「あたり前」を「あたり前」にしない
朝、起きる。
部屋の脇にある大きな窓ガラスから日光が差し込み
枕元に注がれる光がやがて目元まで到達し、
夢の残滓が霧散すると共に意識が覚醒する。
GW最終日、今日は比較的よく寝れた方だ。
せっかく気分よく眠れたのだから、と気まぐれにこうやってNoteを書く。
ここ最近たくさんの「あたり前」を意識できるようになった。
というのも、ずっと寝れない日が続いていたから。
夜になって布団にこもって目を瞑っても、一向に意識が深い海の中に落ちていかず、ただ悶々とした時を過ごす。そのうちに朝になり光が入ってくる。
そんな毎日を繰り返していた僕にとって、今日の心地よい目覚めは決して
「あたり前」のものではなかった。
「失って初めてその大切さに気づく」なんていうけれど、失って初めて気づくものは、「失ったもの」だけではなく、その周辺にある事象も含めたものなのではないか、と最近思う。
「失った」直後は「失ったもの」だけに目が向くのだけれども、時間が経つにつれて「あれもダメになった」「これもできなくなった」と別の物事にも喪失感が派生していく。
なぜかといえば、理由は簡単で。
僕たちが感じることの大半は「人(自分も含めて)」が関わることだから。
なので、「人」に関わる何かが失われると、火事の際に火が隣の家屋にもらい火をするように、別の事象にも派生していってしまうのだ。
僕が「ぐっすり眠れること」の大切さを感じた朝、カレーを食べている時に、ふと頭の中を通り過ぎた概念があった。
「こうやって朝ごはんを食べていること
今、心臓が動いて生きていること」も
あたり前のことじゃないんだなあ。
ということ。
なんの因果か僕たちは自分の母親の胎内で1年ほど育ち、無事生まれてきたそんな神秘な動物なのだけれど、その神秘さゆえか、いつの間にか生まれてきたことや、生の中で起こる事象において見ないふりをして「あたり前」と思っていることが多い。
「あたり前」だと、「絶対に起こること」だと、「そこにあるもの」だと思い込んでいるから、多少自分が無茶をしたり、リスクを冒しても、なんやかんや失うことはないだろう、という思考をしてしまう。
例えば、ブラック企業で何日間も徹夜をしてしまったり。
精神的にダメージを負わせてくる相手と嫌々付き合ったり。
なんとかなるだろう、と飲酒運転をしてしまったり。
体に悪いと知りながらもタバコを吸いすぎてしまう。
枚挙にいとまがないほどたくさんの危険を孕んだ行為を、平気で日常的にこなしているのだ。
もちろん、これらを絶対にするな!ということではない。
一時的にでもリスクを冒さないといけないケースはたくさんあるし、
いたずらに禁欲的になっても、それこそ精神的によくない
僕たちが意識した方がいいと思うのは、
「リスクを把握した上で」
「あらゆることがあたり前じゃないということを認識」した上で、
行為に及ぶことなのかな、と思う。
めまぐるしくすぎていく毎日の中、立ち止まって自分の行動を振り返り、
自分の「あたり前」が「あたり前」ではないことを認識するのは、確かにめんどくさいかもしれないけれど、
「あたり前」がそこにあることを「あたり前」にしてしまったら、
もうどうしようもないと思うのだ。
この記事を最後まで書けたのも、なんとか僕が今生きているからで。
もしかしたら今どこかで、記事を書いている途中で「あたり前」を失っている人がいるかもしれない。
そう考えると今、こうしていられることがとてつもなくありがたいと思えるし、今に心から感謝したいという気持ちになる。
今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
ここまで読んでくださったのも、あたり前じゃない。
読者さんにはいつも、とてつもないエネルギーをもらっているのです。
感謝。
皆さんのお気持ちを、こっそり置いていっていただければ。小さな幸せ、これからも皆さんに与えます。