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「葬送のフリーレン」を読んで思い出したこと

千年の時を経てもまだ少女のままの、とんでもなく長寿のエルフ族であるフリーレン様による、思い出探しの旅の物語。とても面白いです。ネットで無料で読めますので是非。(この記事は、私の単なる回想話です。この物語の解説とか、そういうのではありませんのでご注意ください。)

確かに、千年も生きていれば、彼女にとっての思い出話は、普通の人間にとっては伝説の世界、ってことになるんだろうけど、このシチュエーションってぐさっと刺さる。私は彼女の人生のほんの6%程度しか生きてないんだけど、私にはこの感じ、デジャブ感がある。要するに、私にとってはついこの前の話なんだけど、既に無くなってしまった世界のお話というわけです。お時間の許す方は、少々お付き合いのほどを。


いまは昔のお話を少し①(昔のPC;パソコン時代)

高校生の頃、個人所有のコンピューターはマイコン(マイクロコンピューター)と呼ばれていて、参考書籍は、ロジック回路(NAND回路とかOR回路)の解説とICチップの半田付けから始まっていた。動作周波数は数百キロヘルツ単位だから、最近のPCの1000分の1以下のスピード。

大学生の頃(1980年代)、個人所有のコンピューターはパソコン(パーソナルコンピューター)と呼ばれるようになった。メーカー毎にOSや周辺機器とのインターフェースも異なっていた。この頃から、動作周波数が数メガヘルツ単位になった。最近のPCの数百分の1程度のスピード。

バイトして貯めたお金で買ったパソコンにプリンターを繋ぎたかったけど、プリンター自体がパソコンと同額程度という具合に高額だったし、接続するパソコン毎に異なるインターフェース基板を別途購入しなければならなかった。これだけで数万円かかり、昨今の一般的なプリンタ本体に匹敵する値段設定だった。

この頃はなぜか、メーカー製パソコンの回路図の入手が容易で、お金は無くても時間と労賃がフリーだった私は、秋葉原で仕入れたICチップを半田付けしてインターフェース基板を自作。CPUの機械語をハンドアセンブル(ソースコードを変換テーブルを参照しながら16進数の機械語に変換)してパソコンに打ち込み、今で言うところのドライバソフトを作成した。そういえば、パソコンとプリンタの動作の同期をとるために、それぞれの動作周波数から逆算して、プログラムの中に「何もしないで●●サイクル待つ」なんて処理してたよなぁ。なんという無駄!

今でこそ、アプリがハングしてPCが操作不能になることは、OSの進化によって稀になったと思うけど、この時代はそんな安全機能はないから、機械語プログラムにバグがあったり、打ち込みミスをしたりしてたら、それこそ何が起こるかわからないので、実行前には必ずフルバックアップしてたなぁ。

このころは、アプリは自分でつくるもの、もしくは雑誌に公開されたソースコードを自分で打ち込むものだった。また、日本語といえばカタカナで、漢字は図形として表示できるだけだった。

いやぁ、牧歌的な古き良き時代でした、、、良かったか?!


いまは昔のお話を少し②(大型ホストコンピューター)

大学教授のお手伝いとして、プログラミング実習の助手をしてたとき、大学の大型コンピューターセンターへの自由な出入りを許された。ガラス張りで空調の整った「関係者以外立ち入り禁止」の部屋はまるで神聖な神殿を彷彿させ、私は怪しげな儀式を司る神官にでもなった気分だった。

大型コンピューターへの命令は、一枚のカードに一行分のプログラムを穿孔したものの束を読み取らせ、実行結果は応用用紙(今でもあるのかな?)という1ページがA3位のサイズの連続用紙に印刷される仕組みだった。プログラムをミスると、トンデモ無く出鱈目な内容が、一気に大量に印刷されてしまう。プログラムを実行させたらいつもプリンタのところに走って行って、ストップボタンに手をかけていたなぁ。

一つのプロジェクトが終わっったあとに残された大量のプリントアウトをみて、どれだけの森の木を消費してしまったのかと、心が痛むところがあったなぁ。


いまは昔のお話を少し③(ネットワークの草分け)

1980年代当時、インターネットは政府や研究所、大企業向けで敷居が高く、個人は草の根的にパソコンを通信回線を介して繋ぎ、メールやファイルのやり取りをしませんか?という世界だった。友人のパソコンを繋ぐためにRS-232Cというシリアル接続規格に準拠したケーブルを自作して、「メーカーが異なるパソコンを繋いで、データのやりとりができる!」って喜んでたら、「それで何が楽しいの?」って冷たく言い放たれたのが忘れられない。

いま、ネット接続されていないPCって、楽しいですか?


いまは昔のお話を少し④(社内システム開発)

社会人としてコンピューターエンジニアの仕事を始めた時(1980年代)、企業にとっても大型コンピューターという資源は貴重なものだった。システム開発の作業の半分以上は、普通の事務机で行われ、実際のコーディング(プログラムを打ち込む作業)、実行、動作確認の時だけコンピューター端末へのアクセスが許可された。デバッグ作業(プログラムの修正)はソースコードと実行結果が印刷された分厚い応用用紙(前述)を抱えて事務机で行うのが常だった。

システム開発作業が月末の処理のピークに被ろうものなら、ホストコンピューターのオペレーター(業務用プログラムを実行させる人)から「誰や!このクソ忙しい時にプログラムのコンパイル(ソースコードを実際のプログラムに変換する処理。CPU負荷が大きい。)なんか実行する奴は!」と叱り飛ばされ、ひどい時には処理を勝手にキャンセルされたりしてたなぁ。
でも、システム開発納期は絶対に伸ばしてくれなかったなぁ。


、、、とまぁ、思い返したら今とは異なる世界に住んで居たなぁ、時代は思いっきり変わったなぁ、あの頃は一体何やってたんだろう、、、なんて思った次第です。

フリーレン様も、こんなことをいっぱい感じながら生きてるんじゃないかなぁ??? どうなんだろ。

この続きはいずれまた。


(もし冒頭にご紹介した物語の世界観を害していると感じられたら本当にごめんなさい。単なる酔っ払いの戯言だと聞き流してください。)


葬送のフリーレンについて詳しく知りたい方へ

こちらに、ゆうさんによる秀逸な解説記事があります。是非ご覧ください。


ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


、、、ぜんぜん、駐在員生活に関係なかったなぁ、、、

これまでの収益は全て、それを必要としておられる方々へ、支援機関を通して寄付させていただきました。この活動は今後も継続したいと思っています。引き続きよろしくお願いいたします。