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【正義】集団の利益のために個人が犠牲になってもいいのか?

「私に対するクラス全員からのイジメは甘んじなければならないの?」
「仕事できる私ばっかり残業…不公平じゃない?」
「私一人が損してみんなが幸せならいい…?」

社会全体の幸福と不幸の度合いを比較して、幸福の度合いを増やそうとする考え方を功利主義といいます。例を挙げれば、クラスにいじめっ子の集団と一人のいじめられっ子がいて、複数のいじめっ子達の幸せの度合いといじめられっ子の不幸の度合いを数値化して、クラス全員にとってより幸せになるほうを選ぼうとする考え方のことを言います。だからこの例の場合純粋な功利主義者は、いじめをやめさせるといじめっ子達の幸せ度合いが減少するから、いじめられっ子には我慢を強いる方が全体的には良さそうと考えるでしょう。

私はこの功利主義を否定します。

いじめの例で言えば功利主義に対して三つの指摘するポイントがあります。
功利主義は正義についての常識的な信念を説明できない
「みんな喜ぶからきみをいじめるんだ」っていう功利主義的な意見には正義の立場から考えた正当性ってあるのでしょうか。
功利主義は公正な分配を考慮していない
先天的な障害や国籍や信仰を理由にいじめられている場合「社会的な出自が不利でもそんなの考慮しない」といじめっ子は思っているでしょう。ちなみに、私は性格や能力の差も、周囲の環境に左右されるので先天的な障害と大差ないと思います。正義とは、自分ではどうしようもできない差異をどのように公正に扱うか(分配するか)です。だから生まれつきの容姿や性格などが理由でみんなの幸せの犠牲になるのって論理的におかしいんです。
功利主義は義務論的な正義を考慮していない
功利主義は「最終的に社会全体が幸せになれたら良くない?」と考えます。つまり最終的な結果に至るまでの過程において、クラスの中でのいじめも容認してしまうのです。功利主義は、「人に暴力を振るってはいけない」とか「人を騙してはいけない」みたいな幼稚園児にもわかる正義を、場合によっては「最終的に社会全体が幸せになれたら良くない?」という理論で踏みにじります。道徳的な問題点を提起せざるを得ません。

こんなにもめちゃくちゃな功利主義はそれでも「社会全体の幸せ度合いを大きくするんだ」と日夜邁進しています。なぜなら功利主義者は、根本的な考えとして「幸福は数値化できる」と思っているからです。
「いやそもそも幸福とか不幸って数値化できないだろ!」と多くの哲学者達は思うわけです。いじめられっ子が人としての権利に関わる自由や尊厳を侵害されている場合、彼らの自由や尊厳を数値化して、いじめっ子達の娯楽を数値化して、両者を比較することなど可能なのでしょうか。

今から人として絶対に守られるべき権利がある、という話をします。

さぁ、想像してください。時代をさかのぼること10万年前、あなたは進化の最先端のホモ・サピエンスです。今やあなたは密接な結びつきを持つ部族のなかで暮らしており、①食べ物を見つける②繁殖する③人食いワニとの遭遇を避けることに加えて、部族という社会で暮らすために他者を怒らせないようにすることが生きるために必要なことに追加されました。共同体で生きていくにはみんなで協力し、資源を分かち合う必要があります。欲しいからといって、なんでも好き勝手に手を出すわけにはいかないのです。もし誰かの水牛バーガーやパートナーを盗み取ったりしたら、集団から追い出されるか、悪くすれば殺されるかも知れません。逆に、同じ部族の仲間も何かの拍子にあなたを殺して財産を奪うかも知れません。だからこのような原初の状態でもみんなで協力するためのルールが生まれました。

このルールは自然法と呼ばれ、そこで担保される各人の権利が自然権です。自然権は、生命、健康、自由、財産の4つに関する何人も犯すことができない各人固有の権利とされています。
これら4つは、原則として、他人の利益のために侵されてはいけないということです。
以上のことから、我々の権利が守られる理由は「我々が社会的な動物だから=人間だから」という理由で事足りると考えています。

結論として、絶対に不可侵の権利は、値段がつけれないので、どんな状況であっても守られるべきなのです。みんなの利益のために弱い立場の少数派が犠牲を強いられるのは間違っているのです。

「私に対するクラス全員からのイジメは甘んじなければならないの?」
「仕事できる私ばっかり残業…不公平じゃない?」
「私一人が損してみんなが幸せならいい…?」
これらの答えはもう明確ですよね。
私は新入社員時代最初の二年間、地の果てのような場所で「365日24時間常に出勤できる」社員として育成されました。その結果失ったものは数知れません。それでも当時は私の前任者とその家族や同僚達の負担を背負うことができるのであれば…という唯一の願いがありました。しかし前任者や同僚や彼らの家族達の自由のために、私の自由が侵害されることは正しいのでしょうか?果たして多数派の人権と少数派の人権を天秤にかけた時、どちらに天秤が傾くのでしょうか?馬鹿馬鹿しい議論です。比較することなどそもそもできないのです。

いじめの話と最後にちょびっと会社の話もしましたが、誰にとっても身近な話だと思いますし、環境問題など様々な社会問題を功利主義批判の文脈で何かしら意見できるのではないかなと思います。
特に昨今の国際情勢を揺るがすロシアのウクライナ侵攻についても、大国の指導者によって兵士や民間人などの死者が出ている事態に功利主義的な問題がないはずありません。
私の功利主義批判が、誰かの傷を癒して明日を生きる活力になれば、これ以上の幸いはございません。

駄文にお付き合いいただきありがとうございました。
明快さを優先したがために厳密には誤った表現になっている部分があるということも自覚しています。それにしても少し冗漫ですし…
人に伝えるというのは難しいですね。
尊敬する先輩が「あなたの知識が誰かの役に立つはずだから発信しなさい。」
と言って下さったので、文章は苦手ですが投稿いたします。
次回は、利益や権利という「便益」の視点ではなく、「道徳」の視点から正義を検討します。

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