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【保存用ログ】ワークショップ第08回[20200525-0531]『生命は尊いのか』【テーマ型】

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■0

にしむらもとい
今週は代打で僕が担当します。脳が苦しくなる世界へ皆さんを引きずっていけたらと思います。知識や常識にとらわれず、思っていることを吐き出してみて欲しいと思います。よろしくどーぞ。

■1

アンケート
動物愛護って

1 意味がある
@G, @M, @N, @L, @D, @O, @C, @K

2 意味はない
@A, @にしむらもとい

3 わからない
@J, @F, @B, @E

■2

にしむらもとい
とりあえず、この辺から。動物愛護ってどういうことなのか。皆さんの率直な意見を教えていただけると嬉しいです。

■3

にしむらもとい
動物愛護って何なんだろうという定義の話が本来の出発点ではありますが、意見を形成しづらいという方は具体的に書いてもらっても良いです。たとえば、動物愛護団体、捕鯨、動物実験、果てはヴィーガンなんていうのもこのカテゴリで語れる話ですね。ちょっとしたものでも何でも吐き出してください。後はこちらでツッコミます。

■4

A
(はじめに私個人の感情では、動物愛護に賛成であることを述べておきます。)
退職するまで、商業施設の管理業務の仕事をしていたのですが、その際に「動物愛護団体」と関わった経験があります。勤務している施設(ショッピングセンター)で「移動動物園」という催事を定期的に開催していたのですが、それを中止するよう要求していました。
彼らは動物園というシステムそのものを否定するというよりかは、我々が開催していた移動動物園は、その動物たちが「本来」本来生息している環境から著しく乖離しており、動物たちに過剰なストレスがかかっているという点を指摘すると言ったものでした。
動物愛護団体によってもスタンスが様々でしょうが(動物園そのものを否定する団体もあります)恐らく彼らの主張は、「人間の都合」によって「不当に」動物たちの生息する環境を歪めているという点にあると私は感じています。(どこまでが「不当」であるかは主張者によって様々)
あえて過激な主張をすれば、動物愛護とか「人間の都合」というのは極めて人間的発想で、生物はそれぞれ「彼らの都合」で生きているわけですから、なんと言いますか、動物愛護をするにせよしないにせよ「なすがまま」で良いのではないかと思います。だから、動物愛護は人間的には非常に意味があるものであるかもしれないけど、もっとマクロな視点からすると意味がないと言いますか、「良いも悪いない」事柄のように思います。
これは人間が地上の支配者(と人間は思っている)であることからくる傲慢なのでしょうか。でも人間が他の動物を「守ってあげる」というのもこれまた人間の傲慢であるとも思います。

にしむらもとい
@A 動物愛護が人間の傲慢、自分勝手な都合による産物であるなら、ペットとして犬や猫をかわいがる気持ちも傲慢なんでしょうか。

■5

B
snsなどで犬や猫が虐待されてる動画が上がる度に胸糞悪くなるのですが、いじめ現場の動画でも同様な思いを抱くため僕の中では人間以外の(身近な)動物と人間にはさほど差はないのだと思います。
動物愛護団体などそういった活動をされてる方への印象は
・他所のことに口出してばっか。
・反論は全て無視。自分が全部正しい。
というもので決して良いものではないです。
これは僕が小さい頃から他人のことを気にもとめずに(最低限の"マナー"は守る)過ごしてきたバックボーンからきてるものだと思います。
(まとまりもないですが書き連ねてみました)

にしむらもとい
@B そこに挙げた、動物愛護団体の活動家への印象は、非常にステレオタイプに皆がそう感じていると思います。動物を愛護する気持ちとそのメンタリティの間には何か相関性がある気がします。
B
「弱き物を助ける」という大義名分のもと自分自身を強いものだと認識し、その勢いで周りの"非愛護者"(実際に愛護してるかどうかは関係ない)よりも上の立場になったつもりなのだと思います。snsに蔓延る正義警察も同じメンタルでしょう。

■6

B
動物愛護 に関して
@A さんと似ていて「動物愛護」を言語化したこと自体が人間の傲慢でしかないと感じています。

■7

C
■動物愛護とはどういうことか
『動物たちを自分自身と重ね合わせることでその痛みを想像すること』
なんじゃないかと思っています。
動物愛護の精神を持つには、動物への感情の存在を確信する必要があり、感情は目に見えるものではない以上、自分の感情と重ね合わせ想像するしかない。つまり、動物の痛みを想像するには動物に自分に似た精神性が存在すると信じられる必要があると思います。私はアリや毛虫には犬や猫ほど“動物愛護”の精神を持てないと感じます。
愛玩動物、実験動物、畜産動物、観賞用の動物、虫・・・保護運動家の対象や内容が様々なのは、それぞれの痛みの感じ方が異なるからかなと思います。
では究極的には人を愛することと動物を愛することは同じことか?という問いについてはちょっとまだ答えが出てきません

にしむらもとい
@C 痛みをキーワードに自己投影するというのはいかにもありそうですね。そして、犬猫よりアリや毛虫への愛護精神が薄れるというのも大きなヒントである気がします。人に対する愛と動物に対する愛に違いがあるのかないのか。どういう切り口を設定すれば、それが評価できるのか。難しいところです。

■8

D
・動物愛護の意義
理想的な「動物愛護」を完璧に遂行することは不可能です。なぜなら、家畜という存在によって今の社会水準が保たれているからです。だからといって無批判に全動物に対して家畜化を行ってしまっては、人間には予想もつかない生態系(ヒトを含む)へのデメリットが生じる可能性があることは歴史が証明しています。なので、放っておいては目先の利益のため家畜化を推し進めるであろう人類への抑止力として、動物愛護団体というものは「存在自体」には意味があると考えます。
・動物愛護とは
根本的には人間至上主義を掲げた上で、「自分たち人間の長期的な繁栄」のため、もしくは「自分たち人間が他動物を可哀想に感じて心を痛めないようにする」ために動物を保護しようとする活動のことだと思います。

@D 生態系を破壊することがデメリットを生じるというのは部分的には正しいと思いますが、環境への影響をより精密に評価できるスーパーAIでもできればデメリットを上回るメリットが計算して得られるようになるかもしれません。確かに、動物愛護団体というのは何らかの予測不可能な変化に対する抑止力にはなっているのかもしれませんが、予測可能なことまで抑止するなら人類の進化の歩みを遅めている可能性もある気がします。そもそも、動物愛護は倫理なのか合理なのか。もっと言うなら、感情なのか理性なのか。どちらが根源なんでしょうか。

■9

にしむらもとい
一日ごとに全コメに返信付けると同時に、新しいトピックも投下します。日付変わっても、新しいトピックと並行して同じ話題を納得行くまで続けてもらって良いです。引き続きご意見お待ちしてます。横やりコメントも歓迎します。

■10

にしむらもとい
ついでに、考えるきっかけとして、具体的な質問も置いておきます。よかったら考えてみてください。
クジラやイルカは食べちゃダメなんでしょうか?
植物愛護という言葉はありませんが、なぜでしょうか?
宗教を理由としないヴィーガンて変だと思いませんか?

■11

E
動物愛護とは、一部の動物を、幸福・不幸の感じることが出来る個体(幸福体と呼んでみる)だとみなす感情行為である。
もちろんヒトは幸福体である。一部の動物(哺乳類など)が幸福体にみえるのはヒトと類似する部分があるからである。これは幻想ともいえる。ところで、私は一部の動物を幸福体とみているので、動物愛護の情は少なからずもっていると思う。
過去に一部のヒトは一部のヒトが幸福体であることを無視した歴史がある。奴隷制である。ある個体が幸福体か非幸福体かどうかはその時の文化がもつ思想が正当性を与えると思う。決して固定されていない。揺らぎがある。
ちなみに、どうでもいいですが、母にヴィーガンについて聞こうとした時に、誤って「virginに興味がある」と言ってしまいました。

にしむらもとい
@E 幸福体というキーワードでヒトとの類似性において一部の動物に対して抱く感情を元に行なう行為、それが動物愛護ということですね。そして、幸福という概念自体は文化に左右される。つまり、動物愛護は完全に相対的なもので、絶対的な理屈ではないという意見ですね。
virginに興味があるのは、つい本音が出たのでしょう。

■12

F
僕もDさんと似た意見で、人間のしているそれは上辺だけのものだと思います。例えば巨人(進撃のね)みたいなのが現れたとき動物愛護なんて言葉を発する人はかなり少なくなるのではないでしょうか。結局は強者の余裕と金なのでは。そういった理由でベジタリアンになった人も植物に痛覚がある可能性には目を瞑ってるわけだし合理的でないですよね。ただ結果として人間は気分を害さないし動物も殺されないしでとてもよく出来た制度だと思っています。ちなみに僕はネコが大好きですが、巨人が現れたときも野良猫を愛せるかは分かりません

にしむらもとい
@F 進撃の巨人が現れたとして、それが予測不可能な敵である限りは駆逐対象ですが、もしも明確な対処法さえわかってしまえば、その時は巨人も憐れみ(動物愛護)の対象になり得るということですね。絶滅危惧の肉食獣が保護されるように。「余裕」というのは、わりと大きなキーワードである気がします。

■13

G
じょぼい意見ですが書きます。
イルカを食べないことについては疑問に思ったことがあります。魚類はほとんど全てが食の対象の中で、イルカはなぜか食べるという習慣がない。あるいは、食べない方向で操作されている。それは、鑑賞用としての価値が大きいと人間が判断しているからなのか、食べても美味しくないことが分かっているからなのか、わかりません。もしかしたら、答えは出ているのかもしれませんが、少なくとも普通に生きていて、知る由もない話である気がします。どこかで、犬や猫など、見ていて可愛いものを中心に、結局人間にとってより付加価値の高い方に意識の操作が行われている気がします。一方で、動物愛護については賛成です。一般的にペットのように、普通の人が愛を注ぐ対象になっているもの、そして食用と考えられていない対象に対して、無慈悲に危害を加えることが横行することによって、むしろ人間同士の争いを引き起こすような気がするからです。結局は人間がよりよく生きるための方針であるにせよ、必要であると感じます。

にしむらもとい
イルカ食は元々文化的に世界各地に存在し日本でも食べられていたわけですが、現代の価値観の中で何故かタブー視されるようになっています。賢い、かわいいなど、人間から見て感情移入する要素が強いからでしょうか。それに関しては、目的があってやっているというより感情論の結果である気がします。では、動物愛護は何か目指す目的があってやっていることなのか、単なる感情論の結果なのか。イルカや犬猫に対する感情と魚や虫に対する感情の質が異なることから、動物愛護はそもそも命の選別をしていることは明らかです。動物愛護が「優しい」概念であることは、僕は自明ではないと思います。動物愛護団体がむしろより過激に人間に対して攻撃姿勢を見せるのを見ていてもそれがわかります。動物愛護が人間の攻撃性の抑止になっているかというと、一概に言えないかもしれません。

■14

にしむらもとい
動物愛護については、皆さんの意見を総合すると、それが人間の都合であることは認めながら、同時にそれは自然な感情でもあるという二極の間で揺れているようです。しかし、大きな原動力になっているのは、間違いなく「感情」だと思います。かわいそう。その感情に尽きます。感情論は「身体的」なものなので、理屈が通じません。そして、「身体的」とは人間(自己)の存在がベースであることは言うに及びません。クジラを食べる文化を受け入れられない人間を説得することは不可能です。宗教上の理由を持たないヴィーガンにそれが意味ないと伝えることは不可能です。
僕は動物愛護それ自体に意味も目的もあるとは思いませんが、消極的な意味で、動物虐待にネガティブな感情を持つのは自然なことでもあるとは思います。それは大きな枠組での「動物愛護」ではなく、身近な家族(人間)を大切に想うという極めて私的な感情の延長だろうと思います。つまり、概念としての「動物愛護」というのは、元々は自然な感情から出たものでありながら、装置として不自然にある側面だけを増幅したものであろうということです。だから、自然どころか、身近な人間に対する関係不全という不自然の代償行為になっていることも多い気がします。
キリがないので一旦これくらいにしておきますが、僕は大きな枠組での概念としての「動物愛護」には意味はないと感じていて、自然な感情として身近な人間を大切に想うことの延長としての私的な動物愛護はあって然るべきだと感じています。その二つを混ぜて考えるからわけがわからなくなるのではないでしょうか。

■15

アンケート
出生前診断で胎児に遺伝子異常が見つかったら

1 中絶を検討する気持ちがある
@H, @A, @I, @D, @F, @K, @C, @B, @N, @M, @にしむらもとい, @L

2 中絶は選択しない

3 わからない
@E, @J

■16

にしむらもとい
これは非常にデリケートな問題なので公的な倫理観の圧力に逆らえる人はいないかもしれません。こうしたクローズな場所ですら意見を述べるのが憚られるかもしれません。しかし、人間とは何かを考える上で、大きな論点を含んだ問いです。答えにくさを解消するために、先に僕の意見を書いておきますと、僕がその立場にあれば中絶は検討すると思います。あくまで検討する気持ちがあるだけで実際にどうするかはなってみないとわかりませんし、僕だけの気持ちで決められることでもありません。ですが、それが正直な気持ちです。
中絶は殺人か。
遺伝子異常は不幸なのか。
不幸だとしたら誰が不幸なのか。

■17

H
僕の生まれた国では、中絶は違法とされています(特別な場合を除いて).それは宗教的な側面が大きい、というかそれがほとんどだと思いますが、人工中絶という選択肢が減らされるということで生じるデメリットの方がどうしても多いように僕は感じます。
一昔前はジカ熱の騒動もありました。母体から胎児に何等かの病気が移る危険性の中で子供を産むのは親としても、とても不安なことだと思います。法の緩和が少しでも進むことを願います。
アンケートでは、「中絶を検討する気持ちがある」と「わからない」で迷いましたが、もし自分が親になった場合のことを想像して前者を選びました。僕は真っ先に考えるべきなのは、子供の将来だと思いました。もし、その子が生まれて苦しいことばかりの人生になるようなことがあれば、それは生んだ自分たち親の責任であり、言葉悪いですが、物心つく前にその命を終わらせるほうが良いと思ったからです。しかし、やっぱり「わからない」のは自分が実際に親になったときに、そういった理性的な考えだけを優先させるかどうかということです。
「遺伝子異常は不幸なのか。」
とても難しい問いですね。。。少し考えてみます

にしむらもとい
@H 今の素直な気持ちをありのままに言語化していただいて、ありがとうございます。生まれて苦しいだけの人生なら物心つく前に終わらせてあげる方が良い。それもまた身近な人間を自然に思いやる優しい気持ちのひとつの現れなんだと思います。ただ、苦しいだけの人生なのかどうかは、究極のところ本人にしかわからない。それを見る自分(親)が苦しいから避けている、つまり自分本位な選択であるという可能性が本当にないか。線引きは難しいと思います。
後の人のために先に僕の意見を少しだけ述べておくと、「不幸」の定義を外的に行なうことは不可能だと思います。つまり、本人が不幸と感じることだけが不幸の定義であり、貧乏や生まれた境遇、身体障害その他の病気などの「客観的事実」それ自体を不幸の定義に使用することは、僕は思考の出発点を見失う危険な行為だと思います。事実そのものより、その結果、本人が「不幸である」と感じる(あるいは感じない)までの過程に本質があると思います。

■18

I
これは実際に経験した立場での意見をお伝えさせていただきます。
自分たちの場合は第一子、第二子ともに出生前診断は「年齢が若いから不要でしょう」ということで行いませんでした。僕の頭の中ではダウン症の子どもが生まれたら育てていけるのかという不安がありましたが、妻が待ち望んでいる子どもなのでその時は受け入れようと思っていたと記憶しています。生まれる前までは多少の不安があったことも事実です。
そして子育てを経験した今、もし生まれるとして胎児に異常が見つかったら、妻の判断を尊重しますが、僕は中絶を選択するでしょう。きれいごとだけでは語れない部分がたくさんあります。もし育てることになったら、今いる家族のメンバーの大きな犠牲のもとに成立するでしょう。ただ、これが不幸かはそれぞれの家族が感じることだと思います。
結局のところ出生前診断も確率の問題なのでそれぞれの家族の判断を尊重すべきだと思います。

にしむらもとい
@I そもそも出生前診断自体をしないというのもひとつの選択ですね。異常が見つかったら中絶するという決意が初めからなければ、出生前診断はやるべきではない気がします。そして、様々な条件を大きな視野で見た際に自分(およびその家族)の幸せの維持において、ダウン症の子を育てる負担を背負えない家庭もあると思います。それは、ダウン症の方々を差別するという意味ではなく、事実としてそれが「特殊」な子育てであるという意味で、です。世間の偏見はゼロではありませんし、それを当たり前に負担なく行なえるほど福祉も充実していません。本人の問題ではなく社会の問題です。多様性といくら叫んでも、社会が負担を強いる限り、それは個性ではなく負担であり、それこそが現実です。もちろん、その負担を受け入れて子育てをなさる方もいらっしゃると思いますが、その「幸せ」は当事者達の見えない(もしかしたら本人にも見えていない)負担の上で成り立っていることは、見過ごしてはいけないと思います。

■19

E
以下3点について考えました。
1 私が中絶を検討するかどうか。
2 遺伝子異常(コピーミス)は不幸か。
3 中絶は殺人か。
1 中絶が可能であれば、検討はします。
この場合、パートナー(おそらく存在している)の意見を尊重したいと思います。
ただ、自分は、本来、中絶にはかなり反対です。中絶を考えさせられる社会(一部の人が不利な社会)に問題があると考えています。
2 生命の進化とは、コピーミスである。
自分は勉強不足で進化論など全く詳しくないですが、コピーミスが無いならば、進化はありえないと思います。きっと、キリンの首が長いのは、「たまたま」首が長いキリンが生まれて、首が長いキリンが生存に適していたからだと思います。「今では」キリンの長い首は当たり前です。すなわち、これを前提に生殖活動を行うのも大事だと思います。問題は、ミスの度合いが大きい(これも個性のひとつに他ならないと思うが..)人たちが一定の影響を社会から受けることです。そういう意味で、遺伝子異常が、ある人にとって不幸ならば、それは本人以外にあり得ないとおもいます。
3 中絶はヒトに限りなく近い個体を殺すことなので、(広義の)殺人だと思います。とはいえ、現実の社会がこれなので、中絶をしたとしても、かなりの正当性は保証される(許されるべき)と思います。
この間コンビニに行く時、道が2つあるのですが、片方の道には、おそらく少し異常があると思われる人が声を大にして、ジグザグにふらふら歩いているのを見て、もう片方の、狭い方の道を選んでしまいました。何をされるか分からないから、といった感じでしょうか。未知への恐怖感と近いと思います。未知は偏見で処理できないからでしょうか。

にしむらもとい
@E
1 中絶を考えさせられるのは社会に原因があるというのは、僕もそう思います。現代人は明日の食糧にも不安を抱えるような原始的生活をしているわけではありませんので、その気になれば遺伝子異常その他の重篤な先天異常を持つ子供を丸ごと社会で育てることは不可能ではないと思います。でも、それを現にやっていない。それが答でもあると思います。
2 進化論そのものには僕はかなり懐疑的ですが、遺伝子のコピーミスが多様性を蓄積するのは事実です。おそらく時間の問題でヒトの遺伝子(DNAの配列という意味ではない)の全ては丸裸になるでしょう。そうなった時に、果たして遺伝的多様性にどれほどの意味があるのか。一般にヒト以外の生物は遺伝子情報系こそがそのアイデンティティーになっていると思いますが、ヒトには神経系(脳)に乗っかった情報があります。そちらの情報の方が遺伝子情報より人間の本質である気もしています。つまり、僕は個人的にはヒトはもはや自分の遺伝子を残すことを目的とした生物の範疇を逸脱しつつある気がしています。それが明日のテーマにつながります。
3 中絶は間違いなく広義においては殺人です。ただその定義は広すぎて役に立ちません。問題は、共同体の中でそれを殺人と認めるかどうかですね。

■20

F
イメージ的には女性は中絶を反対する傾向にあるような気がします。やはり自らの体内に芽生えてくれた命を殺すことになるので男性よりも抵抗は大きいからなのでしょうか。
だから結果として中絶しないことを選択される夫婦が多勢いるのかな…
殺人の定義が人を殺すことであるなら中絶も殺人でしょう。中絶以外にも法で守られた殺人はあるはずです。
同様に不幸の定義が幸せで無いことをさすのなら、遺伝子異常は不幸ではないと思います。拉致被害などに遭われた方のことを考えれば不幸と言うのが失礼なんじゃないかと思うレベルです。
ただ不幸が健全に生きてた時に得られる幸せより少ないそれしか得てない状態を指すなら、多くの場合遺伝子異常は不幸でしょう。
僕は不幸の定義が前者だと思うので、結局のところ私たちが幸せ過ぎるだけで遺伝子異常も不幸でなないと思います。
けれど遺伝子異常さえなければその幸せ過ぎる生活を送れるのだから、中絶も考えるべきというのが僕の意見です。

にしむらもとい
@F 女性が中絶に自然と反対の気持ちを持つ傾向にあるのは、僕も当然だと思います。身体で考えるというのは頭で考えるのとは違う次元のことでしょうから。たとえば、もしヒトはオスがメスの妊娠を確認したらペニスが抜け落ちてなくなってしまうような種族だったとしたら、つまりオスから見てそれが自分の子を持つ最後のチャンスであったとするなら、少し考えは変わるのではないでしょうか。ただ、個人差はあり、女性でも中絶に抵抗のない(軽く見ている)方はいらっしゃいます。また、不幸の定義については他の方の返信で既に書きましたが、僕は本人が不幸と感じる以外の定義を知りません。そうなると、中絶を決断するとき、それは一体誰の為の決断なのか。それは理解しておくべきである気はします。

■21

J

遅ればせながら動物愛護に関してコメントします。
まず、人と動物で何が違うか、何が同じかを基準として人間に認められている人権を基準への適合度に応じて、部分的に動物に拡張しようとするものとして動物倫理があると思います。
この立場を取ると、例えば人と同じように痛みを感じると見做すことができる動物に対しては、人がむやみに殺されたり傷つけられたりしないように、動物も加害されるべきではないので、動物を殺すことが避けられない食肉のための畜産等が批判対象になります。
ただ、上記の論理は動物に対する人間の行動指針にしかならず、人間的な行動を期待できない対象である動物に付与できる人権はどの程度であるか、また、人間が関係しない野生動物同士の関係について人間は介入するべきか、という問題が残ります。
このため、現状では動物に対する人間による加害を抑制する面に倫理指針が傾いていると言えると思います。
またそもそも、何をもって人と動物を同じとするか、違うと見るかの基準についてですが、僕は人が人に共感できるのは見た目がある程度似ているからだと考えています。それは感情が発生する身体機構を共有していると言えるからです。(コミュニケーションが通じるかどうかは人間どうしが互いのソフト面に共通性を見出すために重要だと思いますが、とりあえず話の通じない動物相手に対して共感可能かという点を議論したいので無視します。また、チューリングテストのようにソフト面だけで人間らしさを感じることもありえると思いますが、この場合、人間の相手は物理的身体を持たないので抑制されるべき暴力がどのようなものか曖昧です)
見た目を基準にすると、比較的見た目が人間に近いサルっぽい動物に対して、理不尽に暴力を振るったりすることは多くの人が素朴に嫌な気分になると思います。
対して、イルカやクジラは見た目としては魚に近い気もしますが、科学の進歩につれ、感覚的に素朴な認知とは違う形で人間が動物との共通性を知るようになったものだと思います。
ヒトが動物に共感することは素朴な感覚に基づくものと、科学的知見に基づくものがあり、科学的知見に基づいて動物を共感可能な対象に含めていく動きは動物倫理を正当化しようとする試みにつながっていると思われます。

にしむらもとい
@J 共感可能性という切り口は、まさに感情をベースにしてますね。ヒトはヒト(に近い順)に共感を覚えるようにできているという理屈ではない生来の特性(感情)をどこまで延長するか。動物を広義にヒトとみなせるか。それは、身体的(遺伝系の情報)からみれば無理なアイデアで、頭の中(神経系の情報)での観念の話としてしか成立しません。つまり、「ヒト」の中から一歩も出ずに「ヒト以外」について考えている。僕は「動物はヒトではない」をそもそもの出発点にすべきだと感じますので、観念的な動物愛護は全て空疎に感じます。
J
(ある人種の)人類は(他のある人種の)人類に対して人間の概念を拡張してきた、つまり、それまでは自明に人間ではないと思っていた、という歴史があるので、素朴な感情から乖離して強引に人間性を見出してしまうというのは、羹に懲りて膾を吹く的な行動という面があるのではないかと思っています(⌒-⌒; )
一時期、人種の違いは違いとしてどれほどのものなのかという疑問を持っていまたのですが、みんな同じ人類!ということを常識にしていることで保たれている社会的安定はあると思います。 
にしむらもとい
@J 人種の違いについては素朴には皆違うと感じていると思いますが、それが同じヒトですらないとまで感じる人は現代においては稀でしょう。遺伝子編集がコモディティ化すれば、人種は生まれ持った属性ではなくなり選択の結果となるので、生き方の問題、個性という結論に落ち着く気がします。

■22

J

ヴィーガンに対しては突き詰めればその根拠は自分の(動物に対する勝手な)共感なのだから自己満足に過ぎないとは現時点では僕は思うのですが、それだけでは、動物が感じる痛みを科学的に人間と比較できるようになった場合、ヴィーガンに転向すべきことを否定できないと感じています。(そもそも、日常生活において、やることなすこと全て自己満足だろと言われれば特に反論のしようもないので、ヴィーガンや動物愛護活動を批判する場合は別は仕方のほうが良いと思います)
動物の感じている苦痛が具体的に数値化され自分たちの感じる苦痛と比較可能になった場合畜産をやめるべきかについて、食べている肉と全く同じ味、食感の人工肉ができたならば、家畜を殺すこれまでの肉ではなくそちらを選ぶという人は多いと思います。
動物が苦痛に感じているということを想像して自分が嫌な気分になるというのが人間の特徴でもあると思いますが、畜産の現場が不可視化されることによってそのナイーブな苦痛を避けるために人工肉を食べるようになるという世界はディストピア感がありますね。
また、人間より人間らしい存在、人間性に欠ける人間をどう扱うかという問題もあると思います。これは2段目の共感可能性の議論と相まって、具体的な人間同士の倫理・法の問題にもつながると思います。
人間は種として発育が緩やかなので他の動物の子どもと人間の子供を比べた場合、特に幼い段階において人間の方が非人間的であるという状況は十分考えられると思います。
また、加害してはいけない理由が他者の苦痛に対して共感可能であることであれば、心の理論が欠けている人間の加害行為や、感情が発達していない嬰児殺しを否定できません。
とはいえ、現実としてはどこぞのだれとも見知らぬ人間が平等に扱われるべきという法体系になっていますが、これは、素朴な感情に基づかない動物愛護が空疎であることと、人間の共感・想像能力の表と裏という感じがします。 

にしむらもとい
@J 痛みなどの特定の切り口だけを拡大すると人工肉という選択肢が許容されるかもしれませんが、それは生命の冒瀆ではないのか。むしろ、感情的にこそ、これは生命の冒瀆だと思います。ですが、産業効率の観点から人工肉に移行することはあり得ますね。ヒトの栄養のためだけに動物を部分培養する。それが動物愛護だとは、僕は思えません。人工肉を悪いと言っているのではありません。
J
同じ段落の中に書いたため非常に紛らわしくなってしまいましたが、ヴィーガンになることと培養肉を食べることは独立したことだと意図していました。
(培養肉がその製造過程において動物を用いることは全くないとしても、)動物を殺すのは悪い気がするけど肉的なものは食べたいから培養肉を食べる、という行動は生命の冒瀆である、ということだと理解しました。
この場合、なにかしらの動物が殺されているわけではないので、生命の冒瀆という言葉は、肉を食べたいが自分の手を汚したくはないという人間のメンタリティを示すものだと思います。
一般に、かつてのやり方ならば感じていたであろう罪悪感から免責されて利益だけを得ることは科学技術の発展に伴って増えてきたと思うのですが、生命の冒瀆という言葉を用いるときに非難されるメンタリティはこのような行為の中で特別悪いものなのでしょうか。科学を用いることに伴って感じることのなくなった罪悪感が特に生命に関わるものだったので、生命の冒瀆という言葉が後から発明されたのでしょうか。逆に、科学技術は、直接的な行為に伴う罪悪感を無くしはしたが、罪悪感という感情の処理方法をなくした人間は、実体と離れて想像に基づいて加害について苦悩するようになったということもあり得る気がしました。
②の後半のように、僕個人は動物倫理というものは、動物と人間の境界を自明視しないことでそもそもの人間の定義を揺らがせるという点で思想的価値があると思っています。 
にしむらもとい
@J 培養肉にしたところで、概念的世界では愛護の守備範囲は改めてそれを射程にとらえると思います。動物細胞愛護みたいな理屈が発生するかもしれません。感情が出発点である限りキリがないと思います。まあそれを感じること自体がヒトの定義と関わりがある気もしますが。
ちなみに、ヒトと他の動物の境界線を自明視しないことが、僕にはできません。自明です。一定以上の高次の情報処理が行なえるものがヒトであってそれ以外はヒトではありません。そうゴーストがささやきます。高次のコミュニケーションが可能な宇宙人とかが現れたら、はたしてそれがヒトかどうかは自明ではなくなると思います。これは現代の文脈での話で、かつ、何かに優劣をつけるという話ではなく単なる線引きの話です。

■23

J

後半とっちらかってしまいましたが、個人的に自然保護や動物愛護活動、菜食主義に関してはインチキ臭く感じる点も多くありつつも、論理的にヴィーガンであるということはありえると感じています。ただ、どんな活動も社会運動化して大勢の人が参加するようになると、理論的正当性を気にしない自覚なきミーハー人間が大部分になるのは避けられないので、活動の社会的影響力とその正しさがどこに由来するかは別物だなぁと思います。
動物愛護ということで、動物倫理の面から人間とそうでないものの境界について考えてみましたが、人間が人間同士人間だと思っているということの自明性こそ怪しいものであるという認識に至っています。(僕個人が心の理論を理論的に獲得した気がするので、もともと他者に心底共感するという経験がほとんどありません。友達少ないからですかね(;_;))人間になる前の状態で起こる問題が中絶であり、人間のようなものであることを終えた後の問題が脳死であろうと思います。

にしむらもとい
@J ヒトは栄養的に動物食を前提としているのでヴィーガンは「不自然」です。原始のヴィーガンなどあり得ず、それは高度な社会システムの中でしか成立しません。そして、ヒトの境界はどこにあるのかという問題。それが次のテーマとつながっていますね。
J
「不自然」な行為には神経系情報体としての人間の特性がよく現れていると思います。ヴィーガン以外にも、ボディビルなんかも実はそういうものに近いと思っています。
遺伝系的に自然とされているものと相反する思想を、科学技術の力を用いて実現してしまうことは、神経系が異常発達した動物としてはそれをやってこそ人間らしさだという認識です。(°▽°)(人間の動物としての特徴は、情報に占める神経系の割合が高く、それらを遺伝系に優先させることである)

■24

C
■中絶は殺人か
考えるには殺人とは何なのか、特にどこからを”人”と呼ぶのかの線引きをする必要があると思います。
意識の存在や脳機能の状態などの面からアプローチ可能だと思いますが、誰もが納得する答えは出てこないでしょう。
そのうえで僕は人の形を成した胎児は人だと見なしたいです。そして中絶は殺人だと考えます。人の形をした胎児を認識して自分にはそれが”人外”だとはどうしても思えないのです。論理的ではないかもしれませんがどうしても感情がそのように見なす以上、それ以上の議論の余地がないかなと思います。
 僕もそうした状況になれば中絶は検討する考えです。ただその場合、殺人という行為を正面から見据えてその意味を引き受けなければならないとも感じています。(というか人と感じている以上、どうしても引き受けざるを得ないと感じています。)

にしむらもとい
@C 「感情」はヒトがそう感じるように存在している「疑い得ない」ものなので、ある意味では論理より優先されるべきとも言えます。確か最初のワークショップで扱いましたが、ディベートが哲学的でないという「理屈」に合致します。論理の範疇を超えるものはディベートしても意味がありません。だから、中絶が殺人(不快な感情をもたらすもの)かどうかについては、個人の感情の問題なので基本的に答は出ません。ですが、共同体を形成して人間同士が共に生きていくためにマナーそしてルールは必要です。それも既にワークショップで扱いました。中絶を殺人(禁止事項)とみなすかどうかは、文化(マナー)の問題であり、文化が失われつつあるいまとなっては規範(ルール)の問題です。哲学的に明確な解はないと思います。

■25

C
殺人とみなしながらそれを受容するということは、殺人を費用便益の俎上に載せてるってことですね💦
うーん、それはそれで自分に照らすと違和感しかない。

■26

B
中絶についてコメントします。
僕が生き物の死を実感するときはその表情を見たときです。だからペット(動物)や人が死んだときはやるせない気持ちになりますし、また、魚や昆虫が死んだときは言葉は悪いですが「あー死んじゃった」程度しか感情が湧いてきません。腕に止まった蚊や机の上を這う蟻を潰すときなんて全くの無感情です。
当事者になってないのであくまで今の段階の想像でしかありませんが、引かれる覚悟で言うと、出生前診断で異常が発見され中絶を選択したとき、罪悪感を覚えるのは社会がそういう傾向だからこそ生じた感情ではないかと思ったりもします。表情がないものの死は実感し難いのではないかという認識です。

にしむらもとい
@B 「表情」が強い感情の源になるというのは、それもヒトがそのようにできているからだと思います。ヒトは表情(に近いもの)を見てとれる順に共感を覚えるようです。ヒトからは遠い、たとえば虫でも、死の間際に苦しそうな表情(ヒトを連想させる動き)を見せるものがあれば、ヒトはそれなりに共感するはずです。逆に中絶も観念的にのみ考える(現場、すなわち表情を見ない)なら、許されるものと感じるのが自然なのかもしれません。「表情」というのは、良い切り口を与えてくれる気がします。

■27

K
まだまだ学生の身分であり、自分の子供ができたときの気持ちは今とは大きく変わっているでしょうが、今だからこその意見を書かせていただきます。
自分の子供に遺伝子以上が見つかったら中絶を進めます。障害の重度にもよるでしょうが、生きていく上である程度の介護が必要なのは明白です。自分や嫁が育てていくのはもちろんですが、自分たちが亡くなった後にどう生きていくのかが非常に気がかりです。さらに周りに少なからず迷惑をかけて生きていくでしょうし、健常者たちとは違う道を探していくのでしょう。本人が何を幸せにして生きていくかは周りの人間が決めていくことではありませんが、人間が社会的生き物である以上、一人の人間が感じる幸福感と周りが感じる負担を天秤にかけると…。これが資本主義経済が生み出した価値観ですか…。
また、中絶は殺人かという話ですが、大いに殺人であると言えます。しかし、我々が日々テイッシュの中に放精していった数億の種も場合によっては殺人と言えるのでは?殺人であるかどうかというより、罪悪感をどれだけ感じるのかがポイントであると思います。

にしむらもとい
@K 福祉が負担を「完全に」引き受けてくれない限り、障害は個性ではなく負担になってしまいますね。もちろん、負担であることと不幸であることは同義ではないと思いますが、負担の選択責任を個人に押し付けるのは、社会そのものの未成熟の現れであるとも思います。線引きは個人ではなく社会がすべきでしょう。中絶が殺人かという話は、広義にはそうだと言える話だし、狭義には個人の感情の問題になりますので、これも社会的にどこまでをヒトとみなすかの合意を問題とすべきだと思います。ちなみに生産される精子が死んでゆくのを殺人とみなすのは拡大解釈過ぎるかなと思います。日々の代謝によって細胞が死んでいくことを殺人とみなすかということですね。

■28

J
1.
僕は子供がいないのでわからないのですが、特に男性の場合、子供が自分の子供であるという実感はあるものなのでしょうか?
というのも、幼児死亡率が今より遥かに高かった時代は、イエ制度にもとづいた養子縁組が頻繁に行われていたようなので、子育てにあたってそもそも子供が遺伝的に自分の子供である必要性があまりわかりません。
必要性ではなく覚悟の問題な気がしています。自分のプチ分身みたいなものにはなんだか責任を持つべきというのは素朴に納得できます。
2.
出産に限らす、生きること自体が確率的リスクにさらされ続けることではないかと思ったのですが、これは人間の作る集団が大きくなったことで自分の擬似モデルが見えるようになったことによる誤認ではないかとおもいました。一回しか生きられないので期待値の高いルートを選ぶ人生が最善の人生と必ずしもいえない問題もある気がしています。
3。
加えて、生物的条件の変化によって、現代人の生殖事情は自然史的に見て異常であることは事実としてあると思います。栄養状態の向上と出産経験の減少による生涯月経回数の上昇は、男子諸君が精子諸君たちを焼却炉のモヤにするのに比べて業レベルで肉薄してくるのでしょうか?
また、現代のような社会に組み込まれた大掛かりな中絶が科学技術と制度の結合という点で人間的である以上に、水子供養は人間的活動であると思います。
猛烈にとりとめのないコメントを書き散らかして申し訳ありません。
個人的には自分の子供を自分で育てるべきだという思想が呪縛になっている気がします。

にしむらもとい
@J
1 男性には子供を自分の子供と認識する実感は女性よりは湧きにくい気はしますが、自分の遺伝子を残したいという気持ちは一般には強そうです。イエ制度はもう失われてしまいましたが、イエ制度は日本古来の「身体的」文化に基づいたものであり、「型」が守られていればそこに同一性を認めるという文化であったのでそれが成立していたのでしょう。遺伝子に連続性はなくとも、イエという「型」は連続し得る。個の「中身」が優先される現代社会では、遺伝子という中身を残したいという感情は、僕は自然な気がします。僕がそう感じているわけではありません。
2 統計的選択が本質的な幸せにつながるかというと、わからないとしか言えませんね。おっしゃる通り、「一回性」というのも人生の本質です。だから、僕は安直な自己啓発ビジネスのアイデアが嫌いなんです。
3 ヒトが動物として他の種と明らかに別次元を生き始めているのは間違いないと思います。敢えて未来の話をするなら、ヒトはいずれ自らの子宮で出産することをやめるのではないかと僕は感じています。実際、既に性行為は生殖とは切り離されています。同性愛を認める「文化」もその方向性を支持します。では、人工受精そして人工子宮でヒトを量産できるようになった時、工業的にその遺伝子の品質を考えることは当然ではないのか。ヒトをヒトと規定するのはどこまでの多様性なのか。それが次のテーマですね。
J
1.遺伝子を残したいというのはそれ自体は直接的な感情ではないと思うのですが、(科学の発達によって遺伝子の存在が明らかになったので、神経系情報体としてその概念を用いて、欲求を説明、ブーストしている可能性はあると思います)イエ制度との関係を比べようにも、寿命やその他の生活に関わる指標が違いすぎるので比較しようもないのが残念です。
少し関係するかもしれない話として、現人類は今の概念でいうところの不倫によってできた子孫が結構な割合いるということを聞いたことがあります。
3
遺伝子編集または人工人間で最大の問題は、性を勝手に編集してよいか、どちらの性の人間を作るかということに尽きると思います。
前提として、人造人間を作れる未来を想定しているので、本人が望む生殖能力の観点からではありません。
まず、編集の対象となる先天性疾患の「予防」や特定能力について優秀であるということは優生学的に基準を作ることができますが、文化的な圧力がない場合、性差については先天的にどちらがよいということを言えません。(文化的な圧力がある場合は思弁としての優生学の問題ではなく実際に既にある価値判断が反映されることになります。)
なにより、性差が心身の成長に及ぼす影響は不可逆です。成長過程の子供の性自認とそれに関する意思決定をどの程度認めるか、また、成長途中の段階でどのような治療を行うかは難しい問題ですし、性転換手術やホルモン療法は、初めから別の性に生まれていたであろう自分になるわけではありません。抽象的には、一回限りの人生をどう引き受けるかという問いに他人の意図が絡んでくるのでとてもややこしくなりそうな予感がします。
ここまで書いて、男ですが趣味で出産しまーす!となる世の中もないではないかなと思いましたが、未来予想は難しいのでアイデアとしてそのまま提出します
以上の話は、人工人間以上、「体を自由に取り替える」未満の科学技術レベルにおいて起こる問題だと思います。ただし、体を自由に取り替えることが可能になった未来においても、意思決定が可能な年齢をいつに取るかで性差の影響が精神形成に不可逆な影響を与えることは避けられないと思います。
遺伝子編集と、しない場合多様な身体をどうエンパワーメントするかの関係は落合陽一のデジタルネイチャーに書いてあり、それに対して千葉雅也がTwitterで応答していた気がしますが、引用する元気が残っていないので力尽きます。申し訳ありませんm(._.)m
にしむらもとい
1 遺伝子を残したいというのは、僕はゴーストのささやきレベルで直接的な感情だと思います。自分の子供を見て、俺に似ている、私に似ている、と感じることがそれを現していると思います。「遺伝子」という概念を理解して感じているということではなく。イエ制度は脳の見る夢のお話なのでいまは置いておきましょうか。既にだいぶ散らかってますが笑
2 性の選択について、それは非常に根源的な問題を含んでいます。話が散らかるのでわざと避けてましたが、気づいてしまいましたか笑 本来脳は身体と独立した器官というわけではなく、明らかに身体からのフィードバックが思考という機能を裏付けていますね。体制感覚(視覚聴覚などの特殊感覚以外の皮膚や深部の「感じる」感覚のこと)のフィードバックがなさそうな古いSFに見る水槽の中の脳ではマトモな思考はできないと思います。つまり、どちらの性の身体を持つかは脳にも影響しているはずです。だから、神経系情報体になるときにその属性を(そもそも体制感覚自体を)どうするかはかなり綿密な設計が必要になると思います。まだ身体を保持したままであるその前段階においては、仮に遺伝子編集でベビーをデザインする世界線であれば、性選択にはその割合を保つために公的な制限が必要でしょうね。まあ、そんな時代になれば、同性愛カップルが子供を持つことも当たり前になっているとは思いますので、性と生殖とは切り離されてるとは思いますが、Y染色体は保護が必要になるかもしれません。『デジタルネイチャー』は積読されてる状態なので後で確認しておきます。もっとも、落合さんのスタンスは僕のスタンスとは相性良くないことが多いですが。

■29

にしむらもとい
これまでの流れで、「生命とは何か」を考えるにおいて、生命とは何かより「ヒトとは何か」の方が先立つ本質である気がしてきませんか。ヒトとは何か。ヒトの同一性とは何か。エラーを起こす(病気を発症する)こともその同一性の範疇にある多様性なのか。テクノロジー進化の可能性の上限が見えない現代において、環境適応のために生存に不利な遺伝的多様性を許容しておくことは本当に意味があるのか。
優生学というものがあります。Wikipediaを引きます。
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優生学(ゆうせいがく、英: eugenics)は、応用科学に分類される学問の一種で、一般に「生物の遺伝構造を改良する事で人類の進歩を促そうとする科学的社会改良運動」と定義される。1883年にフランシス・ゴルトンが定義した造語である。
優生学は20世紀初頭に大きな支持を集めた。その最たるものがナチス政権による人種政策である。しかし、多くの倫理的問題を引き起こしたことから、優生学は人権問題としてタブーとなり、第二次世界大戦後は公での支持を失っていった。

■30

アンケート
優生学は倫理に反した間違った学問か

1 そう思う
@C, @L

2 そう思わない
@N, @B, @D, @M, @H, @にしむらもとい

3 わからない
@K, @E, @J

■31

にしむらもとい
人種差別のニュアンスはここでは含みません。人種という型の優劣ではなく、生物としてのヒトの設計上の機能的エラーをデバッグしたり機能強化したりといった遺伝子情報自体を扱う意味合いで考えてください。

■32

F
もしそういう研究が進んでいけばいずれは肉体さえもなくなりそうですね。優生学は医学部の解剖学と同じで生き物の命を粗末にしてるわけではないので目的が明確にあるという意味では問題ないと思います。
ただ当然失敗も多く生まれるでしょうから、結果として倫理的に問題とされる行為も裏ではいっぱい為されるような気も…
生き物は種として永続するための行為を優先的にとるべきなのに、そこに躊躇する人類はやっぱり特殊ですよね

■33

F
優生学を間違った学問とすることは解剖学をそう見なすことと近いのでは。
そうなると間違った学問とはいえないと思います。

にしむらもとい
@F 解剖学と優生学の類似性について、なぜそれを同じと感じるのか、よかったらもう少し説明してもらえたらありがたいです。
F
解剖学は生き物の命を犠牲にする代わりに医学部生に技術や命の重さなどたくさんの事を学ばせてくれて、その学びを活かして将来人の命を救えたりするのではないかと思いました。優生学も小さな命をたくさん犠牲にしている分、学問が発展してダウン症などの遺伝子異常がなくなることが将来的にあるのかなとか考えました。そうなると両者とも犠牲になった命は確実に無駄ではなく遠い誰かの幸せになってるのかなとか考えると似ている気がしました。けれど扱っている生物は大きく違います。
にしむらもとい
@F ありがとうございます。そういう印象を持っておられるんですね。
解剖学はヒトの構造を調べる(明らかにする)学問です。優生学はヒトの機能を改変(選別)することを目指しています。対象は動物ではなくヒトです。
解剖学は確実に現状のヒトに対してそのまま多くの成果をもたらしていますが、優生学はヒトそのものの改変(選別)という思想を含むので、現状のヒトのままで成果がもたらされるようなものではないと思います。優生学ではなく、優生思想と言った方が誤解がなかったかもしれません。
病気になる(生存に不利な)遺伝子が明確に見つかったとして、その遺伝子を次世代に残さないように改変してしまう。一見良いことのようですが、ヒトがヒトに意図的な遺伝子改変を施すことは、本当に問題がないのか。ざっくり言うと、この問いはそういう論点になります。

■34

K
ヒトが子孫を作るのも、進化をするためという説を支持しています。人間が遺伝子操作を可能にした以上、その技術を自分自身・自分の社会の進化のために使うのは生物として当然だと思います。
しかし、やはり遺伝子操作は何か踏み込んではいけない領域と感じてしまうのもまた事実です。軍事利用を考えると、第二の核競争と言えるくらいの際限のない事態になっちゃうじゃないか!(小並感)
と無理やり当て付けてみましたが、自分でもなぜマイナスイメージがついているかぶっちゃけわかりません。反対派の雰囲気にのまれているだけかしら。

にしむらもとい
@K 生物の持つ情報を非常に単純化すると、遺伝子系の情報と神経系の情報があり、その区分がわかりやすいので僕はよく使うんですが、生物(種)のアイデンティティのほとんどは遺伝子系の情報にあると思います。だから、その情報を書き換えるということは、生物のアイデンティティを脅かす行為であり、禁断の領域と感じるのは自然な感情だと思います。ただ、生物が子孫を作るのに何か目的があるのかと言い出すと、正直わかりません。生物が何故生まれ何故生きているのかも、生きているからとしか言いようがない。生物の定義に合目的性を持ち込むのはなかなか難しいと思います。だから、遺伝子に優劣をつけて改変しようという思想を危険に感じるのもわかりますが、同時にそれすら自然に感じるというのもわかります。ただ、ヒトが古典的な意味での生物の定義を超え始めているなら、つまり人間の本質が遺伝子から逸脱しているとしたら、話は別な気がします。

■35

F
そうなんですね。初めて聞いた言葉で少し調べたのですが勘違いしてました。

■36

E
優生学という学問の発生自体、普通(自然)だと思いますが、この学問を具体的に現実社会に適応しようとするとどうなるかは歴史がすでに示しているように思います。全人類の遺伝情報が丸裸になり、完全に序列化できたとして、上位何%まで「優秀、優秀な遺伝子」と判断するんでしょうか?まさか、最後の1人になるまで、「選別」を続けるのでしょうか?どこからが遺伝子異常なのか、の線引きなども難しいように思います。
たとえ、人類選抜が完了しても、エラーを抹消するのは不可能だと思うので終わりが見えないです。
優生学のモチベーションが正直謎です。「美しい」人類を作りたいのでしょうか。そうであれば、美しくない私は選抜に引っかかるでしょう。

C
@E
確かに、優生思想のモチベーションってなんなんでしょうね。
差別思想に使われた過去があるようですが、ゲノム編集技術がコモディティ化すれば、優劣の不可逆性が失われて、自然と差別思想は希薄化する気がします。
E
@C
「ゲノム編集技術がコモディティ化すれば」はざっくり言うと、遺伝子を簡単に編集できるようになったら、みたいな意味でしょうか?(スミマセン)
Cさんの文章を読んで、時間の問題で遺伝子の全解明→簡単に遺伝子の編集が行える→優劣の概念そのものがなくなっていく
みたいなことが起きる気がしました。(同じこと繰り返しただけならスミマセン、多分同じだと思いますが)
C
@E そうですね。お金持ちの特権じゃなく、誰でも編集技術を利用できるような環境になったら、というニュアンスで使いました!
後段もEさんと近いイメージだと思います。
でも、もし持病リスクだけでなく身長やIQなども編集する未来が訪れたら人類の今の形での多様性は失われる気がします。このテーマは多様性や個性の問題とも絡む気がします。
にしむらもとい
@E たとえば、自分の子供をデザインして作れるとして、疾病の先天的リスクを最大限回避する技術があり、脳や身体の発育の速度や能力を変数化して自由に選択できるとしたら、全てを自分好みにしたいという誘惑に駆られませんか。少なくとも子供が病気になるリスクは最大限回避したい、と。もし少しでもそう感じるなら、それは遺伝子に優劣を感じている証拠だと思います。それでもなお、全てを自然に任せるという選択を貫き通す人は、かなり頑なな人だと思います。生まれる段階で消去できるリスクを、敢えて生まれた後に発症してから治療することを選択するモチベーションは、何でしょう。意図的な遺伝子改変がヒトをヒトでなくすという恐怖感でしょうか。古典的な意味での優生学、優生思想というのは、確かに、僕もあんまり意味がないと感じてます。全体的に見た際にどちらのヒトが上回っているかを測定するのは困難ですし、応用性が低すぎます。もっと個別に疾病に関与する遺伝子ごとに絞って見ていけば、医学的な意味では、遺伝子治療は既に始まっており、それは時間の問題で世代を超えたいという誘惑に当然駆られ始めると思います。そういう疾病を単位とした優生学のモチベーションが謎というのは、それこそ僕には逆にわかりません。これほどモチベーションのはっきりしたものもない気がします。ヒトは可能な限り「完璧でありたい」のだと思います。病気にならず最大限の寿命を全うし、場合によっては不老不死さえ視野に入れたい。ヒトとして「優れている」とは、頭脳明晰身体能力抜群先天的疾病リスクも皆無、そういうことでしょう。僕がいまそれを望んでいるという意味ではありませんよ。ですが、ヒトの本質は、はたして遺伝子なのか。僕はそもそもの、その部分に疑問があり、なので、優生学など正直どっちでもいいと思ってます。長生きできた方が良いかなとはなんとなく思いますが、その程度です。何が言いたいかと言いますと、もはやヒトの本質は、遺伝情報ではなく、より広義な「情報(脳という神経系に形作られる情報群)」に移っていると思います。正直、子供を残すより思想書でも書いて残すことの方が、ヒトの繁栄には重要であろうという気がします。そこに人工知能まで登場すれば、古典的な意味でのヒトのアイデンティティは融けてなくなってしまう、つまりこの方向性の究極は、遺伝子にすら縛られない機械的存在になることだと思います。ちょっと未来志向過ぎて、SFに聞こえますかね笑

■37

C
結局どっちつかずの意見になってしまいました。
遺伝子操作への違和感はどこからくるのでしょうか。わたしは遺伝子を”人間を人間足らしめている最小単位”、いわば“原始状態”と見なす思想がその違和感の根底にあるのではないかと思います。ただこれは、メタ認知の無限入れ子地獄と同じ構造でどこに“原始状態”を置くかという嗜好の問題であり、恐らく生物学が発展すれば遺伝子を構成するより小さい単位概念がまた生まれるんじゃないかと思います。ではその都度、その時代の最小単位の改変を否定するのか・・・キリがないはずです。人間の根源を生物学的単位に求めることはその意味で合理性に欠けると考えます。そして遺伝子改変に拠らずとも、これまでも言語の獲得やデジタル空間への認知拡張、人工臓器等、人間らしさの概念はじりじりと変化・拡張をし続けています。遺伝子と人間らしさに対応関係がすでに成立していない以上、遺伝子改変を倫理的に否定できないと思っています。
但し・・・遺伝子“改良”という思想が優生学の根底にあるのであれば、それはかなりの違和感があります。その時その時のベターな処方箋を出すというのが倫理学の定義であれば、優生学もまた倫理的だと言えます。しかし、倫理学の射程を人類の未来永劫の幸福と発展まで含めるのであれば、その瞬間瞬間の処方箋としての優生学が倫理的であるとはどうしても思えません。ダーウィニズムによれば、遺伝子はそこに存在するだけで生存競争に勝ち残ってきたと評価できるはずです。遺伝子異常も遠い将来の生存能力の獲得に向けた突然変異等と言えるかもしれません。

にしむらもとい
@C 議論の出発点を整理しましょう。ヒトとは何か。その定義を原始状態に求めるという感情の存在は理解できますが、原始状態こそがヒトの定義であるという根拠はどこにもありません。なので、ヒトの定義を生物学的に究極まで追い詰めることは不可能だというのは、僕も同意します。ヒトの定義は原始状態にあるのではなく、その時代ごとに進化していると認識すべきでしょうね。ただ、進化論、ダーウィニズム自体は、仮説に過ぎないことは知っておくべきかとは思います。僕はあまり強い信頼を置いていません。一応、その路線で話をするなら、生存に不利な遺伝子があったとして、それが別な環境要因への適応の可能性を持つゆえに許容されること、そして、生存への有利不利関係ない一定の遺伝子の浮動が許容されること、それが基本的には遺伝的多様性というものだと思います。ですが、ヒトが外部的に発明した様々な知識体系や装置類によって、むしろ遺伝的多様性以上に様々な環境要因に対応できるとするなら、本当に「備え」として遺伝的多様性をいたずらに保持することにどれほどの意味があるのかは、わからなくなってきます。多様性など気にせず目先の疾病の撲滅のために遺伝子を改変してしまっても良いのではないか。そんな気がしてもおかしくはないと思います。
そして、少し未来的な話になりますが、僕はヒトの定義は遺伝子から神経へ、すなわち身体から脳へと確実に移りつつあると考えてますので、遺伝子を改良(良いとは身体が機能的に最大限のパフォーマンスを発揮すること)するという段階は、ヒトがいつか身体を失って神経情報だけの存在になるまでの過程として、あり得る気がしてます。
遺伝子が本当にヒトの本質なのか。もし本質でないなら、遺伝子をいじることなど、本質的でない瑣末な問題ということになります。僕が敬愛する養老孟司先生という存在について、生きている有機物の先生の身体が本質なのか、先生の書かれた数多くの著作や教え子に生きているその教えが先生の本質なのか。もっと言うと、いつか「強いAI(ヒトの思考の一部を取り出してディープラーニングなどで擬似的にそれを真似た挙動をする現在の弱いAIではなく、ヒトと同様の過程を踏んで本当に全体としてヒトと同レベルの思考をするAI)」が誕生して、養老先生の思考過程をシミュレートさせることができたなら、それは限りなく養老先生ではないのか。強いAIが作成可能なのかは僕にはまだ理解できていません。しかし、身体という有機物こそが本質であるとも、僕は断定できません。
少し未来の話をし過ぎましたが、そういう方向性を確認することは、現状認識のヒントにはなると思います

■38

J
直近数十年の視野であればヒトがオーガニック人体を捨てて神経系情報体(仮にこう呼ぶ(°▽°))に近づいていくという話には概ね賛成です。
ただ、身体を捨てたとしても物理的な依代は不可欠です。
このため、神経系情報体としてのヒトがなにを目的として活動するのかはわかりませんが、それとは独立して、情報の蓄積量や計算速度に物理現象としての限界が存在すると思います。
もしかしたら神経系情報体にとって機械の身体(&脳)がオーガニックな人体よりも、ショボいものである可能性さえないとはいえない気がします。
神経系情報体の行動原理を仮に、生命と同じように増えることを目的とするのなら、フィジカルではない物理現象を制約条件とした、ライフゲームのお化けみたいなものになりそうな感じがします。
しかしそもそも、コピペコストがオーガニック生命に比べて遥かに低いことと個体の境界が初めからないことから、「増える」ことが持つ意味が神経系情報体にとって何であるのははっきりしません。
また、神経系情報体としての行動原理が他の神経系情報体から伝達されるものであるならば、それは神経系情報体の本質とは言えないので、「備え」としての遺伝子群の価値とは関係なく、遺伝子系の情報のみが神経系情報体の本質を決める点でやはり特権的だと思います。ただこの場合でも、伝達する情報自体の内容ではなく、なにかしらを伝達し情報の流れを生み出す作用として行動原理を定義することはできると思います。
個人的には、ヒトがデジタル世界に完全に移住した場合、地球のエネルギーを地球の寿命と同時に使い果たすために自己修復とかもしながらがんばる計算機が存在することになると思います。ロマンがあります( ͡° ͜ʖ ͡°)
上記の議論は人間が全てオーガニック人体を捨てる前提で考えましたが、オーガニック人類と機械化された人類が関わり合う場合、機械化された人類のオーガニック人類からは、感覚的には今のコンピュータとの関わりとの延長で扱われると思います。

にしむらもとい
@J 生物としての存在を与えたものが何かという意味で、遺伝情報が先立つのはもちろんそう思います。神経系情報体とJさんが名付けてくれたものは、物理的実体を持ちながらもそれはヒトの脳が見る夢みたいなもんで、遺伝子(物理的身体)から逃れることだけを目的とした存在であろうと思います。生物の存在が合目的的なのかは正直宇宙の統一理論がわからない限りわからないと思いますが、神経系情報体以降のヒトは全て脳の見る夢なので、ヒトの自然に感じる欲求がそのまま行動原理として入ってくる目的性を持つ気がします。長生きや不老不死は目的に入っても増えることは優先的な目的には含まれないでしょうね。それは、神様になった夢を見て、そして、滅びる、ということなのでしょう。ここに書いているコメントも全て夢なのかもしれません。

■39

にしむらもとい
ヒトの定義として概念的な意味での取り扱いを先に考えてみました。ヒトの同一性を保つのは遺伝子情報ですが、その上にヒトが見ている夢(神経系の情報)、それがヒトの向かう未来だと僕は感じます。その未来に敢えて「優生学」という強めのワードをぶつけてみました。では、改めて現在に帰ってきて生身の人間について考えてみましょう。

■40

アンケート
安楽死は罪である

1 そう思う
@C, @L, @にしむらもとい

2 そう思わない
@D, @N, @E, @G, @M

3 わからない
@A, @J

■41

にしむらもとい
先に少しだけネタバレしておくと、この問いは安楽死そのものより罪とは何かという論点の方が難しいと思います。少なくとも僕にとってはかなり難しいです。

■42

C
■安楽死は罪か
病院で終末期の患者にこれ以上延命措置を続けるかという判断をそれとなく患者の家族に求めるという事は既に古くから常態的に存在しています。これは既に消極的な安楽死は行われていると言えないでしょうか。もちろんそれは社会的な罪ではありませんが、残された家族の中には後に罪悪感を抱く方もおられるでしょう。私は母から「意識が戻らないときは延命をしないでくれ」と昔から言われています。実際にそういう状況になった場合に決断できる自信もありませんし、その時の心の状態を推し量ることもできません。社会的には罰されなくとも、心が罪悪感を感じる限り私にとっては“罪”なのでしょう。
罪に罰を求めるのは、社会的にはどうか分かりませんが個人的には贖いの感情が根底にある気がします。罪悪感それ自体が苦しみであり、贖うことで救済されたいという感情は多くの人間が持っているのではないでしょうか。
安楽死を幇助した人間がその行為に苦しみを感じるのならば、本人にとってはそれは罪なんだと思います。ただ、社会の安楽死に対する価値観が変容していけば、それが個人の罪悪感に逆流し“無罪”にするという流れもあると思います。

にしむらもとい
@C
こういう話は、経験談として語らねば信用されないという風潮があります。身近な人間の死というのは、概念ではなく極めて身体的(経験的)なものだからでしょう。理屈を超えた存在感(経験)がなければ信用しづらい。百聞より一見。そして、逆に壮絶な経験をされた方は、皆がそこに同情心を持ちますし、結果として、その経験にあまりにも寄り過ぎた語り口を持つ傾向もあります。
一応、僕自身の経験を話しておきます。僕は、連れ(一人っ子でした)の両親を一人づつ二人共看取った経験があります。とても悲しい思いをしました。一人目は急な発作で駆けつけた時には選択の余地なく既に人工呼吸器で延命措置がはかられていました。数日後に亡くなりました。急なことで悲しむどころかわけがわかりませんでした。二人目は末期癌で痛みのコントロールをしながら最後は静かに息を引き取りました。その際は延命措置は一切しませんでした。本人の意思確認はできておりませんでした。本人から死にたくないという言葉を聞いたような記憶はありましたが、死の間際の時期にはあまりまともな意思疎通がはかれる状態ではありませんでした。連れが家族として判断しました。とても悲しかったですが、ある程度の覚悟(準備)を持って看取ることはできたのだろうと思います。
そもそも延命措置をしないという消極性が安楽死に含まれるかというと、そういう定義も確かにありますが、僕の定義ではそれは安楽死には入らないと思います。単なる自然死を選択したというだけのことだと思います。延命しないことは殺人とは違います。それは本来の自然な死の在り方です。あくまでも、積極的にまさに死のタイミングに人間(他人)の意図が介入することが安楽死だと思います。感覚的に安楽死が正しいか間違ってるかと問えば、素直にどちらか、皆さんが感じている感情こそが正解ということで良いと僕は思います。皆さんが素朴に考える「安楽死は善いことか悪いことか」という問いの答えは、どちらもが正解だと思います。感情論ですから。ただ、それが罪であるかと言い始めると、一気に話がややこしくなります。
罪というのは、法的なものと、宗教そして個人の道徳における感情的なものがありますね。宗教的な線引きは教義に照らせばわかるでしょうし、私的道徳心の問題はその人の感情にのみ根拠があります。なので、それらは他人が口出しをすべきことではありません。ですが、法的に安楽死が罪であるかという話は、安楽死が正しい、いや間違っている、そういう感情論では片付きません。僕は法律の専門家ではないので詳しい事例をたくさん引くことはできませんが、有罪か無罪かを倫理ではなく手続きで線引きしなければならないというのが法的な立場でしょう。安楽死は、基本的に他人が行為の主体として、明確な身体的侵害をもって直接的な死をもたらす行為です。本人が望んだ死と本人の望まぬ殺人の線引きは、明確に引かれなければならない。それができない限り当然安楽死は認められないわけですが、しかし、実際に認められている国は世界にはありますので、絶対的に正しい基準があると言い切れるものでもないようです。要するに、安楽死は、本来は素朴な人間関係の中で許容するもしないも当人が自由に選択し得るものであったとは思いますが、社会が高度に制度化されたがゆえにかえって手続きとして認めづらくなったものなのだろうということです。当事者だけの「一回性」の人生の中では許容されても、手続きで担保すべき「再現可能性」の社会の中では許容しづらい。もし、皆が同じ道徳心を持った同レベルの善人である保証があるなら、殺人との線引きの必要がなくなり、安楽死は何の問題なく許容されると思います。あり得ませんが。
人間の命をどう扱うか。そんなもの、本来は命の持ち主こそが決定権を握っているのが当たり前のはずですが、いつの間にかその権利は社会に剥奪されたのだろうと思います。そういうことのようです。我々は自分の命なんか自由にして良いだろうと思って生きていますが、どうもそうでもないらしいです。もし、人間の命を社会が何らかの形で縛るなら、その縛りの程度には差があるかもしれません。すなわち、命は本当に平等かという論点も浮き出てきます。それが次のテーマです。

■43

A
個人が自分の意思によって安楽死を選ぶ場合は、「自殺(対象が自己の殺人)は罪か」という問題と実質同じなんでしょうか。これも自分ではよく分かりません。
個人の意思が不在の時に、他人が安楽死を選することが罪なのかどうかは、詰まるところ安楽死の対象になっている人が「ヒト」とみなされるのかという点になるのかな、と思います。その人に意思があれば「イエス」か「ノー」で答えてもらえる訳ですし、ノーを選んだ人に他人が無理やり安楽死させれば、それは「罪」であることはほとんどの人が納得いくと思います。
だから、動物愛護とか、胎児とかと同じで、意思がない人に対して安楽死選択者がどれだけ「ヒト性」とかヒトとのシンパシーを感じているかが罪となるかの分かれ目なのではないでしょうか。

にしむらもとい
@A 定義によりますが、僕は自殺を除外して、他人が当人の望む死に介入することが安楽死だと考えてます。また、おっしゃるように、対象がどの程度「ヒト性」を持っているかは、確かに一定の示唆を含んでいると思います。脳死という、これまたややこしい話がありますが、脳死が認定されれば(テクニカルには日本では臓器提供という目的との関連が重視されるようです)法的にはそこにはもう安楽死はなくなります。対象は既に死んでいますから。おかしな表現ですが、「死人」を殺すのは法的に問題ないわけです。本当は脳が死んだ身体を死体とみなすかは意見が分かれるところですけどね。ともかく、そういうわけなので、安楽死はあくまでも生きている人、つまり「ヒト性」を明確に有した人に介入して死をもたらすことの意味で間違いないです。であるならば、私的な感情論としてはそこに罪の意識が発生するのは自然というご意見ですね。

■44

D
安楽死と自殺の違いはやはり「余命」の長さによる部分が大きいと思います。自分の感覚としては自然な寿命の終わり際を自分で決めるというのは至極真っ当なことであり、安楽死を認めるべきだという風に感じています。あまり大っぴらには言えませんが、自殺に関しても本人の意思と言えばそうなりますし、本人が納得していればいいのではないかと思ってしまうことも多々あります。
本人の意思を聞けない場合の安楽死に関してですが、これを他人が決定してしまうといよいよ殺人との境界を決める必要に迫られてしまう(殺人を不当だという道徳が揺るがされる)ので、認めるべきではないと思います。
「どのような状態になったら安楽死したい」といった申請を臓器提供の意思表明のように、本人の意思があるうちに気軽に出せるシステムが整ってほしいと思います。

にしむらもとい
@D 素朴な感情論として、当人の苦しみの緩和につながるなら安楽死は自由に選択できて良いというのは、やはり意見としては大勢を占めるでしょうね。僕も素朴には全く同意します。ただ、明確に他人が死に介入するという安楽死の定義を採用するなら、上に書きましたが、手続き的に明確に殺人を除外するという法整備(共同体の同意)の困難が伴うのだと思います。

■45

E
たとえ、どんなに肉体が健康でも、意思を確認することが不可能なレベルならば、もう死んでいるも同然と思います。知的な生産活動(見て、聴いて、考える、のような人間の基本的活動)が終了したら、という線引きで問題ないと思います。技術次第では、QOLをガン無視すれば、そこそこ寿命が伸ばせる気がしそうです。
しかし、実際に親とかが意識を失ってたとき、こんなに綺麗に判断できないような気がします。
今までの議論を見直しながら、まだ考えてみようと思います。

にしむらもとい
@E 安楽死の問題ではなく、脳死の問題に意識がおありでしょうか。基本的に「死」を認定さえすれば、死人は殺しても殺人ではありませんから、そのラインを超えた者の身体の機能を停止させるというのは、線引きとしては明確ではあります。その認定に脳死を持ち込むのは、人間の本質が身体から脳神経系に移った社会を、まさに象徴するものですね(脳死判定はテクニカルには日本では臓器提供という目的との関連が重視されるようです) ただ、たとえば病気で全ての筋肉が動かなくなって全く「意思を出力する術」がなくなった人、それでもたぶん脳内の活動は起きていると思われる人、その人はその基準では、意思確認できませんので、「死人」ということになります。脳波などで意思確認するようなような技術論はいまは置いておきます。そうなれば、その人は確かに事実上社会から見れば死んでるのと同じことですが、素朴な感覚においてその人が死んでいると断定するのは困難な気がします。最愛の人がその状態になったときに、彼(彼女)はもう死んでいると受容することは困難でしょう。いずれにせよ、死人は殺して良いというのと、苦しんでる人が死にたがってるなら殺して良いというのは、少しニュアンスの違う問題でしたが、でも、良い示唆は含んでいました。

■46

L
私は安楽死は罪だと思います。
ただ、罪だから安楽死に反対かといえばむしろ逆で、助かる見込みの無い病人を、本人の希望に従って行うのであれば苦痛を取り除くための安楽死には賛同です。
人が人の判断で他人あるいは自分を殺める事は罪の定義に入ると思いますが、現実問題として安楽死を必要としている方はたくさんいるので、合法化することでその人達の苦痛を取り除けるようにすることは必要だと私は思います。
罪なのに必要、自分で書いてて頭がこんがらがってきました笑

にしむらもとい
@L 罪だが必要という感情から察するに、ここまでに僕が書いてきたことを、おそらく直観的には感じておられるのだろうと思います。ある一定の社会においては一定の規範を保つ(破らせない)ために罪という定義を与えざるを得ない側面もありますが、当人同士だけの狭い人間関係では安楽死など当たり前に許容して良いものに感じます。そのギャップですね。それは永遠に埋まるものではなく、時代に応じて判断をスライドしていくことになるのでしょう。

■47

F
確かに罪の定義を考えたらよく分からないですね。辞書で出てくるような意味の罪(人間がしちゃだめなこと)で考えたら、広義的には殺人だから罪かもですね。でも僕もコバさんの言うように正しくなられた安楽死には賛成なので悪いことではないと思います。罪と悪が違うことに初めて気付きました。

にしむらもとい
@F 罪と悪の定義は軽く触れましたので、僕の意見が絶対ではないという前提の上で、参考にしてみてください。

■48

M
なんか今ふと頭に浮かんだので残しておきます。
前の日の話題についてでもokという事なので「動物愛護」について書きます。なんか場違い感がめっちゃありますが、すみませんw
今、勉強していると、目の前に猫がやってきました(家に2匹います)。ずっと見つめてくるので見つめ返してました。すると、自分と同じ生物で、意思を持った生き物が目の前にいることに、すごく不思議な感覚がしました。人間が目の前にいるのとは全く違う感覚です(当然といえば当然ですがw)。
それと似たようなことが他でもあるなと思い、それは外国人に対してです。自分は、外国人が自分と同じ人間だという感覚がしません。差別的な意味ではないです!外国人が自分たちと同じように思考して、いま何か考えているっていう感じがあまり実感できません。自分は周りを気にしてしまうことがありますが、外国人相手だとあまりないと思います。つまり自分からすると、外国人も猫ってことですね。
理由はまあ言語が違うからだと思います。日本語で喋らない相手に対しては、自分とは違うという感覚が切り離せないです。「動物愛護」というトピックについてなので、無理やりそっちの方向にもっていくと、言語を喋らない相手に対しては、人間と全く同じように共感することは、自分は無理だと思います。
「動物愛護」の話ではないですねwすみません!

にしむらもとい
@M 同じ生物でヒトとは違う、意思を持った生き物と目を合わせる不思議な感覚。ヒトの想像力(神経系の上に成り立つ夢)の産物ですね。僕もその感覚は理解できます。そして、素朴な意味で同じ言語を持たない外国人に対して「自分と同じ」と思えないこと、それが近い感情ではないのか。その差別的解釈を敢えて拡大すれば、古代ギリシア人にとっての「バルバロイ」になるのかもしれません。差別を助長したいのではなく、そういう感覚は、歴史的事実としても極めて「自然」なものなのだろうということです。ただ、素朴にはその感覚は僕も「自然」だと思いますが、今日的な定義においてヒトの境界線は言語で区切られるものではありませんので、素朴さを超えてヒトを(論理的に)「理解」する必要はあります。しかし、ヒトは「実感(素朴な理解)」が伴うものにのみ共感し得るという実例として非常に示唆的なご意見でした。気持ちはよくわかります。

■49

にしむらもとい
罪とは何でしょうか。悪と違うのでしょうか。一般的にはほとんど同じニュアンスで使われると思いますが、僕には理解が難しい。幼少期から違いが理解しづらかったです。いま落とし込んでいるニュアンスは、悪は静的な分類、カテゴリであり、罪はある規範を破るという動的な行為を指すというものです。人によってそれで納得がいく人もいかない人もいるとは思いますが、僕はそう納得しています。罪悪感とは、何らかの規範を破ったその過程の認識から芽生えるもので、初めから規範の外にあって規範外の行ないをしたとすれば、そこにバイオレーションはないので罪悪感も生まれない。そういうものかなと思います。そして、もう少し形式的な分類を追加すれば、罪には法的なものと宗教的なものと私的道徳心によるものがあると思います。法に背く、神に背く、自分に背く、それぞれが違う罪を意味しますね。

■50

にしむらもとい
随分と話のボリュームが膨らんできました。そろそろ面倒臭くなってきたでしょうか。もう少しで終わります。今日考えていただきたいことは、総まとめに入る前段階として、「生命の尊さは平等であるか」ということです。
ヒトと多種の生物の比較、そしてヒト(人間)同士の比較、その中に何らかの外的な価値判断の基準があるのかという話になります。

■51

アンケート
命の尊さは平等か

1 そう思う
@N, @A, @にしむらもとい

2 そう思わない
@F, @J, @L

3 わからない
@D, @M, @E, @H

■52

F
少なくとも社会は平等に命を扱っていないと思います。理由は例えば平民と天皇陛下が拉致されたときどちらがより問題視されるかを考えたら明らかな気がしました。自らの命を終わらせる権利さえも社会が持っている時代なので、もし天皇陛下が延命をご希望していなくても社会は生きさせるのではないかと思います。
すわなち僕は社会が見定める命の外的な判断基準は身分なのかなと思いました。その社会に属しているからなのか僕も同様の理由で命の尊さが平等とは思えませんでした。

にしむらもとい
@F 外的な判断基準という言い方をすれば、素朴な思考は、自然と人間の「価値」に向かい、それは定量できる「何か」に向かうと思います。その一例としては身分というものを想定したのかもしれません。ただ、身分というものが果たして定量化できる変数を含んでいるのかというと、何とも言えないんじゃないでしょうか。ニュアンスを捨てて単純化すると、職業に貴賎があるのかという話に近い気がします。職業に貴賎がある、身分に上下がある、それを認めるかという話につながりますね。社会的な影響力を数値化すれば、差異があることは事実だと思います。

■53

A
【ヒト間の生命の尊さについて】
ある人物の生命に「付随してる」社会的・市場的価値については個人によって間違いなく差があると思います。(年収1億の人と100万の人で比べることができます)ただ、その人に付随する価値を生み出す根源であるところの「生命自体」の尊さ≒価値については、等しい、というか比べようがない(外的基準が存在しない)と思います。
もっと言えば生命自体にいわゆる「価値」(人間が抱く尊さという感情は別にして)はなくて、仮にあると感じているとすれば生命に付随する価値を混同しているのではないかと思います。少なくとも自分個人の感情では、自分の年収がいくらであろうが、フォロワーが何人いようが、それに関わらず同じだけ自分の生命の尊さを感じると思います。
もっとも、人間は社会的規範から逃れることができないので、「人間社会」からすれば人間の「社会的価値」が全てですから、その意味では明確に尊さに差異があると言えると思います。

にしむらもとい
@A
生命そのものではなく、そこに付随する社会的、市場的価値に注目すれば差があるというご意見は、非常にわかりやすく、おそらく正しいと思います。僕もそう思います。それに対して生命自体の尊さは定量化できないので比較できないということですね。
僕も表現はかなり自覚的に選択して問いかけを準備しました。生命の価値は等しいか。そういう聞き方をしませんでした。これだと、「価値の基準次第で等しくない」で終わってしまいます。価値とは、基準を持ち込めば定量化できるものだと思います。一方、尊さという表現は、正直、意味がわかりにくいと言いますか、人によって感じ方が違うものだと思います。何より、尊さというのは感じるその人のみにとっての「身体的感覚」だと思います。理屈ではなく感情とまで言っても良いでしょうか。そういう、極めて身体的で、一回性を含む再現不可能な概念は、定量化できない、あるいはしても意味がないと思います。だから僕も等しいという言葉を使いませんでした。平等という言葉は、単に等しいというのではなく、一様に等しく配分されていると「みなす」というところにポイントがある気がします。それが実際に等しいのかはさておき、そうみなす。つまり、「生命の尊さは平等か」は翻訳すると、「生命に対して感じる気持ちは皆に等しく配分されているものか」という意味になるかと思います。本来、尊さなんてものは測れるものではありませんので、誰がどう思おうがそれがそれぞれの尊さで、それは各人の自由です。ということは、これは正しい。僕はそう思います。
尊さは理屈ではない。それが全てですね。

■54

N
今週はレポート二発あったのでそれの処理に追われてました.適当に気になった問題から書いていきます.
生命の尊さは平等か?
Aさんの言う通り,人間の,今現在における「社会的価値」は等しくないと思います.例えば,僕と安倍総理のどちらかしか助けられないという状況を考えれば,安倍総理の方がいろいろできることが多いので安倍総理を優先して助ける方がいいという論には理解もできますし納得できます.ならなぜ僕は生命の尊さは平等であるといい,また社会も表面上にせよそれを標榜しているのかと考えますと,人間の「可能性」,つまりこれから先その人間が何を考えどのような行動を起こし,また何を成すのかという予測は誰にもできないし,また評価もできないからじゃないでしょうか.人間の「可能性」,「未知性」と言ってもいいと思いますが,それは誰にも肯定も否定もし得ないからこそ,「平等に扱うしか」現実的な方法が存在しないという結論に至り社会は今そのようになっているのだと考えます(社会学には詳しくないので人権という概念がどのように成立したのかはあまり知らないです)
次に僕が例にあげた「社会的価値」による生殺与奪をなぜ可能としたのかと述べますと,
それは「問題の解決」が目的だからだと考えます.様々な制約により解を見出さないといけない状況下の中で,「社会的価値」により優先度を変える解決策が一番「理解を得られやすい(納得しやすいとは違う)」からです.無論,「社会的価値」が人間の価値を全て語り尽くしているわけではないことも追記しておきます.まぁ僕の例も超極端ですけど.インフルエンサー()とかと比べられたら理解できないかもしれません(笑)
「生命の尊さは平等」と称しながら「社会的価値」による選定を許す姿勢は矛盾していると思われると思いますが,別に僕はそれが問題だと思ってもないし特に気にしてもいません.
各生命の価値をギリギリまで考えながら問題の解を探すその姿勢こそが大切だと思っているからです.
追記ですが,なぜ今日の社会はこれほどまでに「矛盾」を問題視するでしょうか.知性偏重主義(脳内本質論,論理絶対主義と言ってもいいかもしれません)の弊害だと思います.もっと知性は自由,自ずからに由るべきだと思います.岡潔の著作とかめっちゃ大好きですね.「僕は論理も計算もない数学をやってみたいと思っている」かっこいい.

にしむらもとい
@N 人間の持つ未知性の評価が不可能であるため、現実的には全ての人間の存在を平等に扱うしかない。非常に論理的な解釈ですね。ただ、それは生命の尊さではなく、人間が社会的生を最後まで全うした時にどんな社会的価値を残すかという「価値」の話になり、自身で否定しておられますが、PSYCHO-PASSシステムというアイデア(知らない方への注:アニメで用いられた、高度な演算で予測される可能性犯罪者は現時点で既に犯罪者とみなすというアイデアです)と容易につながるものです。実現可能かはあまり関係なく、そういう指向性を持てば、そういう社会に近づくと思います。僕は、尊さは定量化できる価値ではなく、単に在るか無いかというものであると思っています。等しいかと問わず、平等かと問うたのは、そういう理屈です。ともあれ、未知性、可能性で人間を見るというのは、俯瞰的で面白い視点だと思います。

■55

N
あと,「人間の未知性」をAIが完全に把握しきるのはたぶん不可能だと情報理工学部に所属している僕は思うのでPSYCHO-PASSシステムみたいな「AIみたいなのが人間の価値を評価する社会」っていうのは無理があると思います(笑)「価値を評価しているように見える社会」っていうのはできると思いますけどね.

■56

E
「尊さ」についてですが、人は、未知に対しては、「恐怖」または「尊さ」を感じるのでは、と思います。全ての生命が等しく尊いかについては、分からないですが(そもそも、私にはその判断が下せる身分ではない気が...)、どっちかといえば、等しく尊いと思います。少なくとも、神様の目線から判断すれば、そうなる気がします。しかし、ほとんどの人間にとってとって生命の本質の価値など興味がないと思うので社会的、文化的価値に目が向くと思います。
もしかしたら、神様的次元から見れば、非生物と生物の区別すらない気もします。(例えば)所詮は電荷を持つ粒子の運動であるといった具合に。もちろん私にはそのように見えず、コミュニティのみなさんひとりひとりが尊いです。(照)(自分でも何言ってるか分かりません笑)
只今受験の関係で物理、化学を勉強してますが、ワークショップを得て、多いに生物を勉強したくなりました。(勝手にしろよって話ですが)

にしむらもとい
@E どっちかといえば、全ての生命は等しく尊い。率直な意見をありがとうございます。価値を判断しにいってしまうと、どうしても社会的文化的なものになってしまい、生命の本質から離れてしまう。本質を人間が理解できるかはともかく、その気持ちもよくわかります。僕は、尊さというのは理屈(人間が物事を理解する体系)を超えたものだと思いますが、神様から見れば生物と非生物の区別もないという考えは、相当に俯瞰的感覚がなければ持てないものですね。神様より仏様の方が近いかもしれません。とても興味深い考えです。僕は神様でも仏様でもありませんが、このコミュニティ内では運営するというやや特別なポジションにおりますので、メンバーの皆さんに対して等しく尊さは感じています(照れない)

■57

C
■生命の尊さは平等か
 これまでの議論で生命の尊さは少なくとも各個人の内面においては決して平等ではない、というか平等であるという根拠はないという事が分かってきました。社会的にも、生命は法の下に平等でありながらも、実際の扱われ方は決して平等ではない部分があるというのは多くの方と同意見です。でも、『生命は個人の問題としても社会の問題としても平等ではない』と結論付けるにはまだ違和感を感じます。『私たちは少なくとも生命が平等である社会を求めているじゃないか』という疑問が残ります。実際の扱われ方が平等ではなくとも、指向する先が平等であるなら『生命は平等か』への解も部分的にはYESと言える可能性が残るんじゃないでしょうか。
 建前上、生命は平等であることを社会に求める態度は幸福に生きようとする個人にとってごく自然な態度であると思います。他者の生命よりも自身の生命のほうが尊い。でも、自分に求める基準は同時に他者に対しても当てはめないと相互に相互の生命を尊重する社会は成り立ちません。生命に対する態度は普遍的であることが要請されます。そうした社会をより強固に維持し続けるメリットが安楽死やその他生命の自己選択権のはく奪というデメリットを上回る限り、人類は『生命は平等である』という幻想をみんなで守り続けるんだと思います。
 戦争等の“例外”ケースもより悲惨な帰結を避けるため、という功利主義的ロジックでうまいこと自分自身をも騙しながら、整合性を付けていくんじゃないのかなと思います。
ということで、
生命の尊さは個人の内面においての感じ方は多様であるが、社会においては各個人が自身の生命について他者に求める倫理観を相互に受け入れるために、生命の尊さは平等であるという幻想を守り続けている。多少のひずみにはうまいこと目をつむっている。
という長ったらしいまとめで現時点ではFAしたいと思います。

にしむらもとい
@C
言葉の定義に自覚的であるということは、思考対象がエクストリームになればなるほど重要になってきます。既に少し述べましたが、平等という言葉は、Cさんが自然にそう使っておられる通り、等しいとみなす、等しさを与える、というニュアンスで定義されるものだと思います。定量的なものが対象であれば、「同じ分量」が与えられているかという意味になると思います。定量化できないものが対象であれば、皆がただ「持っているか」という話になると思います。その辺が、皆さんこんがらがって混同している気がします。僕は尊さは定量化できるものとは考えておらず、有るか無いかというものだと思います。だから、僕の聞き方でミスリードしてしまったかもしれません(多少の意図はありました) 全ての生命に尊さはあるか。こういう聞き方が、哲学的にはゼロ地点であると思います。それならもう少しシンプルに結論が出せたかもしれません。せっかくなので皆さんにいろいろ考えて欲しくて、敢えて違う聞き方をしました。翻訳すればほぼ同じ意味ですが。
社会全体の問題として、生命の取り扱いの「公平性」を保つために、テクニカルには生命の価値を「平等」とみなしている。それが現状だと思います。個(身体)の持つ素朴な感情と社会(脳神経が作り出した夢)が成立するための制度としての倫理、それは同一ではありません。個として生きる者は、皆、社会に感情を上書きされていくことになにがしかの抵抗を感じながら、社会に縛られしかし同時に社会に生かされ、そうやって人間は社会と一体化して進化しているのだと思います。生命の「価値」を等しく見積もるというのは幻想ですが、幻想で個の感情を上書きしなければ社会は成立しない。そういうことなのだろうと思います。

■58

C
・・・うーん。一生懸命考えたつもりなんだけど道徳の教科書に載ってそうな面白みの無い意見になってしまった。。難しい。
寝ます。

■59

にしむらもとい
生命倫理というのは、僕の中ではまあまあ考えるのに割いた時間が長いお話なので、ちょっと濃い目の味付けで話が進んでしまったかもしれません。それでは、目標としていたラストクエスチョン。是非、スーパーひとしくんを賭けて、皆さんの意見を書いてみて欲しいと思います。不思議発見! 

■60

にしむらもとい
ラストクエスチョン
「なぜ生命は尊いのか」
これは、選択式アンケートではなく、自分の言葉で頑張って答えを言語化してみて欲しいと思います。日曜日も余白として取ってありますので、土日の二日間でじっくり考えてみてください。

■61

K
まず私の答えを見ていきましょう。
スーパーヒトシくんは二個です。
【ヒト−ヒト間の関係において】
人が他人の生命を尊いと思うのは、つまるところ己の生命が尊いと思っていることの鏡写しになっていると思います。社会的価値に違いはあれど、純粋な命としての尊さが等しいと考えるならなおさらです。
【ヒト−多様な生物間の関係において】
まず、私達生物は他の生命を食べないと生きていけません。私たちのご飯となる生命も他の生命をくらい、その他の生命も、またほかの命を…。全ての生命が自分の生存活動に関わっていると考えた時、全ての生命に対する尊さが生まれます。自分を支えてくれるから、全ての生命は尊い。しかし、この論でいくと豚さんや馬さんの屠殺動画に心を痛める理由に説明がつかない。普通なら「やった!豚肉ができた!豚さんありがとう!」とはなりませんよね…。殺すことに抵抗がある時点で更なる高次元な理由がありそうですね。こっちはもう少し考えてみることにします。
「自らの生命は尊い」かつ「生命の尊さは平等」⇒「生命は尊い」

ではなぜ自らの生命は尊いのか?
こちらももう少し考えてみます。答えが不完全なのでボッシュートです。

■62

C
この1週間考えるだけ、未解決問題が増え続けたような気がします。
■生命はなぜ尊いのか?
 生命は尊いのか?という問いにYESである前提の問いだと思います。任意の生命についてそれが尊いのかどうか?という問い自体私にとってはヘビーな問題です。
私という生命がいて自身の命を大切に感じている。これが確信の持てる原点かなと思います。でもこの私の生命が本当に尊いものなのかどうかは私にはわかりません。本当は私は石ころで、誰も私の存在に尊さなど感じておらず、誰にも感知されない自意識のみで自己愛を持っているのだとすれば、滑稽です。そんな恐怖はあります。だからこそ、生命には等しく尊さが存在してほしいと願うのかもしれません。
 生命はなぜ尊いのか?それは自身の存在の尊さを願い、その証明を得るために人々が置いた公理と言えるのかもしれないと思いました。
 
出発点が自身だからこそ、その尺度も自身になる。動物の生命に尊さを感じられるのも自身との類似性を感じられるからだしそれは痛みであったり表情であったりする。Boston Dynamicsの作業ロボットにも尊さは存在する。人間自身がゲノム編集やその他進歩を通して変化し続け、AI技術も進歩し続ける中で自身との類似性で捉える“生命の尊さ”はどんどん変化していくのだろうと思います。

■63

E
本当に生命が尊いのかという疑問も少しよぎりますが、尊いと思ってる自分は少なくともいるので、尊いと思ってるとします。
神的次元からみると生命が特別尊いなんてことは無いのでは、と思うので、「なぜ、Eの脳が、生命が尊く感じるのか」について考えてみました。まず、自分は今生きているのは事実だと思います。そして、生きている状態を保つには、何かしら自分の存在を活気的にする(生きることに対し背中を押してくれる)マインドが必要だと思います。生きているからです。そのマインドにおいて、自分を含む生命が尊いと思うことは重要な位置を占めていると思います。この場合の「尊さ」とは、「やっぱ、俺、みんなよりスゲー」みたいなニュアンスのモノは一つも無く、仏的な感情のものとします。きっと本気で死にたいと思ってる人が生命は尊いなんて思っていないでしょう。我々が生きているからこその感情だと思います。
少なくとも私は、「われわれがどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか」という問いには一生答えられないような気がするので、この、仏的な、「愛」的な思想に頼って生きること以外に無いような気がします。しかし、これは幸せなことかも知れません。

■64

A
質問を少し長くしてみました。
「なぜ、「(自分の)生命は尊い」という本来は拡張不可能な極めて個人的な感情を、自分以外の生命に対して感じることがあるのだろうか?」
これは、人間がヒト以外の生物を含めた極めて広いコミュニティを形成するようになった結果かと思います。そもそもヒトほど多く生命を区別して認識している生物も少ないように感じます(本当にそうなのかは分かりませんが)
自分以外のヒト含め他の生命とコミュニティを形成するためには、当然その生命を大切にする必要がありますから(しなければ崩壊してしまいます)あくまで「類推適用」という形で、社会的営みを形成する過程で自分以外の生命に対して尊さを感じる機能が備わったのだと思います。

■65

にしむらもとい
(本来日曜20時までですが念の為0時過ぎくらいまで待ってから締めます。良かったらそれまでにご意見をどーぞ。)

■66

F
今目の前で寝ているネコを見て思ったのですが、このネコは生命が尊いと感じているでしょうか?答えはNOです。理由はないです。
すなわち「生命が尊い」という考えは主観的なものだも思います。つまり尊くないかもしれない。
少しふざけましたが要するに僕が言いたいことは、人間という非常に知能の高い利己的な生物が自らを生きやすくするためにその本能に「生命は尊い」と叫ばせてる気がしました。これまた論理的な理由はないです。この一週間でそう思いました。
上でも言われていたようにこれは公理だから(パクリ)、「生命は尊くない」かもしれないならそれ前提で思考を重ねてきた誰かに話を聞くしかないのかもしれませんね。

■67

D
生物として生まれてきて「しまい」、持って生まれてきて「しまった」高い知能でそのことを明確に自覚してしまっていることにより、人間は死ぬ前から「死」について考える必要に迫られていると考えます。そこで未知のものへの恐怖がはたらいて、このまま生きたい→自分の生命は維持しなければならない→自分の生命は尊いというように心で感じるのだと思います。
このときに他人の命を軽んじてしまうと、同レベルの知能を持った他人から自己の命を軽く見られて危機に晒されてしまう可能性があるので、みんなでみんなの命を出来るだけ維持しようとするために「(同じ共同体内の)ヒトはみんな平等に生命は尊い」という共通認識を生み出したのだと思います。
このグローバル社会では共同体が世界規模にならざるを得ないので、結果的にヒトの命はみな平等に尊いということになっているのでしょう。
僕は感受性に乏しいためなのか、ペットを飼ったことがないからなのか分かりませんが、他の動物に対してヒトへの態度と同じように生命の尊さを感じたことがありません。多少はあっても、死んだところで明日にはケロッとできる自信があります。他の動物に感じる生命の尊さは、特に因果関係があるわけではなく、「ヒトに感じるということは他の動物にも生命の尊さを感じるべきだろう」という深層心理からくるものなのではないかと現時点では感じています。
なかなかヘビーな話題で全てを1週間で処理しきれませんでしたが、考えさせられるいい機会になりました。

■68

にしむらもとい
生命は尊い。これは、僕の中では自明なことです。いやいや、本当に? では、もう少し丁寧に表現しますと、僕は、「生命は尊い」という言語表現はトートロジー(同語反復、つまり無条件に正しい)である気がしています。えっ?
僕は、「生きている」と「尊い」は、同値だと感じます。は?
「僕は生きている」⇔「僕は尊い」……
「ゲジゲジは生きている」⇔「ゲジゲジは尊い」!?
もし、そうだとするなら(ズルくない?)
「生命」⇔「生きているもの」⇔「尊いもの」
「生命は尊い」⇔「尊いものは尊い」
完全にトートロジー(尊ろじー)です(はい?)
これは、感覚の範疇の問題で、説明は困難というか、少なくとも一言で説明できることではありません。僕自身、地獄のように「言語」と格闘し続けた果てに行き着いた感覚です。なので、一応この問いに答えることを目標として一週間過ごしていただいたわけですが、敢えて答えは風に吹かれたまま保留にしておきます。下手に触って原形を壊すより、せっかく考えていただいた皆さんのアイデアの原形を風に吹かれたまま「ここ」においておきます。皆に考えていただいたその経験こそが貴重なことと、いまは言っておきます。そして、いつかまたもう一度答えを見に帰ってくることにしましょう。答えは新しい場所を目指すのか。ずっと「ここ」にあるのか。
問いとは、もしそれが「問い」として成立しているなら、必ず答えがあるものです。問いにいつも答えがあるなどと思うな。そんなことがよく言われますが、僕はそれは違うと思います。「問い」には、解なしまで含めて、必ず答えがある。答えがないとしたら、それはそもそも「問い」の形を為していないということだと思います。僕が問うたこの問いは、「問い」として成立していたのかいなかったのか。
以上、ほんの少しでも、何らかの「経験」を伝えられたことを願いつつ、今週のワークショップはこれにてお開きといたします。面倒なテーマに、一週間お付き合いいただいて、ありがとうございました。そして、お疲れ様でした。

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