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日誌(7月の3週目から8月の1週目)

前回

社会にクレーマー

マルクマンは医療系の自営の仕事のほかに、訪問サービスの仕事をしている。その訪問サービスの仲介業者がお金を2ヶ月払ってくれなかった。今までは患者さんに悪いからと予約を受け付けた分は訪問診療に行っていたみたいだが、流石にと、全てを患者さんに話した上で予約をキャンセルしたらしい。そしたらその仲介者から烈火の如くのお怒り電話がかかってきて、プロとしてどうなんだ医療従事者としてどうなんだ人間としてどうなんだと、言われのない非難を受けたらしい。速攻、現状と契約内容を組合に報告しそうだ。どうやらその業者と士業の人たちとの間で問題が多発していたようで、組合から正規に人材を派遣することを組合がやめたらしい。その後、さらなる虚偽と罵倒のお電話がやってきたようだけども。携帯電話を伏せて机に置いて相手の罵倒が終わるまで待ってから、支払いの要求を淡々としたと言っていた。
うちでは二人合わせて、今年に入ってから不当な扱いをされたなと感じて戦った事柄が、今回のこの業者含め5件あった。その中には私に対する警察の対応と、マルクマンが受けた裁判所からの扱いに対するものも含まれる。多分普通だったら受け流すのかもしれない。そして多分、自分が総合的にマジョリティーでいられた日本で生活してたら、割と社会ってこんなもんって思ったかもしれない。あいつうるせーって思われたくない。むしろ警察やら裁判所やら、正しくあるべきものと習ったものが、認められているはずの権利の行使を認めないなんてそんなことはないだろうと、まず自分を疑っていたと思う。だけど現実はそうではないらしい。全然向こうがおかしいってことがあるようだ。そして不当なものはしっかり不当といわないとお金持ってたり、権力を持っていたりする組織は調子に乗ったりする。特にこちらがステータス的に弱みを持っていたら尚更。
そもそも、いろんな力場の中心に近いものは、自分たちより中心から遠いものの状態とか気付けないのかもしれない。そういう力場では力の重力によって、そこに存在するものの志向が中心に向かうだろうし。おなじようなことが他の人に起こったら気の毒だし、そして一人一人が受けたストレスは私たちが生きる社会に停滞する気がする。そんな息苦しくなっていく世界に生きるのは嫌なので、とりあえず自分たちができる範囲で不当なものを不当と言っていこうと思っている。死ぬほど疲れるけど。

事実が一番大切

デマって良くない。事実に対してどう感じ、どう思っても、それは思想良心の自由なので良いと思う(それを場所などをわきまえることなく無差別にぶつけることのはまた話が変わってくると思うが)。だけど事実を歪ませるデマは、その思想に対する自由の根本を歪ませている。デマを本当に嫌なものだなと思うと同時に、社会の目になって事実を事実として認識して、それを広めてくれるジャーナリストってすごいと思う。きっと事実を事実であると認識して証明すること自体とても難しいし、それを発表するってかなりの重圧なはずなのに。本当にありがたい。

ヌーディストビーチ

この酷暑でよかったことが一つある。海で泳ぐことが楽しくなったことだ。多分体質なのだろうと思うけど、今までの夏の気温では屋外プールやらビーチやら、水から出た後の寒さが拷問にしか感じれなかった。ところが34度を超えたあたりから、外気に温められた水がキリッとした存在からタロリとしたものになる。そして、水から出た後の空気と日光がちょうど心地よくなる。暖かさと涼しさの真ん中、物理的に体内と外気の別離が最小限になる感じというか(ちなみに精神的な意味での自己と環境の境が曖昧になる感覚は、生きている間で感じた苦痛の中でも最もきつい部類のものだった。多分だけど自傷行為は、痛みによって曖昧になった自分の輪郭を再認識するためのものな気がする)。
そんなわけで、今週は週に2回もコスタブラバのビーチに出かけた。コスタブラバというのは、バルセロナから、大体40分ほど車で海岸沿いを北に行ったところにある、ジローナの海岸線とそこにある浜辺の総称(と理解している)。そして2回ともヌーディストビーチに行った。マルクマンはヌーディズムには全く興味はないけれど、そのビーチそのものが気に入っているようだ。もともとそこまでアクセスのいいビーチではなくて、かつヌーディストビーチということで、ハイシーズンでもそこまで激混みにはならないビーチらしい。
そして道路や街からのアクセスの悪いビーチは窃盗が起こりにくい。おひとり様もちらほらいて、隣で陣取っている人たちに、「ちょっと荷物見ててくれる?」と声をかけて泳ぎに行く。バルセロナの最寄ビーチ、バルセロネータではこうはいかない。バルセロナに住んでいた時に、暇すぎて一人でビーチに行こうかなと思ったけど、この荷物問題を解決する術が見当たらずに断念した。一緒に行ってくれる友達もいなかったし。
さて、ヌーディストビーチとは実は現代人にはとても健全健康スポットなのではと感じた。SNS、特にInstagramの呪縛から解放する力を持っている。特に私のように捻くれたナルシズムを持ったままSNSの情報の渦にダイブしてる人間にとっては。別に人間の姿形って正解ないよ、仮にあったとしてもそれに関わらずみんな幸せそうだよ、という現実を見せてくれる。
私は洋服にそこそこ興味があるので色々なブランドのアカウントをフォローしているのだが、いくら昨今ボディポジティブが叫ばれているとはいえ、ファッションにおける人間の形態のぼんやりとした正解がそこにある。そこに存在するというか、そのようなものを大量に見ていると私の中のディープラーニング機能が「あなたの興味のあるもののインサイダー達はこのような形態をしています(があなた自身は残念ながら違いますね)」といういらない答えを導いてくる。
さらに悪いことには、Instagramは完全に私のことをある特定のマーケティング対象として認識しているので、どコンサバの肉体美の男性の写真がガンガンに流れてくる。興味があるものだったり自認しているものだったりの内側にいるはずなのに、なぜかほんのり迫害されている気分になる。こういうものは一回一回のダメージは大したことはないものの、塵も積もれば山となるで変な方向に走らされたりする。今のスペインの若者たちの場合、どうやら極端な例では、女性であれば拒食に、男性であればホルモン注射に走るらしい。私はギリギリこの大量情報時代がくる前に自分を最小限固めることができていたので、Instagramの中の人たちの様な姿に何がなんでもならなくてはというマインドにはならなかったけれど、10歳若かったらどうなってたかわからないなと思う。本当に今の10代20代の外見主義の波はもしかしたら、見ているものとか、所属する社会によっては私たちのよりもはるかに過酷なのではと気の毒に思う。

Instagramによって半強制的に見せられる広告画像の一例。こうはなれないし、そもそもなりたくはない。けれどなんとなく「男性であるあなたは本来この様にあるべき(しかし残念ながら違う)」と言われる感じがして、しゅん…となる。

ヌーディストビーチでは年齢も性別も体型も関係なく、素っ裸でみんなだらだらしたり泳いだりしている。素っ裸でニコニコしたりリラックスした顔をしている。幸せそう。そこでは素肌や身体が見せるために存在していない。というか、SNSのせいで忘れがちだけれども、そもそも自分と自分の身体は別に見せるために存在してない。
そのヌーディストビーチでは別にヌードを強要されるわけではないので、私は終始水着を着ていた。実はヌーディストたちはヌーディズム環境においては、みんなに裸体になってほしい気持ちがあるらしい。それはそう。裸体対着衣だったら、着衣の方が強い。何かしら着るということで、社会性を纏ってくる。その社会性からくる強度の前で積極的に弱さを見せられるっていうのはまた、ヌーディズムの話ではなく、弱者と強者間の社会性の話になってくる。そんなものの議論はヌーディズムを謳歌するにあたって障害でしかない。なので、ヌーディズム環境のポジティブ面を傍観者(そんなじろじろ見ていないけれども)として傍受するのは、いささかごめんなさいね、という気持ちがあった。だけどたしかに魚がたくさん泳いでいる海の中を泳いでいる時、水から上がってサーフパンツが太ももやら臀部に張り付いた時、着ているものが感覚の邪魔になってる様に感じた。「脱いじゃおっかな」と思った。素っ裸で温水プールみたいな温度の海水で魚を追っかけるの絶対気持ちいいし、Decathlonの安物サーフパンツが肌に不快に張り付いて波飛沫の感覚が味わえないのは少し残念。海水や海風のような流体が常に閉じられている内腿を通っていくのは、どのような感覚なのか。しかもオープンスペースで。
結局は着衣を通してしまった。隣でポカポカ寝そべっている私の配偶者はなんというか様々なものに対する指向が真っ直ぐというか、とりあえず他者はどうあれ「人前では服を着ることがあたりまえです」という感覚の持ち主だと私は理解している。なので突然おもむろに私が海パンを脱ぎ始めたらきっと、止めはしないけれど隣で自分の配偶者が裸体をパブリックに晒している…と居心地の悪さを感じるだろうなと思った。一人で来ていたら、あるいは水着を思い切って脱ぎ去っていたかもしれない。免許を日本で取ったオートマ限定からマニュアルに切り替える気持ちが少し強まった。

ラッキー犬になれるように

マルクマンと出会ってから常に犬が一緒にいる。犬の仲間たちも増えた。今回、新しい仲間がやってきた。生まれて4ヶ月のドーベルマン。うちの犬たちとも上手くやっていけっそうで何より。義父母が山に小さなアパートの部屋を持っていて、マルクマンの友達であるその犬のオーナーと、犬も一緒に山に登りに行ったりする。さらに私たちがスノーボードをする際には犬たちは家でお留守番なので上手くやっていけないと何かと困ったことにしまう。なので、とりあえずは仲良くやれそうでとても良かった。

犬の仲間たちと山登りするの図
新しい仲間。足がでかい。

夏の魔物(本物)

街を歩いていたら、十五、六歳のタバコを片手に持った男子にぶつかりそうになった。めちゃめちゃ目を合わそうとしてくる。喧嘩を仕掛けられている。こんなこと中学生の時以来ない。わざと目を逸らして難を逃れたが、その男子、なんと母と小さな弟と彼女とみんなで歩いていた。そんな家族団欒で夏休みを謳歌している時に、別にわざわざ犬連れのアジア人に喧嘩売らなくてもいいだろ。ほんとになぜ。しかも街で一番人通りが多い通りで。もしなんかが始まっちゃったら、おれは喧嘩なんかしないで「助けてくださーい!!」って全力で叫ぶよ。この世界では喧嘩での勝ち負けってどうでもよくて、多少恥をかいたしても身を守ることの方が全然重要ということはこの国にきてよく学んだので。
そんなことがあったすぐ後、横道で婆さんがカップルに何やら手を叩きながらちょっかいをかけてるのにでくわした。またなかなかトリッキーな、と思ったその時「Woppaaa, dame tu polla, quero follarte(チン◯をよこせ、ヤりたいんだ(機械翻訳))」と婆さんが謎のキレのいいフラメンコのような動きと共に、こちらに言い放ってきた。婆さんの連れと思われる、ベンチに座っている恰幅のいい女性は大笑いしている。あまりにもシュールな状況だったから、マルクマンがむすっとしている横で、私はニヤニヤしてしまった。なんだったんだ。
やはり夏休みシーズンが始まって、人々が浮かれているとともに謎の人物たちも活発になってきてる。日本だと春に変質者が増えるというけれど、こちらでは夏の方が増えるのだろうか。それとも暑すぎて頭がどうかしてしまっているのだろうか…。

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