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習作 西新宿の親父の唄

 ふーっと吹き出した煙が細く昇っていく向こう側に、同じように見えたもう一条の煙はその下にある煙突から立ち上っていた。空はよく晴れていたが、風のないわりに気温はそれほど高くない。いい日和だった。

「よっ、来てたのか。髪切ったんだな、誰かと思ったよ」 
 
 式場の外に作られた喫煙所で、一人煙草を吸っていたところへ声をかけてきたのは顔なじみの「よっちゃん」だった。本名は知らない。こちらも話したことはない。共に「親父」の店の常連で、狭い店のこと何度か顔を合わせるうちに、馬が合ったのか言葉を交わす仲になっていた。

 どうも、と軽く頭を下げて挨拶をする。はっきり確かめたわけではないが何となく年上のような気がして、ごく自然に先輩にでも対するかのような態度になっていた。「よっちゃん」のほうも、こちらが下手に出たからと行ってそれを傘に着るでもなく自然に接してくれたのだから、そういった部分も自分よりも大人の態度だと思えた。

 「来る前に店の前通ったんだけどさ、もう解体始まってた」

 そうすか、と短く答えて煙草を深く吸い込む。よっちゃんのほうも、別に大げさに驚いて見せることなど期待はしていなかったのだろう。同じように、煙突から立ち上る煙を眺めて煙草を吸いこみ、そして大きくため息をつくように吐き出した。

「あの辺、でかいビル立てて複合商業施設とか作るんだってな」

 うなづいてまた煙草を吸う。現在の消防法にはとうに合致しなくなっていた古い建物の一角で営業していた親父の店も、かなり以前から立ち退きを求められていたはずだ。いい時に死んだなどといえば言葉は悪くなるが、調理の合間には医者に止められていた煙草を平気でふかしては「俺の命もそろそろかな」などと嘯いていたことを思えば、本人も長生きをしたいなどとは考えていなかったのだろうと思う。

 西新宿にあった親父の店は、美味い料理が同様にうまい酒とともに安く食べられることが評判で、狭い店は毎晩のように賑わい、口の悪い親父に説教をされながら酒を飲むことすらも常連たちの楽しみのひとつであった。

「このあとさ、暇なら飲みに行かないか?」

 親父の店はなくなったとは言え他に店がないわけでないし、誘いはありがたかったが、あいにく都合が悪かった。このあとすぐ、しばらく東京を離れるのだと告げるとよっちゃんは

「失恋でもしたか??」

 笑いながら茶化すよっちゃんに、違いますよ、と苦笑しながら説明する。昔世話になった人が、小さいながらも音楽教室を経営している。経営もそこそこはうまくいっているのだが、年齢のこともあり引退を考えている、と。それで継手を探しているのだが、このご時世そうそう引き受けようという物好きはおらず回り回って話が来た、と。

「そっか、音楽やってたんだっけ」

 売れませんでしたけどね、と言葉とともにふーっと長く吹くようにたばこの煙を吐き出した。ギターの他には薄っぺらいボストンバッグを一つだけもって地元を飛び出し、もう何年になるか。数えるのは、とうの昔にやめてしまっていた。ろくに挨拶もせずに地元を離れた自分に、どういうつてを頼ったか連絡先を突き止め、それでも微かな望みを託してくれたと思えば無下にはできなかった。

 「そうか……寂しくなるな。お前にゃ一番に食わせたかったんだが」
 「?」

 言葉の意味を図りかねて、あらためてよっちゃんを見る。いつものようにノータイだが、いつものようにシャツもジャケットも安物には見えない。かといって気障でも嫌味でもなく着こなす秘密を、ずっと知りたかった。右手にタバコ、左手に……よっちゃんが大事そうに抱えている包みに気づく。新聞紙に包まれているようだが、はみ出した柄には見覚えがあった。

「それって」
「ああ、親父のだ。店の前にまとめで出してあってな。もらってきた」

 ニヤリと笑って答えるよっちゃん。

「一応話は通したぜ。どうせ捨てるしかないからってな」

 まだ式が続いている斎場を顎でしゃくようにする。よっちゃんが持っていたのは、包丁だった。事情を知らないものがみれば、ただの使い古した包丁でしかないだろう。しかし俺には、俺たちにとってはかけがえのないものだった。

 長年使いこまれ、様々な食材を切っては研ぎ研いでは切ったその包丁は、今やフルーツナイフにも満たないほどにまですり減っていた。もとは、そう、自分が親父の店に通い始めたもう何十年か前には、一般的な大きさの出刃包丁だった。はずだ。

 その包丁で捌かれた、「出世払いでいいからとっとと食え」と半ば脅すように言われて食べた鯛の、どれほど美味かったことか。いまだに、あれを超える鯛を味わったことはない。ついでに言えば出世もできなかったし、はっきりその分として代金を支払ったこともなかった。

 しかし、よっちゃんが料理をするとは聞いたことがなかった。

「料理、できるんすか」
「これからやるんだよ。」

包丁を手に、構えて見せた。晒に巻いて、板場の修行にでも出るつもりだろうか。

「やるなら今しかねえ。だろ?」

 それは、親父の口癖だった。

やるなら今しかねえ。

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