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10/26 外国人登山者がネパールにもたらしたもの

トレッキングとは道中も楽しむもの

前日のトレッキング1日目は、空港のあるルクラ(標高2,840m)からザンフチ(Zam Futi、標高2,730m)まで、登ったり下ったりしながらゆっくり4時間ぐらい歩いた。2日目のこの日は、ザンフチからナムチェ(標高3,445m)まで、7時間ぐらい歩く。今回のトレッキングの中で最も歩行時間が長く、標高も上がる、いちばん大変な日だ。特にジョルサレ(標高2,740m)を過ぎてからはロッジもなく、高低差600mの急坂を一気に登らなければいけない。

その前に、エベレスト街道のトレッキングについて、思いつくままにざっくり説明しておこうと思う。エベレスト街道のルートについては、以下に簡単に書いた。

エベレスト街道の中でも、ルクラからエベレスト・ベースキャンプやゴーキョ・ピークへのルートは最もメジャーで、世界各国の多くのトレッカーが歩いている。道中にはロッジ兼レストランがたくさんあって、2時間も歩けば次のロッジにたどり着ける。ロッジでは宿泊や食事、お茶ができ、ミネラルウォーターやお菓子なども売っているので、大量の食べ物や飲み物を持ち歩かなくても大丈夫。また、ロッジでの宿泊は、基本的に2人部屋で1泊500ルピー(約500円)程度なので、お金もそれほどかからない。

ちなみに、今回のトレッキングでいちばん高級だったゴーキョの部屋がこちら。どこもベッドが2つあるだけの簡素な作りが基本だ。

高山病にならないためには1日に500m程度しか標高を上げられないため、1日の歩行時間は3〜7時間程度。体に負担をかけないためにも、ゆっくりゆっくり登っていくほうがよい。なので、朝もそれほど早く出発しないし、途中でお茶したり、ランチしたり。のんびり歩く道中も含めて楽しむのが、エベレスト街道のトレッキングだ。時計とにらめっこしながら「立ち休憩5分!」みたいな日本の登山とはかなり違う。

それと、荷物について。私たちはルクラまでの飛行機に15kgの荷物を乗せてきたが、これを全部自分で背負って歩くわけではない。10kgちょっとのダッフルバッグは、シェルパのナワンくんが手配してくれたポーターに預けて、私たちは歩くときに必要なものだけを背負う。ポーターたちは歩くのが速いので、朝ピックアップしたダッフルバッグを、私たちが着く前に次の宿まで運んでおいてくれる。

特に若いトレッカーの中には、自分で荷物をすべて運んでいる人も少なくない。けれど、現地にお金を落とす意味でも、私は無理せずポーターを手配したほうがいいと考えていた(あとから思えば、自分で荷物を背負っていたら最後まで歩けなかったかもしれない)。実際、彼らの人件費は私たちにとって大した金額ではないけれど、彼らにとっては大きな収入源だ。

エベレスト街道イチ賑やかな村、ナムチェ

さて、トレッキング2日目の話に戻って。

モンジョという村を越えると、いよいよ「サガルマータ国立公園」の中に入っていく。

ジョルサレでランチを取り、ドゥードゥーコシ川の川原を歩いて、高い吊り橋を越えると、いよいよ長い急坂だ。

昨年来たときもそうだったが、先頭を行くナワンくんの歩き方は、一定のスピードを保っていて、とてもゆっくりだ。だから、標高が高くても急坂でも、私たちは息が上がって苦しくなることなく、歩き続けることができる。途中、スピードの速い欧米人などにどんどん抜かされたりもするが、宿に早く着いたところでのんびりするしかないので、急ぐことはない。

というわけで、急登でもそれほどきつくはない。が、ナムチェに着くまでの道のりは、やはり長く感じた。道の先にようやく家が見えてきたときはホッとした。途中、今回初めてエベレストの姿を、遠くにちらっと見ることもできた。

ナムチェは、エベレスト街道最大の村だ。もともとはヒマラヤを越えてやってくるチベットの人々と、下からやってくるネパールの山地の人々との交易の地だったらしい。特に金曜の午後と土曜の午前は地元の定期市が開かれ、到着したのがちょうど金曜の夕方だったので、そのようすを少し見ることができた。と言っても、食料や衣料が中心で、観光客の買うようなものはほとんどない。

ナムチェには、トレッキング用品店やお土産店などが充実している。薬局も銀行も両替所もあるし、ハンバーガーショップやアイリッシュパブ、ベーカリー、日本食レストランもある。

この日は到着した時間が遅かったので、お土産をざっと見る程度で宿に戻った。下山時、昼にナムチェを通るときに観光の時間を取ろうと、ナワンくん。ほとんどのトレッカーが歩いている昼間は、朝や夕方より空いているのだそう。

現地シェルパに聞く、ネパールのトレッキング史

この日の宿は、『A.D.フレンドシップ・ロッジ』。荷物を下ろしてお茶していると、ナワンくんが「ここのオーナーが日本人で、ちょうど日本人グループのツアーで今晩はここにいるらしい。日本人グループに日本食を出すから、よかったら同じものを出してくれるっていうけど、どうする?」と聞いてくれたので、お願いすることに(今検索してみると、オーナーのアンドルジさんは日本人ではなくて、日本の山小屋でも働いていて日本語が話せる人とのこと)。

夕飯は、トンカツと味噌汁、野菜炒め、ごはん。久々の豚肉に、味噌汁はしっかり日本の味で、ごはんもこちらの細長い米ではなく日本米のような太い米。おいしくいただいた。

食後、ネパールのトレッキングの歴史について、ナワンくんがいろいろと解説してくれた。以下、ナワンくんの話(裏は取ってないのと、一部うろ覚えなので、正確性は保証できない)。

「ネパールのトレッキングの歴史ってそんなに古いわけではなくて、1950年からなんだ。それまで外国人はこのエリアに入ってくることはなかった。この歴史にはエカイ・カワグチ(河口慧海)っていう日本人が関係していて、この人のことはその本(『地球の歩き方』のこと)に載っているべきだと思うんだけど、載ってる?(見た限りでは載ってない)

彼に関しては、面白い話があるんだ。彼はチベットに行こうとしたんだけど、当時チベットは鎖国状態で、そのままでは入れない可能性が高かった。だから、地元の言葉を勉強して、地元の人のふりをして、ネパールからチベットに入国したんだ。その後彼は3年間チベットに住んで、“3 years in Tibet"という本も出しているよ。ちなみに今、チベットからの難民を防ぐために、チベットからネパールに入るルートは封鎖されてるんだ。

(この辺りからかなりうろ覚え)その後、あるロシア人がヒマラヤに来て、帰国後その魅力を話したことで、ヒマラヤが注目された。ネパールの国王は『登山はお金になる』と気づいて、お金をとって登山者やトレッカーを受け入れ始めたんだ。

20年ぐらい前はトレイル沿いに何もなかったけど、まずティーハウスができて、ロッジができて、今みたいな形になった。この辺りの人たちは、もともと農業で生活していたけど、世界中から登山者やトレッカーがたくさん来るようになって、ガイドやポーター、ロッジ、レストランで生計を立てるようになったんだよ」

ちなみに、ナワンくんが後日教えてくれた、20年ほど前まで宿泊地とされていた場所の一つがこちら。なるほど、今のロッジとは雲泥の差だ。

ネパールが抱えるアンバランスさ

ナワンくんの話を聞いて、ネパールの山岳地帯、特にアンナプルナエリアを歩いていたときに感じた、文化というか金銭感覚というか、そのあたりのアンバランスさの理由が、少しわかった気がした。彼らはトタンと石で作ったような、貧しく脆そうな家に住んでいて、テレビなどの電化製品は家にはない。けれど、なぜか若者でも1人1台スマホを持っていて、(おそらくニセモノの)アウトドアブランドの服を着ている

昔ながらの生活で貧しいながらも満足していた彼らのところに、ここ数十年で外国人が自分たち基準の豊かさを持ち込んだことで、彼らの生活が少なからず影響を受けたのだろう。アンナプルナエリアでハイキングをしていたとき、人懐こい子どもが近づいてきて、かわいいなと思っていたらさらっと"Give me money"とものすごい現実的なことを言われて、衝撃を受けたこともあった。

しかも、山岳地帯の中でもエベレスト街道に住んでいる人たちは、トレッカーや登山者の恩恵を大いに受けている。さらに、その中でも登山ガイドを務めるシェルパ族は、今や特に豊かな民族になっている。けれども、他のエリアに関してはこの限りではないはずだ。このように貧富の差が拡大したのも、外国人トレッカーや登山者の影響に違いない。そしてそのことが、ネパール全体にとってプラスだったのかどうか・・・。

私自身、ネパールより経済的に豊かな国から、その文化を持ってトレッキングに来ておきながら、そしてここにお金を落とすことを良しとしておきながら、これは本当によいことなのか、わからなくなってしまった。少なくとも、ナワンくんという現地の人からネパールの事情を聞いて知ること、それについて彼とディスカッションすること、そしてそれを日本で伝えることは、悪いことではないような気がする。

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