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10/28 ヒマラヤ登山・トレッキングでのシェルパの存在

思いがけない激励

高山病の不安に取り憑かれながら、深夜に何とか眠りについて、翌朝起きたらスッキリしていた。寝ると呼吸が浅くなるので、高山病が悪化するんじゃないかと思っていたけど、そんなことはなかった。ほっとひと安心。

食堂に行くと、ゆかちゃんも「治りました」とスッキリした顔をしていた。前日、もしかしてこれ以上行くのはきついのかなと思って、「フォルツェまで行ける?」と聞いたら、はっきりとした口調で「行きます」と言っていたので、何とかよくなってほしいと思っていた。よかったよかった。

この日は、クムジュン(標高3,780m)を出て、モンラ(3,973m)まで2時間弱ほど登る。その後、一度フォルツェ・タンガ(3,680m)まで下って、フォルツェ(3,810m)へと1時間弱ほど登り返す。

フォルツェ(ポルツェと書いてある場合もある)へは、ゴーキョに向かう道から一度外れて登っていくことになる。一昨日と昨日、私たちのようすを心配したナワンくんが、「フォルツェ・タンガにも2軒だけロッジがあるから、そこが空いてるか電話して聞いてみることもできるよ」と言ってくれていた。けど、この調子ならみんなフォルツェまで行けそうだ。

フォルツェはクムジュンとほとんど標高が変わらないので、ここでもう1日高度順応するイメージ。明日以降はどんどん標高を上げていくので、明日フォルツェで具合がよくなかったら、その後の行動は考えなければいけないと思っていた。

クムジュンのロッジを出るとき、ロッジのおばあさん(おばさんかもしれない)が「気をつけていくんだよ」と、カタという布を私たち一人ひとりの首にかけてくれた。カタとは、チベット文化圏で儀式や送別のとき相手に贈る布のこと。昨年来たときは、無事歩き終えたお祝いに、ナワンくんが私たちにプレゼントしてくれた。

今回、ここでカタを贈られるとは思っていなかったので、感激してちょっと泣きそうになった。昨日は、ゴーキョ・ピークまで行けないかもしれないとかなり弱気になっていたが、「応援してくれたおばあさんのためにも、絶対に行こう」と思った(今思えば、もしかしたらナワンくんが用意してくれたのかもしれないけど)。おばあさん、本当にありがとう。

弟分ソナムくん登場

ここでもう一つ変化があった。アシスタントガイドとして、シェルパのソナムくんが私たちのパーティに加わったのだ。

昨夜、ナワンくんから「明日からはソナムが来るから、辛かったらソナムや僕に荷物全部渡していいからね」と言われていた。アシスタントガイドが加わることは当初は聞いていなくて、もしかして私たちの体調を見て、呼んでくれたのかな?と思った。ソナムくんは、前日まで別のパーティのガイドをしていて、昨日ルクラからクムジュンまで登ってきたのだという。私たちが3日かけて登ってきた道を、私たちより重い荷物を背負って、1日だ。やっぱりシェルパ族は違う。

ナワンくんと同じクムジュン出身、大学で電気工学だかを学んで卒業したばかりの、確か22歳ぐらい。大学を出たものの仕事がなくて、今は臨時でアシスタントガイドをしているものの、ガイドになる気はないらしい。以降、仲良くなるにつれて、弟キャラを発揮して、私たちを笑わせてくれる存在になる。

さて、昨年私はクムジュンまで歩いてきていたので、ここからはいよいよ未知のゾーンへと入っていくことになる。

クムジュンからモンラへの道は、ところどころ岩岩したザレ場がありつつも、なだらかな登り。登りきったモンラでティーブレイク。モンラには、ロッジが3軒ほどとストゥーパが1つあるだけだが、少し小高い丘になっていて眺めがいい。帰りはここに泊まるというから、きっと気持ちいいだろうな。

ここからフォルツェ・タンガまでは、かなり急な下りになった。「帰り、ここ登りたくないな・・・」そう思いながら、どんどん下る。登り返してくる人たちも、心なしかウンザリした顔をしてる気がする。フォルツェ・タンガで分岐を右に折れ、橋を渡って、フォルツェへの登り坂に入っていく。森の中を1時間弱ほど登ると、フォルツェに到着した。

写真はモンラからみたフォルツェの村。後ろの雪山はアマダブラム。

ヒマラヤ遠征隊の影の存在、シェルパ

フォルツェに着くまで、私はフォルツェがどんな村なのかまったく知らなかった。着いてみると、クムジュンとよく似た雰囲気の、もう少し小さな村だった。

「ここは伝統ある村のなの?」とナワンくんに聞くと、クムジュン同様、昔からある村だという。ここより上のロッジは、だいたいクムジュンかフォルツェ出身のシェルパ族が経営しているのだそう。フォルツェにもロッジやレストランは少なく、小学校と寺院があるのと、ヒマラヤ遠征隊についていくシェルパのためのクライミングスクールを建設中とのこと。見たいというと、ロッジのすぐ裏だから、荷物を下ろしたら見に行こうと言ってくれた。

毎日歩く時間も距離もそんなに長くないので、朝出発すると、だいたいお昼ごろには宿泊地に到着する。着いて少し休憩したら、高度順応を兼ねて散歩するのが、ほぼ毎日のスケジュールだ。この日は学校と、建設中のクライミングスクール(クンブクライミングセンター)を見に行った。

写真は建設計画の看板だけ。

「フォルツェには、エベレストに登頂したことのある人が50人ぐらいいるんだ。だいたい1家族に1人、登頂している計算になる。クライミング専門スクールは海外からの援助で作っていて、ここでは座学、この近くでアイスクライミングの実習もするみたいだよ」とナワンくん。

16名が犠牲になった2014年の雪崩事故のように、シェルパには山の事故で亡くなる人が多いので、クムジュンでは遠征隊に参加したがる人が減っていると聞いた。ナワンくんにも「8,000m峰に登ったことある?」と聞いたら「NO。事故が怖いから」と言っていた。「山で大勢仲間を亡くしているし、中には妻子を残して死んじゃったやつもいる。僕はそういう仲間の遺体を運んだりしたこともある。だから登りたくないんだ」

その気持ちはわからなくもない。海外から遠征隊が来て、シェルパたちが一生懸命荷揚げしたりルート工作したりして、登頂に成功しても、クローズアップされるのは海外の登山家ばかりだ。報道でも、シェルパの姿はできるだけ映さないようにしている。彼らが映ると、実は登山家じゃなくてシェルパがすごいんだとわかってしまうから。登山家が亡くなるとその名前が報道されるけれど、シェルパが亡くなっても「シェルパ何名」だけだ。

シェルパたちのほとんどは、おそらく山に登りたくて登っているんじゃない。生活のために、仕事として登っているのだ。そして、皮肉なことに、海外からの支援でシェルパ族が裕福になってきた今、登りたがる人が減っている。当然と言えば当然だろう。

とはいえ、シェルパたちが遠征隊についてきてくれなかったら、海外からの遠征隊は登頂できなくなってしまう。だから、海外から援助してアイスクライミングスクールを作るのかもしれない。

お金の問題だけじゃなく、シェルパがもっと尊重・尊敬される存在になってほしいと思った。

シェルパやトレッカーとの楽しい一夜

夕方ぐらいからまた軽い頭痛がしてきて、あまり食欲もわかなかった(このころは、あやのさんだけ食欲絶好調で食べていた)。標高の高いところに着いて、だいたい5時間後以降から高山病の症状が出るらしいので、夕方ぐらいから体調が悪くなるリズムなのかもしれない。夕飯は軽めを心がけようと思った。クムジュンでの不調以来、1日最低2Lは経口補水液を飲むようにして、努力呼吸も意識的にしている。

食堂での夕食が終わったころ、アメリカ人のグループとロッジのおしゃれボーイが、ギターと太鼓で歌を歌い出した。カントリーロードとか、あとはアメリカのヒットソング。食堂にいる人たちみんなでそれを聞いて、一緒に歌ったり、拍手をしたりしていた。なんかいいなあ。

いったん部屋に戻った後、トイレに出ると、ゆかちゃんが「ナワンくんがギター弾いて歌ってる」と言うので、もう一度食堂に行ってみた。ストーブを囲んで、ナワンくんとソナムくん、他のシェルパ、ロッジのおしゃれボーイ、おばちゃん、ネパール語?シェルパ語?のできるアメリカ人、オーストリア人の素敵夫婦(カップル?)などが集まり、おそらくシェルパ族の古い歌を歌っていた。

どこの国でもだいたいそうだけど、フォークソングってコード進行が単調だ。「全部同じ歌に聞こえる」とゆかちゃんが言うので笑った。なんとなく知ってる(このトレッキング中にKindleで読んでいた本に出てきた)歌は「レッサンピリリ」ぐらい。レッサンピリリ、覚えたいなあ。

歌っていたシェルパの人たちや、太鼓を叩いていたアメリカ人が、オーストリア人夫婦や私たちにも「何か歌いなよ」とギターを差し出す。オーストリア人夫婦は、何かネットで検索して、女性のほうがギターを弾きながらドイツ語の歌を歌ってくれた。

私たちは二人ともピアノ派でギターが弾けないので(コードがCとG7だけの雪山賛歌なら、大昔に弾いてたけど・・・)、YouTubeで流しつつ、歌詞を見つつ「上を向いて歩こう」を歌った。なぜこの選曲かと言うと、この歌は「SUKIYAKI SONG」として海外でも人気だったと聞いていたからだ。しかし、実際歌ったら誰も知らなかった・・・。今思えば、雪山賛歌もあのシーンに合っててよかったかもしれない。

ネパールはトレッキングも楽しいけど、トレッキング以外の地元の人や他国の人と触れ合う時間も楽しい。ここでずっとトレッキングしていたいなあと思った。高山病は怖いけどね。

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