだが、そこにアンヌという別の女性を呼び寄せる。そこから大きく物語は展開していくことになる。
アンヌは、洗練され理知的であり、美しくも冷淡な、意思の強い女性である。父と同じ世代、40歳を過ぎた辺りであろうか。恋人のエルザとは10歳も歳上であるにも関わらず、気品の違いは明らかであった。
父はすでとアンヌと結婚することを決めていたのであった。しかしその話を聞いた娘は、咄嗟に動揺を覚える。理知的で分別を備えたアンヌと享楽に生きる父は、水と油のような存在だからだ。彼らを結びつけるような化学式というものが存在しないということを娘は瞬時に看破していたのであった。
そんな父とアンヌの微妙な関係を危惧しながらも、娘は、アンヌの美しさとその気品に満ちた態度に魅了されていく。それは父との生活のなかで出会うことのなかった大人の女性であり、未来の聡明で知的な生活への期待でもあったのだ。しかしその反面、これから母としてアンヌが家族のなかに君臨することを想像すると気鬱になるのである。それは、夏のバカンスを大学受験の準備期間に当てるべきだとするアンヌからの束縛を嫌ってというものばかりではなかった。これまで楽しんできた父娘の間の愉楽な生活が、アンヌの登場ですべて壊されていくであろうこと、放埒で無計画で楽しかった生活がブルジュア的で優雅だが計画的な生活へと塗替えされていくことに焦燥してのことであった。それは主人公にとって耐え難い未来の姿に映るのであった。
主人公は、アンヌの魅力を認めながらも煩悶する日を過ごすのだが、やがてアンヌとの結婚の邪魔立てしようと策略を巡らす。父が捨てた元カノのエルザを父に再度会わせることで、父との結婚を頓挫させようとするのである。父をよく知る娘にとって、エルザを目にした父が抗しがたい欲望を走らせるであろうことは容易に想像がつくことであった。
幾度と躊躇しながらもやがてその計画を実行へと移す。まだ大人になりきる前の、在る種の残酷さをもって。
クルマで去ろうとするアンヌに、必死で駆け寄った主人公は、必死に行かないほしいと懇願する。
泣き叫びながらクルマに乗り込むアンヌとそれを留めようと必死に哀訴する姿は、日曜洋画劇場の予告編で観たジーン・セバーグの激しく動揺する悲しき姿と二重写しになっていた。
美人で理知的な一人の孤独な女性。40歳を過ぎ、結婚を決意し、自分の残りの人生を聡明な機知をもって設計した女性が、浮気という裏切りによって、木っ端微塵に崩れ去る様が見事に活写されていた。
この悲劇を描くのに、この部分だけで充分ではないかとわたしは思った。クルマで去っていくアンヌの姿を読みながら、わたしはこれ以上の悲劇は襲ってほしくなと願った。
しかしわたしの脳裏をかすかに映像がよぎるのである。崖から落ちていく赤いスポーツカーの映像が。それは日曜洋画劇場で観た映像の断片なのだろうか。僅かに一、二秒のカットであろうが、こんな決定的シーンを予告編に織り込むとは。随分罪なことをするなと恨むばかりだ。それとは別に、子供の頃にみた映像が、潜在意識のなかに生き続けていたことにも甚だ驚くばかりである。
案の定、アンヌは崖からクルマごと落ちて死ぬことになる。事故なのか自殺なのか。それは分からないままとなった。アンヌを戻そうと謝罪の意を伝える手紙をしたためていた父子のもとに訃報が届くことになる。
わたしには最後のクライマックスを示す章がとても蛇足のように感じられた。ベストセラーへと火がついたのはこうした分かりやすい結末が必要だったのかもしれないが。クルマで去っていくアンヌの姿にひとりの女性が無惨にも瓦解していく様があまりに鮮明に伝わっていたので、それで充分ではないかと思ったのだ。その後の死というドラマチックな終末をあえて用意するまでもないと思うのだ。
しかも最後の章は随分とアッサリとしているのだ。アンヌがクルマで去ったあとの、父子による贖罪の手紙をしたためているなかでの訃報とその後につづく葬儀。葬儀を終えた父は、やがてエルザとは違う女性と付き合いはじめ、娘も夏のバカンスで恋に落ちた男の子とは違う男の子とつき合うことになる。そこで物語は終わる。それは僅かに8頁の記載である。
アンヌの介入によって父との享楽的な生活が崩壊していくのではないかと強く焦燥する様や、アンヌへの憧憬と厭わしさ、その背反する感情に翻弄される様を作者は全編においてきめ細かく丁寧に描写していた。それにも関わらず最後の部分は、”おざなり”に感じるほどにあまりに短い、あっけないものであった。自分の策略がアンヌの死を導いたことは明らかである。わたしだったら悔恨と自責の念に押しつぶされることになるだろう。随分とあっさりしているなとどうしても感じてしまうのである。
この物語の最後は以下のように結ばれている。
どう感じられたであろうか。最後を書名で結ぶというのは読者の心に響くものであるのだろうか。わたしには、これも蛇足のように響いてしまう。すでに本の題名なのだから、読者は何度もこのタイトルを目にしているだろうし、当時はベストセラーとして嫌というほどに流布されている言葉でもある。あまりに既知感のある言葉には読者は驚きを示すことはないだろう。
普通であれの書名をダイレクトに示すことはせず、それと同じ感触の心象風景を描くものだと考える。この最後の言葉を読んだときは、わたしは何か俗的で滑稽なラストだなと少しがっかりしたのであった。しかし主人公は悲哀ばかりを抱えて沈み込みような性格ではない。常に光のもとへと朗らかに転身していく性格であったことを思い出した。そう思うと、「悲しみよ、こんにちは」というのは、この陽気な主人公のキャラクターに照らし合わせば、確かにふさわしい言葉だったのかもしれない。無邪気さを隠せない主人公は、当時18歳だった作者サガンそのものだったのかもしれない。
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結局、これを読んでも、母の死と母の不在、その悲嘆の感情に火を焼べるようなことには至らなかった。わたしは、沈思することを知らないこの小説の父子のように、悲しみに向かって「こんにちは」とは言えないだろう。しかし好むと好まざるをと月日が過ぎれば、わたしの痛苦も薄らいでいくことになるはずだ。3月の初旬である母の命日に、わたしも主人公と同じように悲しみに挨拶を交わすことになる。それだけは確かであろう。
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