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思い返せば、人身を商う雰囲気だった

アナウンサーが大企業良いよ、お金を貰いつつ仕事内容を学べるよ、と就活生にアドバスしたという内容のツイートが流れてきた。Amebaのニュースがどうしても苦手なのでその元動画は見ずに、もんもんとそのことを考えながら朝ご飯で使ったお皿を洗っていた。その時ふと、高校の時の進路指導の一環で入隊案内にやってきた現役海上自衛隊員を思い出した。思い出せば思い出すほど、考えれば考えるほど、その入隊案内の場には何か良くない引力の場が展開されていたように思う。

その現役隊員曰く、海上自衛隊に入隊するとお得な人生が待っているという。生活にかかる一切のお金がかからず、お金がたまり、車も買える。訓練内容や実務の話は全くと言っていいほどしないで、お金の話のみしていた。全然お金を使わないってお金が貯まるんだなぁと、消費が主な行動原理だった高校生の時のわたしは思った。なんだか、RPGの序盤でレベル上げをして無双する良さみたいな感覚をその現役隊員の話から覚えた。そして、現役隊員の丘やら貯金やら車やらの単語で、わたしはその時生まれ育った商店街の端にある風俗街(下校道だった)とジブリ的な真夏の昼下がりのさわやかな海風が吹く海辺の町が混ざった異空間で白い軽自動車を運転している現役隊員の姿の妄想をしていた。爽やかな海風と彩度をばっちばちにあげる夏の日差しの中に、しかしながら一寸の不穏が漂う。敵(人生における困難)をレベル(貯金)によってなぎ倒す爽快さの中にあるバキューム。日常に普通にある絶望的なまでの、「ある」もしくは「知っている」ことによる暗澹。

知っている行き先は安心するし、安心できる状況は魅力的なことはわかる。安定、貯金、車。バブルが崩壊するまでの日本では、少なくとも現在と比べると一般的に手に入れることができたポップな富。社会はその富が与えてくれる安心感を、ローリスク・ハイリターンな最適解として「知っている」。その「知っている」こと、もしくは過去にあった価値観の個人レベルにおける具現を可能にするお金。
漫画の世界でしか知らないけれど、多分女衒は田舎の貧乏人の家の女児に夢を見させて遊郭まで自分の足で歩かせたような気がする。きれいなおべべや美味しいおまんま。それはもう「ある」もしくは「あった」。客観的綺麗さ優美さは、過去の人間がそのように感じたと表現したものの集積だし、煌びやかな食事は古今東西VIP感の象徴に違いない。どこにも「ない」もしくは「知らない」のはそれらの具現に必要な金銭を得るために労働をする、質を伴った主体。

その後、いうまでもなく海上自衛隊に入隊することはなかった。こちらとしても海上自衛隊ってどういう事をするのかなっくらいの気持ちしかなかったし、まず勧誘ターゲットはおそらくガリガリの進学クラスのわたしではなく、ゴリッゴリにスポーツと筋肉発達に心血を注いでいる、スポーツ特待の生徒たちであることは参加する前にわかっていた。そして「知っている」ものの中でも、妄想の中の現役海上自衛隊員の状況が魅力的でなかったということもある。基地や海上での生活から丘に帰ってきて、貯金をしたお金で買った車を走らせる。世界の大半を他人事として見ることができるようになる、公務員という立場や預金残高に支えられている安定した生活。魅力的でなかったどころか、焦燥すら感じる。その先には何があるのだろうか。自分の子孫に囲まれ見送られる、自宅の寝床からのあの世への旅立ちだろうか。

わたしには「ある」ものに囲まれたまだ「ない」けれど「あったかもしれない」自分の姿を想像する力がなかった。ただ「知っている」ものだけで海上自衛隊に入隊した未来を頭の中で作りあげた。その状況における仮の主体も、すでにその状況にすでに在る現役海上自衛隊員にすり替えた。この主体を自分と一致させることができたら、もしかしたら結果は違ったのかもしれない。しかし実際のところは、この主体すらも与えられた情報で構築された乏しい想像によって、「あったかもしれない」未来に白けてしまった。ただでさえ退屈が嫌だったのに。朝起きて、学校に行き、クラスでは一人でいて、夜帰ってご飯を食べて寝る。一日の中身として大部分を占めるのは受験勉強で、なにをしなくてはいけないのかも「知っている」。手早く解かなくてはいけない問題のバラエティの大半も、解けないけれども「知っている」。この絶望的につまらない作業の先にある偏差値の高い大学へ入学や、さらにその先にある大企業への就職という未来もすでに「ある」。わたしたちが社会の主たる構成員である約40年において、社会は前の世代におけるそれとはそこまで変化しないであろうという前提のもと、先人たちの集合知で弾き出された最適解。そこに集約され、安定を手に入れるために温度のない粘土に押しつぶされるような苦痛に耐える日々。全部「ある」し、「知っている」。そして逆説的に、その最適解から外れた未来も「ある」し「知っている」。どちらがましか。

ただその時、わたしが理解していなかったのはある状況に置かれ、感じ、行動をする主体は自分だということだった。海上自衛隊に入隊する、もしくは大学に行って就職をする。そんな状況に組み込まれてそこで発現する、その状況おける主体としての自分の質は実際にその状況に置かれるまでは「ない」。「ない」からだれも「知らない」。だけど、その実際にその状況に置かれて「なかった」ものを自分の質として実感した時、その体験は自分にとっての最も強度のある現実になる。おそらくその現実は自分の主体性の実感をより強固なものにする気がする。「ある」価値観を追い求めすぎると、その価値観が認める状況、もしくはその価値感が認める状況の真逆の状況を体験するまで自分という主体が脆いままになってしまう。

記憶の中の現役海上自衛隊員の女衒的な香りは、すでに存在している価値観を隠れ蓑にして、起こりうる主観的状況に直接関わる事柄を全く明示せずに、主体が自分であると理解していない人間に自ら歩かせるところにあるのかもしれない。だけど、同じ手法はありとあらゆる場所で使われている。というか、「あったかもしれない」状況に自分を組み込めなかったわたしは、あの時別の女衒に引かれていた。「ここに絶対的正解がある。これを知って、かつ実現すれば不幸は絶対訪れない。」何か自分が能動的に動いていると錯覚させるものは、常にそういうものなのかもしれない。


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