『自己肯定感を高めよう』呪縛から解き放たれるために
ご無沙汰しております。
今回は、自分による自分に対しての評価について考えてみたいと思います。最近よく耳にするのが自己肯定(感)という言葉です。これは、自分のことを指す自己という言葉と、評価の意味の肯定という言葉を合わせた概念です。自己肯定の後に感という言葉をつけて自己肯定感としていることもあります。自己肯定感とすると、感覚的感情的意味合いが濃くなるような印象です。今回の記事では、自己肯定(感)という言葉を軸にしてさまざまな視点から考えてみたいと思います。
自己肯定(感)
そもそも、自己肯定(感)という言葉はいつごろから言われ始めたのでしょうか。ここではあえてその検証はしませんが最近のような気がします。それよりも、自己否定という言葉の方が多く言われていたような印象です。その対極として自分のことを大事にしないといけないということで、自己を肯定する、もしくはそのように感じるようにする自己肯定感という言葉が出てきたように思われます。
特に自己肯定感は、そのように思う、感じることですから自由なわけです。なのになぜ、これほどまでに多く聞くようになったのでしょうか。少し前になりますが、一時期『意識高い系』という言葉が出回ったことがありました。それは、自分がより高みを目指そうとする意欲、すなわちその意識が高い人たちのことを指して言われていました。また、そういう人たちのことをカテゴリー化させて、一種の好奇な目で見て揶揄する意味でそう表現することもあったようです。
自己肯定(感)というのは、自己概念のひとつです。書店には自己肯定感を高めようとする本がたくさん並んでいます。ネット記事でも同様です。『こうすると自己肯定感が高まる』とか『自己肯定感を高めるためにすることはたったの○○』というような、誰でも手に取りやいキャッチ―な言葉があふれています。しかし、私はこのようなことには惑わされないようにしないといけないと思っています。自己肯定(感)は自尊心と似ていますが、自尊心は高めれば高めるほど良いということではありません。むしろ高めすぎることによる弊害があるとされています。それでは、自己肯定(感)や自尊心をどのようにほどほどに保てばいいのでしょうか。
一般的信頼
心理学では一般的信頼という言葉があります。また、個別的信頼という言葉もあります。個別的信頼は特定の人や集団・組織などを指します。一方の一般的信頼は人間一般に対しての信頼になります。以前のテレビドラマで『渡る世間は鬼ばかり』というものがありましたが、これは「渡る世間に鬼はなし」という言葉をもじっているのですよね。この「渡る世間に鬼はなし」というのがまさしく一般的信頼が高いことと言えます。一方で、「人を見たら泥棒と思え」という言葉もあります。これはその名の通り、一般他者に対して信頼が低いことを言います。みなさんは、一般他者に対してどちらでしょうか。
自分のことを大事に思うことはだれでも同じだと思います。自分は傷つきたくないと誰もが思っています。特に日本ではそう思う傾向が顕著です。転職の相談では特にそう感じることがあります。多くの求人の中から応募したい求人を探し出し応募を検討する際に必ず突き当たる問題があります。それは、その職場の人間関係です。その企業風土がどんなものかがある程度分かれば職場での人間関係も類推することができます。しかし、入社前からそれを探るのはほぼ不可能でしょう。そうすると、応募要項の中で少しでも人間関係が良好でないと感じる文言が見当たれば応募を躊躇してしまう人が多くいます。自分自身を大事に思うがあまり、転職の機会を逸してしまうことが多くあります。これも、他者一般に対する一般的信頼が低いことから考えられる現象だと思います。
コミットメント(関係流動性)
対人関係をなんとかしていこうとか、多少傷つけられてもそこから関係性を修復しようと思う人は少ないのかもしれません。アメリカでは一般的信頼が高いと言われています。多少傷つけられても、だまされたとしても他者に対する信頼はそこまで低くならないと言われています。アメリカでは日本に比べ他者とのコミットメントが高いことがわかっています。つまり、自分は多くの人とコミットメントする代わりに多くの犠牲を被ることもあると認識しているということです。より多くの人とコミットメントすることによって良好な関係を築くこともあれば、逆に傷つくことだってあるわけです。しかし、そうすることによって自分の他者に対しての見極める目が養われるのではないでしょうか。
日本ではコミットメントを高める(広める)方向ではなく、ある特定の人とのコミットメントをより深めようとする傾向が高いのではないでしょうか。絆という言葉が今より多く言われた時期がありました。ここでの絆はより強く深い絆です。数多くの人とのコミットメントよりも特定の人とのコミットメントを高めようとすることとの違いですね。
私は、自己肯定(感)を高めようとする言説に惑わされないヒントがここにあるように思います。自分のことを肯定するのか否定するのかは、多くの場合、対ひととの関係で謳われることが多いです。確かに、上記に書いたように日本的な一般的信頼が低い社会でも、アメリカのような一般的信頼が高い社会でも対人関係において傷つくリスクは当然あります。しかし、自分自身の内面として、「人を見たら泥棒と思え」という社会への見方は精神的に脆弱なように思えます。そのような社会は、成熟した社会とは言えないように私は思います。
社会的知性
ここで重要になってくるのが社会的知性です。これは、どのような人なら信頼に値し、どのような人なら気をつけないといけないと注意した方がよさそうな人なのかをある程度見極める能力のようなものです。また、この社会的知性は、もし自分が騙され、傷つけられたとしてもそこから自分を回復させることも含まれます。これこそが、「自分をより高めるという意味での自己肯定(感)」の呪縛から解き放たれるヒントなように思えてなりません。
高齢者に対する生きがい感に関するある心理学の研究があります。これは、端的に言うとコミットメント(関係流動性)が高齢者の生きがい感に影響を及ぼすというものです。この研究では、他者とのコミットメントがより強固な場合と緩やかな場合とで比較しました。コミットメントのことをこの研究では紐帯と言われています。すなわち、より強固な紐帯よりも緩やかな紐帯の高齢者の方が生きがい感が高いことが示されました。より親密な他者との関係よりも、地域社会であいさつ程度の関係性をもっている高齢者の方が生きがい感が高いことがわかりました。これは何を意味するのでしょうか。
もちろん、生きがい感と自己肯定感は厳密には別の概念です。しかしながら近接の概念でもあります。幸福(感)と言ってもいいかもしれません。私たちの自分に対する評価は他者との関係によって影響を受けることは確かです。しかし、今の社会では自分よりも他者の方に視点力点が置かれているように思います。
みなさんは、「渡る世間は鬼はなし」でしょうか?
それとも、「人を見たら泥棒と思え」でしょうか?
また、人との関係は強い紐帯でしょうか?
それとも、緩やかな紐帯でしょうか?
今回は、自己肯定(感)をさまざまな視点から考えてみました。書店に並んでいるキャッチ―なタイトルや、タップ・クリックをうながすようなネットの記事のタイトルには惑わされないようにしましょう。自己肯定感を高めたり、自尊心を正常な範囲で持続させたりするようなヒントはそこにはないと思っていいでしょう。すぐに目に付くところ、すぐに手に届くところに自分が幸せになるヒントはありません。
ここまで長文を読んでいただきありがとうございました。最後まで読んでいただいた方の何かしらのヒントになれば幸いです。
今回はここまで。
また次回、よろしくお願いいたします。
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